筑摩eブックス    江戸川乱歩全短篇1 本格推理㈵ [#地から2字上げ]江戸川乱歩著 [#地から2字上げ]日下三蔵 編   目次  二銭銅貨  心理試験  恐ろしき錯誤  D坂の殺人事件  火繩銃  黒手組  夢遊病者の死  幽霊 ㈼  指環  日記帳  接吻  モノグラム  算盤が恋を語る話  妻に失恋した男  盗難 ㈽  断崖  兇器  疑惑  一枚の切符  二癈人  灰神楽  石榴   著者による作品解説   編者あとがき 日下三蔵     ㈵     二銭銅貨      上 「あの泥棒が羨ましい」二人のあいだにこんな言葉がかわされるほど、そのころは窮迫していた。場末の貧弱な下駄屋の二階の、ただひと間しかない六畳に、一閑張りの破れ机を二つならべて、松村|武《たけし》とこの私とが、変な空想ばかりたくましくして、ゴロゴロしていたころのお話である。もうなにもかも行き詰まってしまって、動きの取れなかった二人は、ちょうどそのころ世間を騒がせていた、大泥棒の巧みなやり口を羨むような、さもしい心持になっていた。  その泥棒事件というのが、このお話の本筋に大関係を持っているので、ここにざっとそれをお話ししておくことにする。  芝区のさる大きな電機工場の職工給料日の出来事であった。十数名の賃銀計算係りが、五千人近い職工のタイム・カードから、それぞれ一カ月の賃銀を計算して、山と積まれた給料袋の中へ、当日銀行から引き出された、大トランクに一杯もあろうという、二十円、十円、五円などの紙幣を汗だくになって詰め込んでいるさなかに、事務所の玄関へ一人の紳士が訪れた。  受付の女が来意をたずねると、私は朝日新聞社の記者であるが、支配人にちょっとお目にかかりたいという。そこで女が東京朝日新聞社社会部記者と肩書のある名刺を持って、支配人にこのことを通じた。幸いなことには、この支配人は新聞記者操縦法がうまいことを、ひとつの自慢にしている男であった。のみならず、新聞記者を相手に、ほらを吹いたり、自分の話が何々氏談などとして、新聞に載せられたりすることは、おとなげないとは思いながら、誰しも悪い気持はしないものである。社会部記者と称する男は、快く支配人の部屋へ請じられた。  大きな鼈甲縁の目がねをかけ、美しい口髭をはやし、気のきいた黒のモーニングに、流行の折鞄といういでたちのその男は、いかにも物慣れた調子で、支配人の前の椅子に腰をおろした。そしてシガレット・ケースから、高価なエジプトの紙巻煙草を取り出して、卓上の灰皿に添えられたマッチを手際よく擦ると、青味がかった煙を、支配人の鼻先へフッと吹き出した。 「貴下の職工待遇問題についての御意見を」とか、なんとか、新聞記者特有の、相手を呑んでかかったような、それでいて、どこか無邪気な、人懐っこいところのある調子で、その男はこう切り出した。そこで支配人は、労働問題について、多分は労資協調、温情主義というようなことを、大いに論じたわけであるが、それはこの話に関係がないから略するとして、約三十分ばかり支配人の室におったところの、その新聞記者が、支配人が一席弁じ終って、「ちょっと失敬」といって便所に立ったあいだに、姿を消してしまったのである。  支配人は、不作法なやつだくらいで、別に気にもとめないで、ちょうど昼食の時間だったので、食堂へと出掛けて行ったが、しばらくすると、近所の洋食屋から取ったビフテキかなんかを頬ばっていたところの支配人の前へ、会計主任の男が、顔色を変えて飛んできて、報告することには、 「賃銀支払いの金がなくなりました。とられました」  というのだ。驚いた支配人が、食事などはそのままにして、金のなくなったという現場へきて調べてみると、この突然の盗難の仔細は、だいたい次のように想像することができたのである。  ちょうどその当時、工場の事務室が改築中であったので、いつもならば、厳重に戸締まりのできる特別の部屋で行なわれるはずの賃銀計算の仕事が、その日は、仮りに支配人室の隣の応接間で行なわれたのであるが、昼食の休憩時間に、どうした物の間違いか、その応接間が|空《から》になってしまったのである。事務員たちは、お互に誰か残ってくれるだろうというような考えで、一人残らず食堂へ行ってしまって、あとにはシナ鞄に充満した札束が、ドアには鍵もかからない部屋に、約半時間ほども、ほうり出されてあったのだ。そのすきに、何者かが忍び入って、大金を持ち去ったものにちがいない。それも、すでに給料袋に入れられた分や、細かい紙幣には手もつけないで、シナ鞄の中の二十円札と十円札の束だけを持ち去ったのである。損害高は約五万円であった。〔註、今の二千万円ほど〕  いろいろ調べてみたが、結局、どうもさっきの新聞記者が怪しいということになった。新聞社へ電話をかけてみると、やっぱり、そういう男は本社員の中にはないという返事だった。そこで、警察へ電話をかけるやら、賃銀の支払を延ばすわけにはいかぬので、銀行へ改めて二十円札と十円札の準備を頼むやら、大へんな騒ぎになったのである。  かの新聞記者と自称して、お人よしの支配人に無駄な議論をさせた男は、実は、当時、新聞が紳士盗賊という尊称をもって書き立てていたところの、有名な大泥棒であったのだ。  さて、所轄警察署の司法主任その他が臨検して調べてみると、手掛りというものがひとつもない。新聞社の名刺まで用意してくるほどの賊だから、なかなか一筋繩で行くやつではない。遺留品などあろうはずもない。ただひとつわかっていたことは、支配人の記憶に残っているその男の容貌風采であるが、それが甚だたよりないのである。というのは、服装などはむろん取りかえることができるし、支配人がこれこそ手掛りだと申し出たところの、鼈甲縁の目がねにしろ、口髭にしろ、考えてみれば、変装には最もよく使われる手段なのだから、これも当てにはならぬ。そこで、仕方がないので、めくら探しに、近所の車夫だとか、煙草屋のおかみさんだとか、露店商人などいう連中に、かくかくの風采の男を見かけなかったか、若し見かけたらどの方角へ行ったかと尋ねまわる。むろん市内の各巡査派出所へも、この人相書きが廻る。つまり非常線が張られたわけであるが、なんの手ごたえもない。一日、二日、三日、あらゆる手段が尽された。各駅には見張りがつけられた。各府県の警察署へは依頼の電報が発せられた。こうして、一週間が過ぎさったけれども賊は挙がらない。もう絶望かと思われた。かの泥棒が、何か別の罪をでも犯して挙げられるのを待つよりほかはないかと思われた。工場の事務所からは、その筋の怠慢を責めるように、毎日毎日警察署へ電話がかかった。署長は自分の罪ででもあるように頭を悩ました。  そうした絶望状態の中に、一人の同じ署に属する刑事が、市内の煙草屋の店を一軒ずつ丹念に歩きまわっていた。  市内には、舶来の煙草をひと通り備え付けているという煙草屋が、各区に、多いのは数十軒、少ない所でも十軒内外はあった。刑事はほとんどそれを廻りつくして、今は、山の手の牛込と四谷の区内が残っているばかりであった。きょうはこの両区を廻ってみて、それで目的を果たさなかったら、もういよいよ絶望だと思った刑事は、富籤の当り番号を読むときのような、楽しみとも恐れともつかぬ感情をもって、テクテク歩いていた。時々交番の前で立ち止まっては、巡査に煙草屋の所在を聞きただしながら、テクテクと歩いていた。刑事の頭の中は FIGARO, FIGARO, FIGARO と、エジプト煙草の名前で一杯になっていた。ところが、牛込の神楽坂に一軒ある煙草屋を尋ねるつもりで、飯田橋の電車停留所から神楽坂下へ向かって、あの大通りを歩いていたときであった。刑事は、一軒の旅館の前で、フト立ち止まったのである。というのは、その旅館の前の、下水の蓋を兼ねた御影石の敷石の上に、よほど注意深い人でなければ目にとまらないような、ひとつの煙草の吸殼が落ちていた。そして、なんとそれが、刑事の探しまわっていたところのエジプト煙草と同じものだったのである。  さて、このひとつの煙草の吸殼から足がついて、さしもの紳士盗賊もついに獄裡の人となったのであるが、その煙草の吸殼から盗賊逮捕までの径路に、ちょっと探偵小説じみた興味があるので、当時のある新聞には、続き物になって、そのときの何某刑事の手柄話が載せられたほどであるが——この私の記述も、実はその新聞記事に拠ったものである——私はここには、先を急ぐために、ごく簡単に結論だけしかお話ししている暇がないことを残念に思う。  読者も想像されたであろうように、この感心な刑事は、盗賊が工場の支配人の部屋に残して行ったところの、珍らしい煙草の吸殼から探偵の歩を進めたのである。そして、各区の大きな煙草屋をほとんど廻りつくしたが、たとえ同じ煙草を備えてあっても、エジプトの中でも比較的売行きのよくない、その FIGARO を最近に売ったという店はごく僅かで、それがことごとく、どこの誰それと、疑うまでもないような買い手に売られていたのである。ところがいよいよ最終という日になって、今もお話ししたように、偶然にも、飯田橋附近の一軒の旅館の前で、同じ吸殼を発見して、実は、あてずっぽうに、その旅館に探りを入れてみたのであるが、それがなんと僥倖にも、犯人逮捕の端緒となったのである。  そこで、いろいろ苦心の末、たとえば、その旅館に投宿していたその煙草の持ち主が、工場の支配人から聞いた人相とはまるで違っていたりして、だいぶ苦労をしたのであるが、結局、その男の部屋の火鉢の底から、犯行に用いたモーニングその他の服装だとか、鼈甲縁の目がねだとか、つけ髭だとかを発見して、逃がれぬ証拠によって、いわゆる紳士泥棒を逮捕することができたのである。  で、その泥棒が取り調べを受けて白状したところによると、犯行の当日——もちろん、その日は職工の給料日と知って訪問したのだが——支配人の留守のまに、隣の計算室にはいって例の金を取ると、折鞄の中にただそれだけを入れておいたところの、レインコートとハンチングを取り出して、その代りに、鞄の中へは、盗んだ紙幣の一部分を入れて、目がねをはずし、口髭をとり、レインコートでモーニング姿を包み、中折れの代りにハンチングをかぶって、きたときとは別の出口から、何くわぬ顔をして逃げ出したのであった。あの五万円という紙幣を、どうして、誰にも疑われぬように、持ち出すことができたかという訊問に対して、紳士泥棒がニヤリと得意らしい笑いを浮かべて答えたことには、 「わたしどもは、からだじゅうが袋でできています。その証拠には、押収されたモーニングを調べてごらんなさい。ちょっと見ると普通のモーニングだが、実は手品使いの服のように、付けられるだけの隠し袋が付いているんです。五万円くらいの金を隠すのはわけはありません。シナ人の手品使いは、大きな、水のはいったどんぶり鉢でさえ、からだの中へ隠すではありませんか」  さて、この泥棒事件がこれだけでおしまいなら、別段の興味もないのであるが、ここにひとつ、普通の泥棒とちがった妙な点があった。そして、それが私のお話の本筋に、大いに関係があるわけなのである。というのは、この紳士泥棒は、盗んだ五万円の隠し場所について、一ことも白状しなかったのである。警察と、検事廷と、公判廷と、この三つの関所で、手を換え品を換えて責め問われても、彼はただ知らないの一点張りで通した。そしておしまいには、その僅か一週間ばかりのあいだに、使い果たしてしまったのだというような、でたらめをさえ言い出したのである。その筋としては、探偵の力によって、その金のありかを探し出すほかはなかった。そして、ずいぶん探したらしいのであるが、いっこう見つからなかった。そこで、その紳士泥棒は、五万円隠匿のかどによって、窃盗犯としては可なり重い懲役に処せられたのである。  困ったのは被害者の工場である。工場としては、犯人よりは五万円を発見してほしかったのである。もちろん、警察の方でも、その金の捜索をやめたわけではないが、どうも手ぬるいような気がする。そこで、工場の当の責任者たる支配人は、その金を発見したものには、発見額の一割の賞を懸けるということを発表した。つまり五千円〔註、今の二百万円ほど〕の懸賞である。  これからお話ししようとする、松村武と私自身とに関するちょっと興味のある物語は、この泥棒事件がこういうふうに発展しているときに起こったことなのである。      中  この話の冒頭にもちょっと述べたように、そのころ、松村武と私とは、場末の下駄屋の二階の六畳に、もうどうにもこうにも動きがとれなくなって、窮乏のドン底に沈んでいたのである。でも、あらゆるみじめさの中にも、まだしも幸運であったのは、ちょうど時候が春であったことだ。これは貧乏人だけにしかわからない、ひとつの秘密であるが。冬の終りから夏のはじめにかけて、貧乏人はだいぶ儲けるのである。いや、儲けたと感じるのである。というのは、寒いときだけ必要であった、羽織だとか、下着だとか、ひどいのになると、夜具、火鉢の類に至るまで、質屋の蔵へ運ぶことができるからである。私どもも、そうした気候の恩恵に浴して、あすはどうなることか、月末の間代の支払いはどこから捻出するか、というような先の心配をのぞいては、先ずちょっと息をついたのである。そして、しばらくは遠慮しておった銭湯へも行けば、床屋へも行く、飯屋ではいつもの味噌汁と香の物の代りに、さしみで一合かなんかを奮発するといったあんばいであった。  ある日のこと、いい心持になって、銭湯から帰ってきた私が、傷だらけの毀れかかった一閑張りの机の前に、ドッカと坐ったときに、一人残っていた松村武が、妙な、一種の興奮したような顔つきをもって、私にこんなことを聞いたのである。 「君、この、僕の机の上に二銭銅貨をのせておいたのは君だろう。あれは、どこから持ってきたのだ」 「ああ、おれだよ。さっき煙草を買ったおつりさ」 「どこの煙草屋だ」 「飯屋の隣の、あの婆さんのいる不景気なうちさ」 「フーム、そうか」  と、どういうわけか、松村はひどく考えこんだのである。そして、なおも執拗にその二銭銅貨について訊ねるのであった。 「君、そのとき、君が煙草を買ったときだ、誰かほかにお客はいなかったかい」 「確か、いなかったようだ。そうだ。いるはずがない、そのときあの婆さんは居眠りをしていたんだ」  この答えを聞いて、松村はなにか安心した様子であった。 「だが、あの煙草屋には、あの婆さんのほかに、どんな連中がいるんだろう。君は知らないかい」 「おれは、あの婆さんとは仲よしなんだ。あの不景気な仏頂面が、妙に気に入っているのでね。だから、おれは相当あの煙草屋については詳しいんだ。あそこには婆さんのほかに、婆さんよりはもっと不景気な爺さんがいるきりだ。しかし、君はそんなことを聞いてどうしようというのだ」 「まあいい。ちょっとわけがあるんだ。ところで君が詳しいというのなら、もう少しあの煙草屋のことを話さないか」 「ウン、話してもいい。爺さんと婆さんとのあいだに一人の娘がある。おれは一度か二度その娘を見かけたが、そう悪くないきりょうだぜ。それがなんでも、監獄の差入屋とかへ嫁入っているという話だ。その差入屋が相当に暮らしているので、その仕送りで、あの不景気な煙草屋も、つぶれないで、どうかこうかやっているのだと、いつか婆さんが話していたっけ……」  私が煙草屋に関する知識について話しはじめたときに、驚いたことには、それを話してくれと頼んでおきながら、もう聞きたくないといわぬばかりに、松村武が立ち上がったのである。そして、広くもない座敷を、隅から隅へ、ちょうど動物園の熊のように、ノソリノソリと歩きはじめたのである。私どもは、二人とも、日頃からずいぶん気まぐれなほうであった。話のあいだに突然立ち上がるなどは、そう珍らしいことでもなかった。けれども、この場合の松村の態度は、私をして沈黙せしめたほども、変っていたのである。松村はそうして、部屋の中をあっちへ行ったり、こっちへ行ったり、約三十分くらい歩きまわっていた。私はだまって、一種の興味を持って、それを眺めていた。その光景は、若し傍観者があって、これを見たら、おそろしく気ちがいじみたものであったにちがいないのである。  そうこうするうちに、私は腹がへってきたのである。ちょうど夕食時分ではあったし、湯にはいった私は余計に腹がへったような気がしたのである。そこで、まだ気ちがいじみた歩行を続けている松村に、飯屋に行かぬかと勧めてみたところが、「すまないが、君一人で行ってくれ」という返事だ。仕方なく、私はその通りにした。  さて、満腹した私が、飯屋から帰ってくると、なんと珍らしいことには、松村が按摩を呼んで、もませていたではないか。以前は私どものお馴染であった若い盲唖学校の生徒が、松村の肩につかまって、しきりと何か、持ち前のおしゃべりをやっているのであった。 「君、贅沢だと思っちゃいけない。これにはわけがあるんだ。まあ、しばらく黙って見ていてくれ、そのうちにわかるから」  松村は、私の機先を制して、非難を予防するようにいった。きのう、質屋の番頭を説きつけて、むしろ強奪して、やっと手に入れた二十円なにがしの共有財産の寿命が、按摩賃六十銭だけ縮められることは、この際、贅沢にちがいなかったからである。  私は、これらの、ただならぬ松村の態度について、或る言い知れぬ興味を覚えた。そこで、私は自分の机の前に坐って、古本屋で買ってきた講談本か何かを、読みふけっている様子をした。そして、実は松村の挙動をソッと盗み見ていたのである。  按摩が帰ってしまうと、松村は彼の机の前に坐って、何か紙きれに書いたものを読んでいるようであったが、やがて彼は懐中からもう一枚の紙切れを取り出して、机の上に置いた。それは、ごく薄い二寸四方ほどの小さな紙切れで、細かい文字が一面に書いてあった。彼はこの二枚の紙片を、熱心に比較研究しているようであった。そして、鉛筆で新聞紙の余白に、何か書いては消し、書いては消ししていた。そんなことをしているあいだに、電灯がついたり、表通りを豆腐屋のラッパが通り過ぎたり、縁日にでも行くらしい人通りが、しばらく続いたり、それが途絶えると、シナ蕎麦屋の哀れげなチャルメラの音が聞こえたりして、いつの間にか夜が更けたのである。それでも、松村は食事さえ忘れて、この妙な仕事に没頭していた。私はだまって自分の床を敷いて、ゴロリと横になると、退屈にも、一度読んだ講談本を、さらに読み返しでもするほかはなかったのである。 「君、東京地図はなかったかしら」  突然、松村がこういって、私の方を振り向いた。 「さア、そんなものはないだろう。下のおかみさんにでも聞いてみたらどうだ」 「ウン、そうだね」  彼はすぐに立ち上がって、ギシギシという梯子段を、下へ降りて行ったが、やがて、一枚の折り目から破れそうになった東京地図を借りてきた。そして、また机の前に坐ると、熱心な研究をつづけるのであった。私はますます募る好奇心をもって、彼の様子を眺めていた。  下の時計が九時を打った。松村は、長いあいだの研究が一段落を告げたと見えて、机の前から立ち上がって、私の枕もとへ坐った。そして少し言いにくそうに、 「君、ちょっと、十円ばかり出してくれないか」  というのだ。私は松村のこの不思議な挙動については、読者にはまだ明かしてないところの、深い興味を持っていた。それゆえ、彼に十円〔註、今の四千円ほど〕という、当時の私どもに取っては、全財産の半分であったところの大金を与えることに、少しも異議を唱えなかった。  松村は、私から十円札を受け取ると、古袷一枚に、皺くちゃのハンチングといういでたちで、何もいわずに、プイとどこかへ出て行った。  一人取り残された私は、松村のその後の行動についていろいろ想像をめぐらした。そして独りほくそ笑んでいるうちに、いつか、ついうとうとと夢路に入った。しばらくして松村の帰ったのを、夢うつつに覚えていたが、それからは、何も知らずに、グッスリと朝まで寝込んでしまったのである。  ずいぶん朝寝坊の私は、十時頃でもあったろうか、眼を醒ましてみると、枕もとに妙なものが立っているのに驚かされた。というのは、そこには縞の着物に、角帯を締めて、紺の前垂れをつけた一人の商人風の男が、ちょっとした風呂敷包みを背負って立っていたのである。 「なにを妙な顔をしているんだ。おれだよ」  驚いたことには、その男が、松村武の声をもって、こういったのである。よくよく見ると、それはいかにも松村にちがいないのだが、服装がまるで変っていたので、私はしばらくのあいだ、何がなんだか、わけがわからなかったのである。 「どうしたんだ。風呂敷包みなんか背負って。それに、そのなりはなんだ。おれはどこの番頭さんかと思った」 「シッ、シッ、大きな声だなあ」松村は両手で抑えつけるような恰好をして、ささやくような小声で、「大へんなお土産を持ってきたよ」というのである。 「君はこんなに早く、どこかへ行ってきたのかい」  私も、彼の変な挙動につられて、思わず声を低くして聞き返した。すると、松村は、抑えつけても抑えつけても、溢れ出すようなニタニタ笑いを、顔一杯にみなぎらせながら、彼の口を私の耳のそばまで持ってきて、前よりはいっそう低い、あるかなきかの声で、こういったものである。 「この風呂敷包みの中には、君、五万円という金がはいっているのだよ」      下  読者もすでに想像されたであろうように、松村武は、問題の紳士泥棒の隠しておいた五万円を、どこからか持ってきたのであった。それは、かの電機工場へ持参すれば、五千円の懸賞金にあずかることのできる五万円であった。だが、松村はそうしないつもりだといった。そして、その理由を次のように説明した。  彼にいわせると、その金をばか正直に届け出るのは、愚かなことであるばかりでなく、同時に、非常に危険なことであるというのであった。その筋の専門の刑事たちが、約一カ月もかかって探しまわっても、発見されなかったこの金である。たとえこのまま、われわれが頂戴しておいたところで、誰が疑うもんか。われわれにしたって、五千円より五万円の方が有難いではないか。それよりも恐ろしいのは、あいつ、紳士泥棒の復讐である。これが恐ろしい。刑期の延びるのを犠牲にしてまで隠しておいたこの金を、横取りされたと知ったら、あいつ、あの悪事にかけては天才といってもよいところのあいつが、見逃しておこうはずがない——松村はむしろ泥棒を畏敬しているような口ぶりであった——このまま黙っておってさえあぶないのに、これを持ち主に届けて、懸賞金を貰いなどしようものなら、すぐ松村武の名が新聞に出る。それは、わざわざ、あいつに、かたきのありかを教えるようなものではないか、というのである。 「だが、少なくとも現在においては、おれはあいつに打ち勝ったのだ。え、君、あの天才泥棒に打ち勝ったのだ。この際、五万円もむろん有難いが、それよりも、おれはこの勝利の快感でたまらないんだ。おれの頭はいい、少なくとも貴公よりはいいということを認めてくれ。おれをこの大発見に導いてくれたものは、きのう君がおれの机の上にのせておいた、煙草のつり銭の二銭銅貨なんだ。あの二銭銅貨のちょっとした点について、君が気づかないでおれが気づいたということはだ、そして、たった一枚の二銭銅貨から、五万円という金を、え、君、二銭の二百五十万倍であるところの五万円という金を探しだしたのは、これはなんだ。少なくとも、君の頭よりは、おれの頭の方がすぐれているということじゃないかね」  二人の多少知識的な青年が、ひと間のうちに生活していれば、そこに、頭のよさについての競争が行なわれるのは、至極あたり前のことであった。松村武と私とは、その日ごろ、暇にまかせて、よく議論を戦わしたものであった。夢中になってしゃべっているうちに、いつの間にか夜が明けてしまうようなことも珍らしくなかった。そして、松村も私も互に譲らず、「おれの方が頭がいい」ことを主張していたのである。そこで、松村がこの手柄——それはいかにも大きな手柄であった——をもって、われわれの頭の優劣を証拠立てようとしたわけである。 「わかった、わかった。威張るのは抜きにして、どうしてその金を手に入れたか、その筋道を話してみろ」 「まあ急ぐな。おれは、そんなことよりも、五万円のつかいみちについて考えたいと思っているんだ。だが、君の好奇心を充たすために、ちょっと、簡単に苦心談をやるかな」  しかし、それは決して私の好奇心を充たすためばかりではなくて、むしろ彼自身の名誉心を満足させるためであったことはいうまでもない。それはともかく、彼は次のように、いわゆる苦心談を語り出したのである。私は、それを、心安だてに、蒲団の中から、得意そうに動く彼の顎のあたりを見上げて、聞いていた。 「おれは、きのう君が湯へ行ったあとで、あの二銭銅貨をもてあそんでいるうちに、妙なことには、銅貨のまわりに一本の筋がついているのを発見したんだ。こいつはおかしいと思って、調べてみると、なんと驚いたことには、あの銅貨が二つに割れたんだ。見たまえ、これだ」  彼は、机の引出しから、その二銭銅貨を取り出して、ちょうど練り薬の容器をあけるように、ネジを廻しながら、上下にひらいた。 「そら、ね、中が空虚になっている。銅貨で作った何かの容器なんだ。なんと精巧な細工じゃないか。ちょっと見たんじゃ、普通の二銭銅貨とちっとも変りがないからね。これを見て、おれは思い当ったことがあるんだ。おれはいつか牢破りの囚人が用いるという鋸の話を聞いたことがある。それは懐中時計のゼンマイに歯をつけた、小人島の帯鋸みたようなものを、二枚の銅貨を擦りへらして作った容器の中へ入れたもので、これさえあれば、どんな厳重な牢屋の鉄の棒でも、なんなく切り破って脱牢するんだそうだ。なんでも元は外国の泥棒から伝わったものだそうだがね。そこでおれは、この二銭銅貨も、そうした泥棒の手から、どうかしてまぎれ出したものだろうと想像したんだ。だが、妙なことはそればかりじゃなかった。というのは、おれの好奇心を、二銭銅貨そのものよりも、もっと挑発したところの、一枚の紙片がその中から出てきたんだ。それはこれだ」  それは、ゆうべ松村が一生懸命に研究していた、あの薄い小さな紙片であった。その二寸四方ほどの日本紙には、細かい字で左のような、わけのわからぬものが書きつけてあった。 [#ここから2字下げ] 陀、無弥仏、南無弥仏、阿陀仏、 弥、無阿弥陀、無陀、 弥、無弥陀仏、無陀、陀、 南無陀仏、南無仏、陀、無阿弥陀、 無陀、南仏、南陀、無弥、 無阿弥陀仏、弥、無阿陀、 無阿弥、南陀仏、南阿弥陀、阿陀、 南弥、南無弥仏、無阿弥陀、 南無弥陀、南弥、南無弥仏、 無阿弥陀、南無陀、南無阿、阿陀仏、 無阿弥、南阿、南阿仏、陀、南阿陀、 南無、無弥仏、南弥仏、阿弥、 弥、無弥陀仏、無陀、 南無阿弥陀、阿陀仏、 [#ここで字下げ終わり] 「この坊主の寝言みたようなものは、なんだと思う。おれは最初は、いたずら書きだと思った。前非を悔いた泥棒かなんかが、罪亡ぼしに南無阿弥陀仏をたくさん並べて書いたのかと思った。そして、牢破りの道具の代りに銅貨の中へ入れておいたのじゃないかと思った。が、それにしては、南無阿弥陀仏と続けて書いてないのがおかしい。陀とか、無弥仏とか、どれも南無阿弥陀仏の六字の範囲内ではあるが、完全に書いたのはひとつもない。一字きりのやつもあれば、四字五字のやつもある。おれは、こいつはただのいたずら書きではないと感づいた。ちょうどそのとき、君が湯屋から帰ってきた足音がしたんだ。おれは急いで、二銭銅貨とこの紙片を隠した。どうして隠したというのか。おれにもはっきりわからないが、たぶんこの秘密を独占したかったのだろう。そしてすべてが明らかになってから君に見せて、自慢したかったのだろう。ところが、君が梯子段を上がっているあいだに、おれの頭に、ハッとするようなすばらしい考えが閃いたんだ。  というのは、例の紳士泥棒のことだ。五万円の紙幣をどこへ隠したのか知らないが、まさか、刑期が終るまでそのままでいようとは、あいつだって考えないだろう。そこで、あいつには、あの金を保管させるところの手下乃至は相棒といったようなものがあるにちがいない。いま仮りにだ、あいつが不意の捕縛のために、五万円の隠し場所を相棒に知らせる暇がなかったとしたらどうだ。あいつとしては、未決監にいるあいだに、何かの方法でそのなかまに通信するほかはないのだ。このえたいのしれない紙片が、若しやその通信文であったら……こういう考えがおれの頭に閃いたんだ。むろん空想さ。だが、ちょっと甘い空想だからね。そこで、君に二銭銅貨の出所についてあんな質問をしたわけだ。ところが君は、煙草屋の娘が監獄の差入屋へ嫁入っているというではないか。未決監にいる泥棒が外部と通信しようとすれば、差入屋を媒介者にするのが最も容易だ。そして、若しその目論見が何かの都合で手違いになったとしたら、その通信は差入屋の手に残っているはずだ。それが、その家の女房によって親類の家に運ばれないと、どうして言えよう。さア、おれは夢中になってしまった。  さて、若しこの紙片の無意味な文字がひとつの暗号文であるとしたら、それを解くキイはなんだろう。おれはこの部屋の中を歩きまわって考えた。可なりむずかしい、全部拾ってみても、南無阿弥陀仏の六字と読点だけしかない。この七つの記号をもってどういう文句が綴れるだろう。おれは暗号文については、以前にちょっと研究したことがあるんだ。シャーロック・ホームズじゃないが、百六十種くらいの暗号の書き方はおれだって知っているんだ。で、おれは、おれの知っている限りの暗号記法を、ひとつひとつ頭に浮かべてみた。そして、この紙切れのやつに似ているのを探した。ずいぶん手間取った。確か、そのとき君が飯屋へ行くことを勧めたっけ。おれはそれをことわって一生懸命考えた。で、とうとう少しは似た点があると思うのを二つだけ発見した。そのひとつはベイコンの考案した two letters 暗号法というやつで、それはaとbとのたった二字のいろいろな組み合わせで、どんな文句でも綴ることができるのだ。たとえば fly という言葉を現わすためには aabab, aabba, ababa. と綴るといった調子のものだ。もひとつは、チャールズ一世の王朝時代に、政治上の秘密文書に盛んに用いられたやつで、アルファベットの代りに、ひと組の数字を用いる方法だ。たとえば……」  松村は机の隅に紙片をのべて、左のようなものを書いた。 [#ここから2字下げ] A B C D………… 1111 1112 1121 1211……… [#ここで字下げ終わり] 「つまりAの代りには一千百十一を置き、Bの代りには一千百十二を置くといったふうのやり方だ。おれは、この暗号も、それらの例と同じように、いろは四十八字を南無阿弥陀仏をいろいろに組み合わせて置き換えたものだろうと想像した。さて、こいつを解く方法だが、これが英語かフランス語なら、ポーの Gold bug にあるようにeを探しさえすれば訳はないんだが、困ったことに、こいつは日本語にちがいないんだ。念のためにちょっとポー式のディシファリングをやってみたが、少しも解けない。おれはここでハタと行き詰まってしまった。六字の組み合わせ、六字の組み合わせ、おれはそればかり考えて、また部屋を歩きまわった。おれは六字という点に、何か暗示がないかと考えた。そして六つの数でできているものを思い出してみた。  めったやたらに六という字のつくものを並べているうちに、ふと、講談本で覚えたところの真田幸村の旗印の六連銭を思い浮かべた。そんなものが暗号になんの関係もあるはずはないのだが、どういうわけか『六連銭』と、口の中でつぶやいた。すると、するとだ。インスピレーションのように、おれの記憶から飛び出したものがある。それは、六連銭をそのまま縮小したような形をしている盲人の使う点字であった。おれは思わず『うまい』と叫んだよ。だって、なにしろ五万円の問題だからなあ。おれは点字について詳しくは知らなかったが、六つの点の組み合わせということだけは記憶していた。そこで、さっそく按摩を呼んできて伝授にあずかったというわけだ。これが按摩の教えてくれた点字のいろはだ」  そういって松村は、机の引出しから一枚の紙片を取り出した。それには、点字の五十音、濁音符、半濁音符、拗音符、長音符、数字などが、ズッと並べて書いてあった。 「今、南無阿弥陀仏を、左からはじめて三字ずつ二行に並べれば、この点字と同じ配列になる。南無阿弥陀仏の一字ずつが、点字のおのおのの一点に符合するわけだ。そうすれば、点字のアは南、イは南無と、いうぐあいに当てはめることができる。この調子で解けばいいのだ。そこで、これは、おれがゆうべこの暗号を解いた結果だがね。いちばん上の行が原文の南無阿弥陀仏を点字と同じ配列にしたもの、まん中の行がそれに符合する点字、そしていちばん下の行が、それを飜訳したものだ」  こういって、松村はまたもや図に示したような紙片を取り出したのである。  判事が示した連想診断の記録は前頁に表示したようなものであった。 「ね、非常に明瞭でしょう」判事は明智が記録に眼を通すのを待ってつづけた。「これでみると、斎藤はいろいろ故意の細工をやっている。いちばんよくわかるのは反応時間のおそいことですが、それが問題の単語ばかりでなく、そのすぐあとのや、二つ目のにまで影響しているのです。それからまた、『金』に対して『鉄』と答えたり、『盗む』に対して『馬』といったり、かなり無理な連想をやっています。『植木鉢』にいちばんながくかかったのは、恐らく『金』と『松』という二つの連想を押さえつけるために手間どったのでしょう。それに反して、蕗屋の方はごく自然です。『植木鉢』に『松』だとか、『油紙』に『隠す』だとか、『犯罪』に『人殺し』だとか、もし犯人だったら是非隠さなければならないような連想を、平気でしかも短かい時間に答えています。彼が人殺しの本人でいて、こんな反応を示したとすれば、よほどの低能児に違いありません。ところが、実際は彼は××大学の学生で、それになかなか秀才なのですからね」 「そんなふうにも取れますね」  明智は何か考え考え言った。しかし判事は彼の意味ありげな表情には、少しも気づかないで、話を進める。 「ところがですね、これでもう、蕗屋の方は疑うところはないのだが、斎藤が果たして犯人かどうかという点になると、試験の結果はこんなにハッキリしているのに、どうも僕は確信が持てないのですよ。何も予審で有罪にしたといって、それが最後の決定になるわけではなし、まあこのくらいでいいのですが、御承知のように、僕は例のまけぬ気でね。公判で僕の考えをひっくり返されるのが癪なんですよ。そんなわけで実はまだ迷っている始末です」 「これを見ると、実に面白いですね」明智が記録を手にしてはじめた。「蕗屋も斎藤もなかなか勉強家だって言いますが、『本』という単語に対して、両人とも『丸善』と答えたところなどは、よく性質が現われていますね。もっと面白いのは、蕗屋の答えは、皆どことなく物質的で、理智的なのに反して、斉藤のは、いかにもやさしいところがあるじゃありませんか。叙情的ですね。たとえば『女』だとか『着物』だとか『花』だとか『人形』だとか『景色』だとか『妹』だとかという答えは、どちらかといえば、センチメンタルな弱々しい男を思わせますね。それから、斎藤はきっと病身ですよ。『嫌い』に『病気』と答え、『病気』に『肺病』と答えているじゃありませんか。平生から肺病になりゃしないかと恐れている証拠ですよ」 「そういう見方もありますね。連想診断てやつは、考えれば考えるだけ、いろいろ面白い判断が出てくるものですよ」 「ところで」明智は少し口調をかえて言った。「あなたは、心理試験というものの弱点について考えられたことがありますかしら。デ・キロスは心理試験の提唱者ミュンスターベルヒの考えを批評して、この方法は拷問に代るべく考案されたものだけれど、その結果は、やはり拷問と同じように無実のものを罪に陥れ、有罪者を逸することがあるといっていますね。ミュンスターベルヒ自身も、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所とか人とか物について、知っているかどうかを見いだす場合に限って決定的だけれど、その他の場合には幾分危険だというようなことを、どっかで書いていました。あなたにこんなことをお話しするのは釈迦に説法かもしれませんね。でも、これは確かに大切な点だと思いますが、どうでしょう」 「それは悪い場合を考えれば、そうでしょうがね。むろん僕もそれは知ってますよ」  判事は少しいやな顔をして答えた。 「しかし、その悪い場合が、存外手近にないとも限りませんからね。こういうことはいえないでしょうか。たとえば非常に神経過敏な無実の男が、ある犯罪の嫌疑を受けたと仮定しますね。その男は犯罪の現場で捕えられ、犯罪事実もよく知っているのです。この場合、彼は果たして心理試験に対して平気でいることができるでしょうか。『あ、これは僕を試すのだな、どう答えたら疑われないだろう』などというふうに興奮するのが当然ではないでしょうか。ですから、そういう事情の下に行なわれた心理試験は、デ・キロスのいわゆる『無実のものを罪に陥れる』ことになりゃあしないでしょうか」 「君は斎藤勇のことをいっているのですね。いや、それは僕もなんとなくそう感じたものだから、今もいったように、まだ迷っているのじゃありませんか」  判事はますます苦い顔をした。 「では、そういうふうに、斎藤が無実だとすれば(もっとも金を盗んだ罪はまぬがれませんけれど)いったい誰が老婆を殺したのでしょう」  判事はこの明智の言葉を中途から引き取って、荒々しく訊ねた。 「そんなら、君は、ほかに犯人の目当てでもあるのですか」 「あります」明智はニコニコしながら、「僕はこの連想試験の結果から見て蕗屋が犯人だと思うのですよ。しかしまだ確実にそうだとは言いきれませんけれど。あの男はもううちへ帰したのでしょうね。どうでしょう。それとなく彼をここへ呼ぶわけにはいきませんかしら、そうすれば、僕はきっと真相をつき止めてお眼にかけますがね」 「なんですって、それは何か確かな証拠でもあるのですか」  判事が少なからず驚いて訊ねた。  明智は別に得意らしい色もなく、詳しく彼の考えを述べた。そして、それが判事をすっかり感心させてしまった。明智の希望が容れられて、蕗屋の下宿へ使いが走った。 「御友人の斎藤氏はいよいよ有罪と決した。それについてお話ししたいこともあるから、私の私宅まで御足労を煩わしたい」  これが呼び出しの口上だった。蕗屋はちょうど学校から帰ったところで、それを聞くと早速やってきた。さすがの彼もこの吉報には少なからず興奮していた。嬉しさのあまり、そこに恐ろしい罠のあることを、まるで気づかなかった。      6  笠森判事は、ひと通り斎藤を有罪と決定した理由を説明したあとで、こうつけ加えた。 「君を疑ったりして、まったく相すまんと思っているのです。きょうは、実はそのお詫びかたがた、事情をよくお話ししようと思って、来て頂いたわけですよ」  そして、蕗屋のために紅茶を命じたりして、ごくうちくつろいだ様子で雑談をはじめた。明智も話に加わった。判事は彼を知り合いの弁護士で、死んだ老婆の遺産相続者から、貸金の取り立てなどを依頼されている男だといって紹介した。むろん半分は嘘だけれど、親族会議の結果、老婆の甥が田舎から出てきて、遺産を相続することになったのは事実だった。  三人のあいだには、斎藤の噂をはじめとして、いろいろの話題が話された。すっかり安心した蕗屋は、中でもいちばん雄弁な話し手だった。  そうしているうちに、いつの間にか時間がたって、窓のそとに夕闇が迫ってきた。蕗屋はふとそれに気づくと、帰り支度をはじめながら言った。 「では、もう失礼しますが、別にご用はないでしょうか」 「おお、すっかり忘れてしまうところだった」明智が快活に言った。「なあに、どうでもいいようなことですがね。ちょうど序でだから……ご承知かどうですか、あの殺人のあった部屋に二枚折りの金屏風が立ててあったのですが、それにちょっと傷がついていたといって問題になっているのですよ。というのは、その屏風は婆さんのものではなく、貸金の抵当に預かってあった品で、持ち主の方では、殺人の際についた傷に違いないから弁償しろというし、婆さんの甥は、これがまた婆さんに似たけちん坊でね、元からあった傷かもしれないといって、なかなか応じないのです。実際つまらない問題で、閉口してるんです。尤もその屏風は可なり値うちのある品物らしいのですがね。ところで、あなたはよくあの家へ出入りされたのですから、その屏風も多分ご存じでしょうが、以前に傷があったかどうか、ひょっと御記憶じゃないでしょうか、どうでしょう、屏風なんか別に注意しなかったでしょうね。実は斎藤にも聞いてみたんですが、先生興奮しきっていて、よくわからないのです。それに、女中は国へ帰ってしまって、手紙で聞き合わせても要領を得ないし、ちょっと困っているのですが……」  屏風が抵当物だったことはほんとうだが、そのほかの点はむろん作り話にすぎなかった。蕗屋は屏風という言葉に思わずヒャッとした。しかしよく聞いてみるとなんでもないことなので、すっかり安心した。 「何をビクビクしているのだ。事件はもう決定してしまったのじゃないか」  彼はどんなふうに答えてやろうかと、ちょっと思案したが、例によってありのままにやるのがいちばんいい方法のように考えられた。 「判事さんはよく御承知ですが、僕はあの部屋へはいったのはたった一度きりなんです。それも、事件の二日前にね。つまり先月の三日ですね」彼はニヤニヤ笑いながら言った。こうした言い方をするのが愉快でたまらないのだ。「しかし、その屏風なら覚えてますよ。僕の見た時には確か傷なんかありませんでした」 「そうですか。間違いないでしょうね。あの小野の小町の顔のところに、ほんのちょっとした傷があるだけなんですが」 「そうそう、思い出しましたよ」蕗屋はいかにも今思い出したふうを装って言った。「あれは六歌仙の絵でしたね。小野の小町も覚えてますよ。しかし、もしその傷がついていたとすれば、見おとしたはずがありません。だって、極彩色の小野の小町の顔に傷があれば、ひと目でわかりますからね」 「じゃあ、ご迷惑でも、証言をして頂くわけにはいきませんかしら。屏風の持ち主というのが、実に欲の深いやつで、始末にいけないのですよ」 「ええ、よござんすとも、いつでもご都合のいい時に」  蕗屋はいささか得意になって、弁護士と信ずる男の頼みを承諾した。 「ありがとう」明智はモジャモジャと伸ばした髪の毛を指でかきまわしながら、嬉しそうに言った。これは彼が興奮した際にやる一種の癖なのだ。「実は、僕は最初から、あなたが屏風のことを知っておられるに違いないと思ったのですよ。というのはね、この、きのうの心理試験の記録のなかで、『絵』という問に対して、あなたは『屏風』という特別の答え方をしていますね。これですよ。下宿屋にはあんまり屏風なんて備えてありませんし、あなたは斎藤のほかには別段親しいお友だちもないようですから、これはさしずめ老婆の座敷の屏風が、何かの理由で特別に深い印象になって残っていたのだろうと想像したのですよ」  蕗屋はちょっと驚いた。それは確かにこの弁護士のいう通りに違いなかった。でも、彼はきのうどうして屏風なんて口走ったのだろう。そして、不思議にも今までまるでそれに気づかないとは。これは危険じゃないかな。しかし、どういう点が危険なのだろう。あの時彼は、その傷跡をよく調べて、なんの手掛りにもならぬことを確かめておいたではないか。なあに、平気だ、平気だ。彼は一応考えてみてやっと安心した。ところが、ほんとうは、彼は明白すぎるほど明白な大間違いをやっていたことを少しも気づかなかったのだ。 「なるほど、僕はちっとも気づきませんでしたけれど、確かにおっしゃる通りですよ。なかなか鋭い御観察ですね」  蕗屋はあくまで、無技巧主義を忘れないで、平然として答えた。 「なあに、偶然気づいたのですよ」弁護士を装った明智が謙遜した。「だが、気づいたといえば、実はもうひとつあるのですが、いや、いや、決して御心配なさるようなことじゃありません。きのうの連想試験の中には八つの危険な単語が含まれていたのですが、あなたはそれを実に完全にパスしましたね。実際完全すぎたほどですよ。少しでもうしろ暗いところがあれば、こうは行きませんからね。その八つの単語というのは、ここに丸が打ってあるでしょう。これですよ」といって明智は記録の紙片を示した。「ところが、あなたのこれらに対する反応時間は、ほかの無意味な言葉よりも、皆ほんの僅かずつではありますけれど、早くなってますね。たとえば『植木鉢』に対して『松』と答えるのに、たった〇・六秒しかかかってない。これは珍らしい無邪気さですよ。この三十箇の単語の内で、いちばん連想し易いのは先ず『緑』に対する『青』などでしょうが、あなたはそれにさえ〇・七秒かかってますからね」  蕗屋は非常な不安を感じはじめた。この弁護士は、いったいなんのためにこんな饒舌を弄しているのだろう。好意でか、それとも悪意でか。何か深い下心があるのじゃないかしら。彼は全力を傾けて、その意味を探ろうとした。 「『植木鉢』にしろ『油紙』にしろ『犯罪』にしろ、そのほか、問題の八つの単語は、皆、決して『頭』だとか『緑』だとかいう平凡なものより、連想しやすいとは考えられません。それにもかかわらず、あなたは、そのむずかしい連想の方をかえって早く答えているのです。これはどういう意味でしょう。僕が気づいた点というのはここですよ。ひとつあなたの心持を当ててみましょうか。え、どうです。なにも一興ですからね。しかしもし間違っていたらごめんくださいよ」  蕗屋はブルッと身震いした。しかし、何がそうさせたかは彼自身にもわからなかった。 「あなたは、心理試験の危険なことをよく知っていて、あらかじめ準備していたのでしょう。犯罪に関係のある言葉について、ああ言えばこうと、ちゃんと腹案ができていたんでしょう。いや、僕は決して、あなたのやり方を非難するのではありませんよ。実際、心理試験というやつは、場合によっては非常に危険なものですからね。有罪者を逸して無実のものを罪に陥れることがないとは断言できないのですからね。ところが、準備があまり行き届き過ぎていて、もちろん別に早く答えるつもりはなかったのでしょうけれど、その言葉だけが早くなってしまったのです。これは確かに大へんな失敗でしたね。あなたは、ただもう遅れることばかり心配して、それが早過ぎるのも同じように危険だということを少しも気づかなかったのです。もっとも、この時間の差は非常に僅かずつですから、よほど注意深い観察者でないと、うっかり見逃がしてしまいますがね。ともかく、こしらえ事というものは、どっかに破綻があるものですよ」明智の蕗屋を疑った論拠は、ただこの一点にあったのだ。「しかし、あなたはなぜ『金』だとか『人殺し』だとか『隠す』だとか、嫌疑を受け易い言葉を選んで答えたのでしょう。言うまでもない。そこがそれ、あなたの無邪気なところですよ。もしあなたが犯人だったら決して『油紙』と問われて『隠す』などとは答えませんからね。そんな危険な言葉を平気で答え得るのは、少しもやましいところのない証拠ですよ。ね、そうでしょう。僕のいう通りでしょう」  蕗屋は話し手の眼をじっと見詰めていた。どういうわけか、そらすことができないのだ。そして、鼻から口の辺にかけて筋肉が硬直して、笑うことも、泣くことも、驚くことも、一切の表情が不可能になったような気がした。むろん口は利けなかった。もし無理に口を利こうとすれば、それは直ちに恐怖の叫び声になったに違いない。 「この無邪気なこと、つまり小細工を弄しないということが、あなたのいちじるしい特徴ですよ。僕はそれを知ったものだから、あのような質問をしたのです。え、おわかりになりませんか。例の屏風のことです。僕は、あなたがむろん無邪気にありのままにお答えくださることを信じて疑わなかったのですよ。実際その通りでしたがね。ところで、笠森さんに伺いますが、問題の六歌仙の屏風は、いつあの老婆の家に持ち込まれたのですかしら」  明智はとぼけた顔をして、判事に訊ねた。 「犯罪事件の前日ですよ。つまり先月の四日です」 「え、前日ですって、それはほんとうですか。妙じゃありませんか、今蕗屋君は、事件の前々日即ち三日に、それをあの部屋で見たと、ハッキリ言っているじゃありませんか。どうも不合理ですね。あなた方のどちらかが間違っていないとしたら」 「蕗屋君は何か思い違いをしているのでしょう」判事がニヤニヤ笑いながら言った。「四日の夕方までは、あの屏風が、そのほんとうの持ち主の家にあったことは、明白にわかっているのです」  明智は深い興味をもって、蕗屋の表情を観察した。それは、今にも泣き出そうとする小娘の顔のように変なふうにくずれかけていた。これが明智の最初から計画した罠だった。彼は事件の二日前には、老婆の家に屏風のなかったことを、判事から聞いて知っていたのだ。 「どうも困ったことになりましたね」明智はさも困ったような声で言った。「これはもう取り返しのつかぬ大失策ですよ。なぜあなたは見もしないものを見たなどと言うのです。あなたは事件の二日前から一度もあの家へ行っていないはずじゃありませんか。殊に六歌仙の絵を覚えていたのは致命傷ですよ。おそらくあなたは、ほんとうのことを言おう、ほんとうのことを言おうとして、つい嘘をついてしまったのでしょう。ね、そうでしょう。あなたは事件の二日前にあの座敷へはいった時、そこに屏風があるかないかというようなことを注意したでしょうか。むろん注意しなかったでしょう。実際それはあなたの計画にはなんの関係もなかったのですし、もし屏風があったとしても、あれは御承知の通り時代のついたくすんだ色合いで、ほかのいろいろの道具の中で、殊さら目立っていたわけでもありませんからね。で、あなたが今、事件の当日そこで見た屏風が、二日前にも同じようにそこにあっただろうと考えたのは、ごく自然ですよ。それに僕はそう思わせるような調子で問いかけたのですものね。これは一種の錯覚みたいなものですが、よく考えてみると、われわれには日常ザラにあることです。しかし、もし普通の犯罪者だったら決してあなたのようには答えなかったでしょう。彼らは、なんでもかんでも、隠しさえすればいいと思っているのですからね。ところが、僕にとって好都合だったのは、あなたが世間なみの裁判官や犯罪者より、十倍も二十倍も進んだ頭を持っていられたことです。つまり、急所にふれない限りは、できるだけあからさまにしゃべってしまう方が、かえって安全だという信念を持っていられたことです。裏の裏を行くやり方ですね。そこで僕は更にその裏を行ってみたのですよ。まさか、あなたは、この事件になんの関係もない弁護士が、あなたを白状させるために、罠を作っていようとは想像もしなかったでしょうからね。ハハハハハハ」  蕗屋はまっ青になった顔の、ひたいのところにビッショリ汗を浮かせて、じっとだまり込んでいた。彼はもうこうなったら、弁明すればするだけボロを出すばかりだと思った。彼は頭がよいだけに、自分の失言がどんなに雄弁な自白だったかということを、よくわきまえていた。彼の頭の中には、妙なことだが、子供の時分からのさまざまの出来事が、走馬燈のように、めまぐるしく現われては消えて行った。長い沈黙がつづいた。 「聞こえますか」明智がしばらくしてから言った。「そら、サラサラ、サラサラという音がしているでしょう。あれはね、さっきから、隣の部屋で、僕たちの問答を書きとめているのですよ……君、もうよござんすから、それをここへ持ってきてくれませんか」  すると、襖がひらいて、一人の書生ふうの男が手に洋紙の束を持って出てきた。 「それを一度読み上げてください」  明智の命令にしたがって、その男は最初から朗読した。 「では、蕗屋君、これに署名して、拇印で結構ですから捺してくれませんか。君はまさかいやだとは言いますまいね。だって、さっき、屏風のことはいつでも証言してやると約束したばかりじゃありませんか。もっとも、こんなふうな証言だろうとは想像しなかったかもしれませんがね」  蕗屋は、ここで署名を拒んだところで、なんの甲斐もないことを、充分知っていた。彼は明智の驚くべき推理をも、あわせて承認する意味で、署名捺印した。そして、今はもうすっかりあきらめ果てた人のようにうなだれていた。 「先にも申し上げた通り」明智は最後に説明した。「ミュンスターベルヒは、心理試験の真の効能は、嫌疑者が、ある場所、人、または物について知っているかどうかを試す場合に限って、決定的だといっています。今度の事件でいえば、蕗屋君が屏風を見たかどうかという点が、それなんです。この点をほかにしては、百の心理試験もおそらくむだでしょう。なにしろ相手が蕗屋君のような、なにもかも予想して、綿密な準備をしている男なのですからね。それからもう一つ申し上げたいのは、心理試験というものは、必ずしも、書物に書いてある通り、一定の刺戟語を使い、一定の機械を用意しなければできないものではなくて、いま僕が実験してお眼にかけたように、ごく日常的な会話によってでも充分やれるということです。昔からの名判官は、たとえば大岡越前守というような人は、皆自分でも気づかないで、最近の心理学が発明した方法をちゃんと応用していたのですよ」     恐ろしき錯誤 「勝ったぞ、勝ったぞ、勝ったぞ……」  北川氏の頭の中には、勝ったという意識だけが、風車のように旋転していた。ほかのことは何も思わなかった。  彼は今、どこを歩いているのやら、どこへ行こうとしているのやら、まるで知らなかった。第一、歩いているという、そのことすらも意識しなかった。  往来の人たちは妙な顔をして、彼の変てこな歩きぶりを眺めた。酔っぱらいにしては顔色が尋常だった。病気にしては元気があった。  What ho ! What ho ! This fellow dancing mad ! who hath been bitten by the tarantula.  ちょうどあの気違いじみた文句を思い出させるような、一種異様の歩きぶりだった。北川氏は決して現実の毒グモに噛まれたわけではなかった。しかし、毒グモにもまして恐ろしい執念の虜となっていた。  彼は今全身をもって復讐の快感に酔っているのだった。 「勝った、勝った、勝った……」  一種の快いリズムをもって、毒々しい勝利のささやきが、いつまでも、いつまでもつづいていた。渦巻花火のような、眼も眩むばかりの光り物が、彼の頭の中を縦横無尽に駈けまわっていた。  あいつはきょうから、一日の休む暇もなく一生涯、長い長い一生涯、あの取り返しのつかぬ苦しみを苦しみ抜くんだ。あのどうにもしようのない悶えを悶え通すのだ。  おれの気のせいだって? ばかなっ! 確かに、確かに、おれは太鼓のような判だっておしてやる。あいつはおれの話を聴いているうちに、とうとううつぶしてしまったじゃないか。まっ青な顔をして、うつぶしてしまったじゃないか。これが勝利でなくてなんだ。 「勝った、勝った、勝った……」  という、単調な、没思考力の渦巻のあいだあいだに、ちょうど映画の字幕のように、こんな断想がパッパッと浮かんでは消えて行った。  夏の空はソコヒの眼のようにドンヨリと曇っていた。そよとの風もなく、家々ののれんや日除けは、彫刻のようにじっとしていた。往来の人たちは、何かえたいのしれぬ不幸を予感しているとでもいったふうに、抜き足差し足で歩いているかと見えた。音というものが無かった。死んだような静寂が、その辺一帯を覆っていた。  北川氏は、その中を、独りストレンジャーのように、狂気の歩行をつづけていた。  行っても行っても果てしのない、|鈍《にぶ》|色《いろ》に光った道路が、北川氏の行手につづいていた。  あてもなくさまよう人にとって、東京市は永久に行止まりのない迷路であった。  狭い道、広い道、まっすぐな道、曲がりくねった道が、それからそれへとつづいていた。 「だが、なんというデリケートな、そして深刻な復讐だったろう。あいつのもずいぶん頭のいい復讐だったに違いない。しかし、その復讐に対する、おれの返り討ちの手際が、どんなにまあ鮮やかなものだったろう。天才と天才の一騎討ちだ。天衣無縫の芸術だ。あいつがその前半を受持ち、おれが後半を受持ったところの一大芸術品だ。だが、なんといっても勝利はおれのものだ……おれは勝ったぞ、勝ったんだぞ。あいつをペチャンコに叩きつけてしまったんだぞ」  北川氏は、鼻の頭に一杯汗の玉を溜めて、炎天の下を飽きずまに歩きつづけていた。彼にとっては、暑さなどは問題ではなかった。  やがて、時がたつに従って、彼の有頂天な、没思考力な歓喜が、少しずつ、意識的になって行った。  そして、彼の頭には、ようやく、回想の甘味を味わうことができるほどの余裕が生じてきた。  それは|三《み》|月《つき》ぶりの訪問であった。あの事件が起こる少し前に会ったきり、二人はきょうまで顔を合わさなかった。  野本氏の方では、事件の悔み状を出したきり、北川氏の新居を訪ねもしなかったことが、わだかまりになっていた。  北川氏は北川氏で、その野本氏の気まずさが反映して、彼の家の敷居をまたぐとこから、もう吐き気を催すほどに不快を感じていた。  二人は生れながらのかたき同士だった。  同じ学校の同じ科で机を並べながら、北川氏はどうにも野本氏が虫が好かなかった。多分野本氏の方でも、彼をゲジゲジのように嫌っていたに違いないと、北川氏は信じていた。  二人がかつては恋の競争者だったことが、なおさらこの反感を高めた。北川氏はそのころから、野本氏のうしろ姿を一と眼見ただけでも、こう、からだがねじれてくるほど、なんともいえぬ不快を覚えるのだった。そこへ今度の問題が起こった。そして、もう破れるか、もう破れるかと見えながら、やっと危く均衡を保っていた二人の関係が、とうとう爆発してしまった。  こうなっては、二人はどちらかが死んでしまうまで、命がけの果たしあいをするほかに逃げ道がないのだと、彼は信じていた。  北川氏は、機の熟するまでは、なるべくきょうの訪問の真の目的を秘しておこうとしていた。  しかし敏感な野本氏はとっくにそれを察したらしく、恐怖にたえぬ眼で、チラリチラリと北川氏を盗み見るのであった。  先ず運ばれた冷しビールのコップを挾んで、新しい皮蒲団の上に対座した二人のあいだには、最初の瞬間から、息詰まるような暗雲が低迷していた。 「君がなぜあの事件に触れようとしないのか、僕はよく知っている。君はあれ以来はじめて会った僕に、悔みの言葉一つ述べられないほど、あの事件に触れることを怖れているんだ」  しばらく心にもない世間話をつづけているうちに、もう我慢ができなくなって、北川氏はこう戦闘開始の火蓋を切ったのだった。  野本氏はハッとして眼をそらした。  あの時、彼の顔が青ざめたのは、顔の向きを代えたために、庭の青葉が映ってそう見えたばかりではないと、北川氏は固く信じていた。 「おれの放った第一声は、見事にあいつの心臓をえぐったんだ」  相変らず、どこともしれぬ場末の街筋をテクテクと歩きながら、北川氏は甘い回想をつづけて行った。  ちょうど反芻動物が、一度胃の腑の中へおさまったものを、また吐き出して、ニチャリニチャリと噛みしめては、楽しみをくり返すように、北川氏は、きょうの野本氏との会談の模様を、はじめから終りまで、文句のこまかい点まで注意しながら、ユックリユックリ思い出して行った。事実そのものにもまして快い回想の魅力は、北川氏を夢中にさせないではおかなかった。 「僕がそれに気づいたのは、極く最近のことなんだ。その当座はただもう泣くにも泣かれぬ悲しみで心が一杯だった。恥かしいことだが、正直をいうと、僕は妙子に惚れていた。惚れていたればこそ、彼女の居るあいだは、あれほども、君をはじめ友人たちが驚いていたほども、仕事に没頭できたんだ。どんなに仕事に夢中になっていたって、おれの女房は、あの片靨の可愛い笑顔で、おれのうしろにちゃんと坐っているんだという安心が、僕をあんなふうにしていたんだ。  忘れもしない彼女の初七日の朝だった。ふと新聞を見ると、文芸欄の片隅に生田春月の訳詩がのっていた——そのある日にはそれとも知らず、なくてぞ恋しき妻である——という一句を読むと、子供の時分からこのかた、ずっと忘れてしまっていた涙が、不思議なほど止めどもなく、ほろほろとこぼれたっけ。僕は女房の死んだあとになって、僕がどれほど彼女を愛していたかということがわかった……君はこんな繰り言を聞きたくもないだろうね。僕も言いたくはない、殊に君の前では言いたくない。しかし、どれほど女房の死が僕を悲しませたか、それがどんなに僕の一生をメチャメチャにしてしまったかということを、よくよく君に察してもらいたいからこそ、言いたくもないのを、無理にも言っているんだ」  北川氏はいかにも殊勝げにこう語り出したのであった。  しかし、このめめしい繰りごととも見えるものが、実は世にも恐ろしい復讐への第一歩だろうと、誰が想像し得ただろう。 「日がたつに従って、ほんの少しずつではあったが、悲しみが薄らいで行った。いや、悲しみそのものには変りがなかったのだろうが、ただそればかりにかかずらって、めそめそと泣いていた僕の心に、少しばかり余裕ができてきた。すると、今までは、悲しみにまぎれて、忘れるともなく忘れていたある疑いが、猛然として頭をもたげはじめたんだ……君も知っているように、妙子のあの不思議な死に方は、僕にとってはどうしても解くことのできない謎だった」  北川氏は彼の細君の死については、最初から疑いを抱いていた。子供さえ助かっているのに、なぜ妙子だけが、あの火事のために焼け死んだかということは、彼には、考えても考えても、解きがたい一つの謎だった。  それは三カ月以前の春もたけなわなころの出来事だった。  そのころ、北川氏は二軒建ちのちょっとした借家に住んでいたのだが、あの日、真夜中に棟を同じうしている、壁ひとえ隣から失火して、彼の家も丸焼けになってしまった。  類焼は五軒ばかりで鎮火したが、風のひどかったせいか、火の燃え拡がる速力は不思議なほど早かった。大切なものを持ち出したり、子供にけがをさせまいとしたり、そういう場合でなければ経験のできない、一種異様な、追いつめられたような、せかせかした気持のために、可なりの時間をほとんど一瞬のように感じたせいもあろうけれど、あの、とほうもなく大きな大蛇の舌ででもあるような「火焔」という生き物が、人間の住家をなめただらしてしまう速さというものは、ほんとうにびっくりするほどであった。  北川氏は第一に幼児——誕生を過ぎてまだ間もなかった幼児を抱いて、少し離れた友人の家へかけつけた。  泣き叫ぶ子供は、友人の細君に託し、友人にも手伝ってもらって、できるだけの品物を持ち出そうと、彼は火事場へ取って返した。  寝巻姿の気違いめいた北川氏は、人間がまだ言葉というものを知らなかった原始時代に立ち帰って、意味をなさぬ|世《よ》|迷《まい》|言《ごと》を口走りながら、息を切らして走るのだった。  そうして、友人の家との二、三丁のあいだを二回往復すると、もう火勢が強くなって、品物を持ち出すどころではなく、危くすると命にもかかわりそうになったので、彼はともかくも友人の家に落ち着いて、何よりも先ず、痛みを感じるほどにカラカラに渇いた喉を、コップに何杯も何杯もお代りをして、うるおしたのだった。  が、ふと気がつくと、妙子の姿が見えない。  たしかに一度は彼女の走っているのを見かけたのだが、そして、彼女は、北川氏がこの友人の家へ避難したことは当然知っているはずだが、どうしたものか姿を見せなかった。  でも、まさか、燃えさかる火の中へ飛びこもうなどとは、想像もしなかったので、しばらくは、彼女の取り乱した姿が、友人の門口に現われるのを、ぼんやりと待っていたのだった。  行李だとか、手文庫だとか、書類だとか、いろいろの品物が雑然と投げ出された友人の家の玄関に、友人夫婦と、北川氏と、子供を抱いてふるえているまだ年のいかぬ女中とが、妙にだまり込んで顔を見合わせていた。  そとからは、火事場の騒擾が手に取るように聞こえてきた。「オーイ」とか「ワー」とか「ワッワッワッ、ワッワッワッ……」とかいう感じの騒音が、表通りを駈けて通る騒々しい足音が、近所の軒先にたたずんだ人々の眠むそうな、しかしおどおどした話声にまじって、まるで、北川氏自身にはなんの関係もない音楽かなんぞのように響いてくるのだった。  あちらでもこちらでも、あの妙に劇的な音色を持った半鐘の音が、人の心臓をドキドキさせないではおかぬ、凄いような、それでいてどこか快いような感じで打ち鳴らされていた。  それに引きかえて、家の中の彼らの一団の静かさが、なんとまあ不思議なほどであったことよ。どれほどの時間だったか、よほど長いあいだ、彼らは身動きさえしないでシーンと静まり返っていた。  一時は火のつくように泣き叫んでいた幼児も、もうすっかりだまりこんでいた。  ほどへてから、友人の細君が、まるで、つまらない世間話でもしているような、ゆったりした調子でこう言った。 「奥さんはどうなすったのでしょうね、ねえ、あなた」 「そうだ、だいぶ時間もたったのに、おかしいな」  友人は北川氏の顔をじろじろ眺めながら、考え深そうに答えた。  そんなわけで、彼らが妙子を探しに出掛けたのは、さすがに烈しかった火勢も、もう下火になったころであった。  だが、探しても探しても妙子の姿は見えなかった。知り合いの家を一軒ずつ尋ね廻って、もうこれ以上手の尽しようがないと思ったのは、はや夜の明けるに間もないころであった。  へとへとに疲れきった北川氏は、一と先ず友人の家へ引き上げて、ともかく床についた。  その翌日、焼け跡の取かたづけをしていた仕事師の鳶口によって、北川氏の家の跡から、女の死骸が掘り出された。  そして、はじめて、妙子がなんのためだか、燃えさかる家の中へ飛びこんで、焼け死んだということがわかった。  それは実際不思議なことだった。  何一つ彼女を猛火の中へ導くような理由というものがなかった。変事のために遠方から集まってきた親族の人たちのあいだには、これはきっと、あまり恐ろしい出来事のために逆上して、気が変になったせいだろうという説が勝ちを占めた。 「私の知っているあるお婆さんは、そら火事だというのに、うろたえてしまって、いきなり米櫃の前へ行って、丹念にお米を量っては桶の中へ入れていたっていいますよ。ほんとうに、お米が一ばん大切だと思ったのでしょうね。こんな時には、よっぽどしっかりした者でも、うろたえてしまいますからね」  妙子の母親は、ともすれば、咽びそうになるのをこらえこらえして、鼻の詰まった声で、こんなことを言ったりした。 「可愛い女房が、若い身そらで、しかも子供まで残して、死んでしまった。それだけで、もう男の心を打ちひしぐには充分過ぎるほど充分なんだ。その上に、見るも無ざんなあの死にかた……君にあいつの死顔を一と眼見せてやりたかった。もし、あの死骸を前に置いて、君にこの話ができるんだったら、まあどんなに深刻な、劇的な効果を収め得たことだろう。  あいつの死骸はまっ黒な一つのかたまりにすぎなかった。それはむごたらしいなどというよりは、むしろ気味のわるいものだった。知らせによってその場へ駈けつけた僕の眼の前にころがっていたものは、生れてからまだ一度も見たことのないような珍らしいものだった。それが三年以来つれ添ってきた女房だなどとは、どうしたって考えられなかった。それが人間の死骸だということさえも、ちょっと見ただけではわからなかった。眼も鼻も、手足さえ判明し兼ねるような一とかたまりの黒いものだった。所々、黒い表皮が破れて、まっ赤な肉がはみ出していた。  君は火星の望遠鏡写真を見たことがあるかね。火星の運河という、あの変な表現派じみた、網の目のようなものを知っているかね。ちょうどあの感じだった。まっ黒なかたまりの表面が、あんなふうにひび割れて、毒々しいまっ赤な筋が縦横についていた。人間という感じからは、まるでかけはなれた、えたいのしれぬ物凄い物体だった。僕は、これが果たして妙子かしらと疑ぐった。物慣れた仕事師は、僕の疑わしげな様子に気づいたとみえて、その黒い物体のある箇所を指し示してくれた。そこには、よく見ると、妙子がきのうまではめていた、細いプラチナの指環が光っていた。もう疑ってみようもなかった。  それに、妙子のほかには、その夜、行方不明になったものは、一人もなかったことも後になってわかったのだ。  だが、こんな死にざまも世間にないことではない。それはずいぶんひどいことには違いなかったが、それよりも、そんな外面的なことよりも、もっと、もっと、僕の心を苦しめたのは、なぜ妙子が死んだかという疑いだった。死なねばならぬような理由は少しだってありはしなかった。物質的にも、精神的にも、彼女に死ぬほど深い悩みがあったろうとは、僕にはどうしたって考えられなかった。といって、彼女は、不意の出来事に気の狂うほど、気の弱い女でもなかった。彼女が見かけによらぬしっかり者だということは、君もよく知っている通りだからね。仮りに一歩を譲って、彼女は気が狂ったのだとしても、何もわざわざ猛火の中へ飛びこんで行くわけがないじゃないか。  そこには何か理由がなくてはならない。一人の女を、死の危険を冒してまで、燃えさかる家の中へ飛びこませるほど重大な理由というのは、それは一体なんだろう。夜となく、昼となく、この息苦しい疑いが僕の頭にこびりついて離れなかった。たとえ死因がわかったところで、今さらどうしてみようもないと知りながら、やっぱり考えないではいられなかった。僕は長いあいだかかって、あらゆるありそうな場合を考えてみた。  大切な品物を家の中へ置き忘れて、それを取り出すために、ああした行動を取ったと解するのが、先ず一ばんもっともらしい考えだった。  しかし、どんな大切な品物を彼女が持っていたのだろう? 僕は、妙子の身のまわりの細かい点などにはまるで注意を払っていなかったので、その持ち物なども、何があるのか、ちっとも知らなかった。しかし、あの女が命にも換えられぬような大切な品物を持っていたとも考えられないじゃないか。そんなふうに、ほかのいろいろな理由を想像してみても、みな可能性に乏しいものばかりだった。僕はついには、これは死人と共に永久によみがえることのない疑問としてあきらめるほかはないのかと思った。dead secret という言葉があるが、妙子の死因は文字通りの dead secret だった。  君は盲点というものを知っているだろう。  僕は盲点の作用ほど恐ろしいものはないと思うよ。普通、盲点といえば視覚について用いられてる言葉だが、僕は意識にも盲点があると思う。つまり、いわば『脳髄の盲点』なんだね。なんでもないことをふと胴忘れすることがある。最も親しい友だちの名前が、どうしても思い出せないようなこともある。世の中に何が恐ろしいといって、こんな恐ろしいことはないと思うよ。僕はそれを考えると、じっとしていられないような気がする。例えば、僕が一つの創見に富んだ学説を発表する、その場合、その巧みに組立てられた学説のある一点に『脳髄の盲点』が作用していたとしたらどうだ。一度盲点にかかったら何かの機会でそれをはずれるまでは、間違いを間違いだと意識しないのだからな。僕らのような仕事をしているものには殊に、盲点の作用ほど恐ろしいものはない。  ところが、どうだろう。あの妙子の死因が、どうやら僕の『脳髄の盲点』に引っ掛っているような気がし出したのだ。どうも不思議だと思う反面には、これほどよくわかったことはないじゃないかと、何者かがささやいているんだ。ぼんやりした、なんだかわからないものが、『私こそ奥さんの死因なんですよ』といわぬばかりに、そこにじっとしているんだ。しかし、もうちょっとで手が届くというところまで行っていて、それから先はどうにもこうにも考え出せないのだ」  北川氏は予定通り、寸分も間違えないで話を進めて行った。あせる心をじっと抑えて、結論までの距離をなるだけ長くしようとした。そして、ちょうど子供が蛇をなぶり殺しにする時のような快感で、野本氏の苦悶する有様を眺めようとした。一寸だめし五分だめしに、チクリチクリと急所を突いて行った。  この愚痴っぽい、なんでもないような長談義が野本氏にとっては、どんなに恐ろしい責め道具だかということを、彼はよく知っていた。  野本氏はだまって彼の話を聴いていた。  はじめのうちは「うん」とか「なるほど」とか受け答えの言葉を挾んでいたが、だんだん物を言わなくなって行った。それは退屈な話に飽き飽きしたというふうにも見えた。  しかし、北川氏は、野本氏は怖れのために口が利けなくなったのだと信じていた。うっかり口を利けば、それが恐怖の叫び声になりはしないかというおそれのために、だまっているのだと信じていた。 「ある日、越野が訪ねてくれた。越野は近所に住んでいたばかりに、火事の手伝いから避難場まで引き受けて、ずいぶん面倒を見てくれたんだが、その日はその日で妙子の死因について非常に重大なサゼッションを与えてくれたのだった。越野の話によると、それはある目撃者から聞いたんだそうだが、妙子はあのとき何か大声に喚きながら、燃えさかる家の前を、右往左往に駈け回っていたっていうんだ。あたりの騒音のために、それが何を喚いているのか聞き取れなかったが、何か非常に重大なことだったに違いないって、その男が言ったそうだ。そうしているうちに、どこからともなく、一人の男が現われて、妙子の側へ近寄って行ったそうだ」  北川氏はこういって、じっと相手の眼に見入ったのだった。それがどんなに相手を怖わがらせるかということを意識しながら、彼は、暗い洞穴の中からじいっと獲物を狙っている蛇のような眼つきで、野本氏を見つめたのだった。 「その男は、妙子のそばまで行ったかと思うと、フッと廻れ右をして、元来た方へ走り去ってしまったそうだが、すると、どうした事か、妙子は非常に驚いて、一杯に見ひらいた眼で、救いを求めるようにあたりを見廻した。が、それも瞬間で、アッと思う間に、一面の火になっていた家の中へ飛びこんでしまったというのだ……その男は、それからどうなったか、まさか、その不思議な女が焼け死のうとも思わなかったので、混雑にまぎれて、その後の様子を見届けなかったと言ったそうだ。そして、それが、翌日焼け跡から掘り出された越野の友だちの細君だったと聞くと、その男は、そんなことなら、あの時すぐお知らせするのだった。残念をしたといって悔みを述べたそうだ。  この話を聞いて、僕は、やっぱり妙子は気が狂ったのではなかったと思った。確かに何か重大な理由があって、火中に飛びこんだのに違いないと思った。 『それにしても、妙子のそばまで行って、すぐにどっかへ居なくなった男というのは、一体何者だろう』と僕がいうと、越野は声を落として、真剣な眼付で『それについて思い当たることがある』と言うではないか……越野はあの時、僕の荷物を肩に担いで走りながら、ふと一人の男にすれ違ったのだった。ハッと思って振り返ると、もうその男は、たくさんの野次馬の中へまぎれこんで、姿が見えなかったそうだ。越野はその男の名前を知らせてくれたが、君はそれが誰だったと思う。僕とも、越野とも、至って親しい古い友だちなんだが……その男は、なぜ友だちの越野に会って、挨拶もしないで、逃げるように跡をくらましたのだろう。僕の家が焼けているというのに、見舞いにもこないで行ってしまったのだろう。これについては、君は一体どんなふうに考えるね」  北川氏の話は、だんだん問題の中心に近づいて行くのだった。  野本氏は相変らず一とことも口を利かないで、一種異様の表情をもって、北川氏の雄弁に動く口のあたりをじっと見つめていた。彼の顔色は、さいぜんから、手酌でかなりビールを飲んでおったにもかかわらず、はじめ対座したときから見ると、見違えるほどあおざめていた。  勝ちほこった北川氏は、ますます雄弁に、まるで演説でもしているような口調で、一所懸命に話を進めて行くのだった。  彼は極度の緊張で、両頬のカッカッとほてるのを感じた。腋の下が、冷たい汗でしとど濡れるのを感じた。 「だが、それだけの謎のような事実を聞いたばかりでは、僕にはどうにも判断の下しようがなかった。事実の真髄によほど近づいたことは確かだった。しかし、真髄そのものは、やっぱり今にもわかりそうでいて、少しもわからなかった。それは無限小の距離には近づき得ても、本体に触れることは絶対にできないようなもどかしさだった。もどかしいというよりは、むしろ恐ろしかった。僕は、これはてっきり『脳髄の盲点』だなと思うと、身震いするほど恐ろしかった。そうして二日三日と日がたって行った。  ところが、ついしたことから、その盲点がハッと破れた。そして、夢からさめたように、何もかもすっかりわかってしまった。僕は忿怒のあまり躍り上がった。そいつこそ、越野が教えてくれたその男こそ、憎んでも憎んでも憎み足りないやつだった。僕はすぐさま、そいつの家へ飛んで行って、掴み殺してやろうかと思ったくらいだ……いや、僕は少し興奮しすぎた。もっと冷静にゆっくり話をするはずだった……そのとき僕は、妙子の里からよこしてくれた新しい乳母に抱かれている子供を見ていた。子供は、まだ乳母になつかないで、まわらぬ舌で『ママ、ママ』と、死んだ母親を求めていた。子供はいじらしかった。  だが、こんな可愛い子供を残して死んでしまった、いや殺されてしまった母親こそなおさら可哀そうだった。僕はそう思うと、『坊や、坊や』と子供を呼んでいる母親の声が、あの世から聞こえてくるような気がした。  君、これはきっと、浮かばれぬ妙子の魂が、どっかから、僕の胸へささやいたんだね。『坊や、坊や』という妙子の声を想像すると、突然僕は烈しいショックに打たれた。そうだ。それに違いない……妙子を猛火の中へ飛びこませるほどの偉大な力はこの『坊や』のほかには持っていないのだ……一度盲点が破れると、長いあいだせき止められていた考えが津波のようにほとばしり出た。  あのとき、僕が第一に子供を連れて友だちの家に避難したことを、妙子は知らなかったかもしれない。あの場合そうした思いちがいは、あり得ないことじゃない。僕は飛び起きるとすぐさま子供を抱えて走り出しながら、床の上に起き上がって身づくろいしている妻に、『早く逃げろ、子供はおれが連れて行くぞ』とどなったのだ。しかし、それが果たして、顛動していた妙子の耳に通じたかどうか。何を考える暇もなく、本能的に飛び出したあとで、はじめて子供のことに気づいたというようなことではあるまいか。そして、『坊や、坊や』と叫びながら、家の前をうろついていたのではあるまいか。ああいう異常な場合には、ふだんとはまるで違った心理作用が働くものだ。その証拠には、僕自身にしても、二度目に、荷物を運んで越野の家へ走っているあいだに、『はてな、子供はどうしたかしら』という考えで、幾度となく心臓をドキドキさせたくらいだもの」  北川氏は、ここで少し言葉を切って、その効果を確かめるように、野本氏の様子をうかがった。  そして、野本氏が一層あおざめて、歯を食いしばっているのを知ると、満足らしくうなずいて、話を最も肝要な点に進めて行った。 「ここに一人の執念深い男があって、ある女に深い恨みを抱いていたと仮定する。男はどうかして、その恨みをはらそうと執念深く機会を狙っている。すると、ある時その女の家が火事にあう。どうかした都合で、その場に居合わせた男が、女の一家が焼け出される有様を小気味のいいことに思って眺めている、ふと見ると、女が『坊や、坊や』と叫びながら家の前をうろついている。男の頭にあるすばらしい機智が浮かぶ。このチャンスをはずしてなるものかと思う。  男はやにわに女のそばに近寄って、催眠術の暗示でもかけるように、『坊ちゃんはね、奥座敷に寝ていますよ』と告げる。そして、素早くその場を逃げてしまう。なんという驚くべきインジニアスな復讐だろう。ふだんなら、誰だってこんな暗示にかかりはしないだろう。しかし、気も狂わんばかりに、子供の身の上を気遣って逆上している、あの際の母を殺すには、それは飛び切りのトリックだった。僕は忿怒に燃え立ちながらも、その男のすばらしい機知に感心しないわけにはいかなかった。  僕は今まで、絶対に証拠を残さないような犯罪というものが、あり得ようとは思わなかった。だが、その男の場合はどうだ。どんな偉い裁判官だって処罰のしようがないではないか。死人のほかには誰も聞かなかったであろうそのささやきが、なんの証拠になるだろう。それは、その男の行動を怪しんで、記憶にとどめている幾人かの人はあるかもしれない。しかし、そんなことが何になるものか。友だちの細君の不幸を慰めるために、そのそばへよって口を利くということは、ごく当たり前のことだからね。仮りに一歩を譲って、そのささやきが誰かに洩れ聞かれたとしても、それはその男にとってちっとも恐ろしいことじゃない。『私は真実そう信じて言ったまでのことです。そのために奥さんが火の中へ飛びこんで、自分で自分を焼き殺したって、それは私の知ったことじゃありません。あなたは、そんな気ちがいじみたことを私が予期しておったとでもおっしゃるのですか』そういえば、立派に申しわけが立つではないか。なんという恐ろしい企らみだ。その男は確かに人殺しの天才だ。え、そうじゃないか、野本君」  北川氏は、ここでもう一度言葉を切った。そしてこれからいよいよおれの復讐を実行するのだぞと言わぬばかりに、ペロペロと唇を舐め廻した。  彼は、半殺しの鼠を前にした猫のように、いかにも楽しそうに、物凄い眼つきで野本氏の顔をジロジロ眺めるのだった。  北川氏が野本氏と親しくなったのは、もちろん学校が同じだったという点もあるが、それよりも、一人の女性を渇仰する青年たちが、類を以て集まった、そのグループの中の一員として、お互いに嫉視しながら近づき合ったということが、より重大な動機をなしていたのだった。  そのグループの中には、北川氏、野本氏のほかに、まだ二、三人の同じ青年たちがいた。あの火事の際に、北川氏一家の避難所をうけたまわった越野氏もその中の一人だった。それは七、八年も前のことで、当時の青年たちは、もうそれぞれ一かどの威厳を備えたプティ・ブルジョワになりすましていたが、さすがに昔忘れずつき合っているのだった。  では、そのグループの中心となった幸福な女性はというと、それがすなわち後の北川氏夫人妙子だったのである。  妙子は山の手のある旧御家人の娘だった。何々小町と呼ばれたほどの器量よしで、その上、教育こそ地味な技芸学校を出たばかりだったが、女としては可なり理解力にも富んでいたし、昔形気の母親のしつけにもよったのだろうが、当節の娘に似合わないしとやかなところもあって、申し分のない少女だった。  当時北川氏は、遠い親戚に当たるところから、妙子の家に寄寓して学校に通よっていた。自然、妙子渇仰の青年たちは、北川氏の書斎に集まってきた。  北川氏はその頃から、少し変人型のむっつりやで、学問にかけては誰にもひけを取らなかったが、交際というようなことは至って不得手だった。それにもかかわらず、彼の書斎に客の絶えまがなかったというのは、彼を訪ねさえすれば、たとえ一緒になって談笑するとまでは行かずとも、取次に出たり、お茶を運んできたり、何かと妙子の顔を拝む機会があろうという、友人たちの敵本主義によるものだった。その中でも、最もしげしげ彼の室に出入りしたのは、今いった野本氏、越野氏、そのほか二、三氏のグループだった。彼らの暗闘は並々ならず烈しいものだった。だが、それはあくまで暗闘にすぎなかった。  その中でも、野本氏は最も熱心だった。秀麗な容貌の持主で、学校の成績も先ず秀才の部に属してい、その上ずいぶん調子のいい交際家でもあった野本氏が、われこそという自信を持っていたのは当然なことだった。彼自身そう信じていたばかりでなく、競争者たちも、残念ながら彼の優越を否定するわけにはいかなかった。北川氏の書斎での談笑の中心は、いつもきまったように野本氏が引き受けていた。時たま妙子が座にあるとき、もしそこに野本氏がいないと座が白けた。野本氏がいれば、彼女も快活に口をひらいた。  彼女が大声に笑ったりするのは野本氏のいる時に限られていた。そういう調子で、彼は苦もなく妙子に接近して行ったのだった。  誰しも野本氏こそ勝利者だと思った。  いろいろな機会のいろいろな暗黙の了解によって、野本氏自身もそう信じていた。あとには唯プロポーズが残っているばかりだと信じていた。  彼らの関係がちょうどそうした状態にあるとき、暑中休暇がきた。野本氏は優勝者の満悦をもって、いそいそと帰省の途についた。もうすっかり自分のものだという安心が、妙子とのしばしの別れをかえって楽しいものに思わせた。  遠方からの手紙の遣り取りによって、二人のあいだがなお一層接近するであろうことを予想しながら、野本氏は東京をあとにした。  ところが、野本氏の帰省中に、俄然局面が一変した。野本氏があれほども自分のものだと信じきっていた妙子が、彼には一とことの断りもなく、一同がまさかこの男がと、高をくくっていた、あのむっつりやの北川氏に嫁してしまったのであった。  北川氏の喜悦と反比例して、野本氏の忿怒は烈しいものだった。それは忿怒というよりもむしろ驚愕であった。信じきっていたものに裏切られた人の驚愕であった。これ見よがしに振舞っていた手前、彼は友だちに合わす顔がなかった。  しかし、これといってハッキリした約束を取りかわしているわけではなかったので、どうにも抗議のしようがなかった。違約を責めようにも、違えるべき約束をまだしていないのだった。洩らすすべのない憤りは野本氏の人物を一変させてしまった。  それ以来彼はあまり物を言わなくなった。これまでのように友だちの家を遊び廻らなくなった。彼はただ、学問に没頭することによって、僅かにやるせない失恋の悲しみを紛らそうとした。北川氏はそれらの事情を知りすぎるほどよく知っていた。野本氏がその後今日に至るまで妻帯しないことが、彼の失恋の悲しみがいかに烈しいものだったかを証拠立てていると思っていた。それだけに、彼と野本氏との間柄は、表面は同窓の友としてつき合っていたけれども、実は恐ろしく気まずいものになっていた。  そうしたいきさつを考えると、野本氏があのような復讐を企てるというのも、ずいぶんもっともなことだったし、北川氏がそれを疑う心持も、決して無理ではなかった。  さて、北川氏という男は、前にもちょっと言い及んだように、少し変り者だった。  社交的の会話、洒落とか冗談とかいうものは、まるでだめだった。彼はユーモアというものをてんで解しないような男だった。しかし議論などになると、ずいぶん雄弁にしゃべった。彼は何か一つの目的がきまらないことには何もする気になれぬらしかった。その代り、これと思い込むと、傍目もふらず突き進む方だった。そういう時は、目的以外のことにはまるで盲目になってしまった。この性質があればこそ、彼は学問にも成功した。不得手な恋にさえ成功した。彼は二つのことを同時に念頭におくことのできない性質だった。  妙子を得るまでは妙子のことのほかは何も考えなかった。妙子を得てしまうと、今度は学問に熱中した。あれほど執心だった妙子を一人ぼっちにほったらかして学問の研究に没頭した。そして、今や妙子の死に会するに及んでは、「可哀そうな妙子」のことのほかは何も考えられぬ彼であった。野本氏に対する復讐についても彼は狂的に熱中した。そして、その目的を果たすと狂的に歓喜した。  すべてが極端から極端へと走った。  彼は一つ間違うと気違いになり兼ねぬような素質を多分に持っていた。いや、現に、妙子の死因についてのあの突飛な想像、野本氏に対するあの奇怪なる復讐、それらは北川氏の正気を信ずるにはあまりに気違いじみたものではなかったか。  しかし、北川氏は彼の想像の的中を固く信じていた。そして、その信念がいま確証されたのであった。  かたきと狙う野本氏は、見事北川氏の術中におちいって、彼の眼の前に、あさましい苦悶の姿を曝したのであった。  北川氏の話は、やっと長々しい前提を終えて、復讐の眼目にはいるのだった。 「その男の恐ろしい復讐には少しの手落ちもなかった。たとえそれを推量することはできても、それは推量の範囲を一歩だって越えることはできないのだ。お前はこういう罪を犯したではないかと責めたところで、相手がそれに服しなければ、どうにもしようがないのだ。僕はただその男の機知に感じ入って、じっとしているほかはなかった。相手はわかっている。しかもそれを責める方法がない。こんな苦しい変てこな立場があるだろうか。だが、野本君、安心してくれたまえ、僕はとうとうその男をとっちめる武器を発見したんだ。けれど、それは僕にとってなんという残酷な武器だったろう。  僕が発見した事実というのは、その男を苦しめると同時に僕を苦しめる、それを復讐の手段に用いるためには、先ず僕自身が相手と同様の苦しみを舐めた上でなければ、役に立たないような種類のものだった。僕は、あの、敵に毒饅頭を食わせるために、先ず自からの命を的にその一片を毒見した昔の忠臣の話を思い出した。敵をたおせば自分も滅びる、自分が先ず死なねば相手を殺すことができない。なんという恐ろしい死にもの狂いな復讐だろう。  だが、昔の忠臣の場合はまだいい。彼は復讐を思い止まりさえすれば、身を殺す必要はなかったのだ。ところが、僕の場合は、復讐をしようがしまいが、そんなことに関係なく、その恐ろしい事実は、刻一刻鮮明の度を加えて、僕に迫ってくるのだった。はじめのあいだはボンヤリした、あるかなきかの疑いだったものが、徐々に、ほんとうに徐々に、事実らしくなって行った。そして、今ではそれが『らしく』などという言葉を許さぬ、火のように明らかな事実となってしまったのだ。今までは心の中の問題だったものが、あまりに明瞭な証拠物の発見によって、もうどうにも動きのとれぬ事実となってしまった。どっちみち、僕はこの苦しみを味わねばならぬのだ。どうせ苦しむのなら、多分僕よりも幾層倍打撃を蒙るであろう敵にも、この事実を知らせてやろう。そして、そののたうち廻る有様を眺めてやろう。僕はそう決心したのだ。  その当座、僕は毎日々々その男のこの上もなく巧妙な復讐のことよりほかは考えなかった。或いは憤ったり、或いは感心したりしながら、そればかりで頭の中が一杯になっていた。ところが、ある日、地平線の彼方にぽっつりと現われた、一点の怪しげな黒雲のように、ふと妙な考えが浮かんだ、なるほど、あの男は完全無欠な手際で復讐をなしとげた。しかし、もし妙子が彼の信じているように、彼を嫌っていなかったとしたらどうだ。いや、かえって彼を愛していたとしたらどうだ……そんなことがあるはずはない。それはとりとめもない妄想だ。おれは頭がどうかしている。ばかな、そんなことがあってたまるものか。だが、しかしそれは果たしてあり得ないことだろうか。なぜ、こんなとほうもない妄想が、おれの頭の中へ浮かんできたのだろう。僕は恐ろしさに身震いした。もし……もし、妙子があれ以来その男を思いつづけていたとしたら。  自然に、僕の考えは妙子との結婚当時の事情に移って行った。その男は結婚以前の僕にとって、一人の恐るべき競争者だった。僕は秘かに信じているんだが、その男自身も、彼の周囲の人たちも、妙子が僕と結婚しようなどとは、毛頭考えていなかったに違いない。そして、その男こそ妙子の未来の夫になる仕合わせ者だと信じていたに違いない。それほど、その男は妙子の心を奪っていた。もしそこに特別の事情がなかったなら、妙子は必ず彼のもとに走ったであろう。敵ながら、その男にはあらゆる条件が備わっていた。それに反して僕はというと、何一つ女の心を惹くような美点を持ち合わせていなかったではないか。だが、僕の方には特別の武器があった。僕は妙子の家と遠い姻戚関係があったばかりでなく、昔にさかのぼれば、僕の一家は妙子の一家の主筋に当たるのだった。そうした関係から、結婚を申込めば妙子の両親が、あの昔形気な老人たちが、二つ返事でむしろ有難く承諾するのは当然のことだった。そんな義理づくばかりでなく、物堅い僕の性質が『あの人なら』というふうに彼らの深い信用を買っていた。その上、幸か不幸か、妙子自身が、どんなことがあっても親の言いつけには反き得ないような、昔風の娘だった。心では、どれほど深く思いつめている男があっても、それを色に現わすようなはしたない女ではなかった。僕はそういう事情につけ込んで、無理にも我意を通そうとしたのではなかったか。たとえこれほど明瞭には考えないでも、心の奥では、それを意識していはしなかったか。  だが、誰でも持っているように、僕とても、人並の、いやおそらく人並以上の自惚れを持っていた。意外にもすらすらと結婚の話が進捗して、さて一緒になってみると、いつとはなしに、そうした自責に似た心持も消え去ってしまった。妙子は、僕を大切な旦那様として、十分貞節を尽してくれた。『さては、あの男を恋していたと思ったのも、おれの疑心暗鬼であったか』お人好しの僕は一概にそう信じてしまったのだった。  しかし今にして思えば、妙子のほかに女というものを知らぬ僕には、なんとも判断しかねるけれど、恋というのはあんなものではないらしい。僕と妙子の関係は、恋人というよりも、むしろ主従のそれに近いものだったのではあるまいか。考えてみれば僕もずいぶんお坊ちゃんであった。三年間もつれ添っていながら、女房の心持がハッキリわからないなんて……実際、僕はこれまで、女房の心持について考えて見ようなどと思ったことすらないのだ。夫婦になりさえすれば、女房というものは、亭主を世界中のただ一人として愛するものだと単純に極めてしまって、もうなんの疑うところもなく、専門の仕事に没頭していたのだった。  だが、今度の事件が僕の眼をひらいてくれた。  あとになって考えると、妙子のそぶりに腑に落ちぬ点が多々あった。ああいう時、ほんとうに夫を愛している女房だったら、あんなふうにはしなかったろうというような、些細な出来事がそれからそれへと思い浮かぶのだった。確かに、妙子は僕という夫に満足していなかったのだ。そして心ならずも見棄てたところの、昔の恋人の姿を、絶えず心にいだきしめていたのだ。いや心の上だけではない。悲しいことだが、彼女のあのふくよかな暖かい胸には、真実その男の『姿』が抱きしめられていたのだった。  僕はさっき、動きのとれぬ証拠物を発見したと言った。  その証拠というのは、見たまえ、これなんだ。このペンダントは、君もよく知っているように、妙子が娘時代から大切にしていた品だ。  これは、やっと火事場から持ち出した彼女の手文庫の底に、丁寧にビロードのサックに入れてしまってあったのを、つい数日前、ふとしたことから発見したんだが、この妙子の秘蔵のペンダントの中には一体なにがはいっていたと思う。その中には、野本君、その男の——越野が火事場で出会った男の——妙子を無残に焼き殺した男の——しかも、その妙子が以前からずっと愛しつづけていた男の——写真が、守り本尊のようにはりつけてあったのだよ。しかし、もし、これが、妙子が娘時代にその男の写真をはりつけておいたまま、うち忘れていたとでもいうのならまだしも、現に、彼女は僕と結婚した当座、確かにこの中へは僕の写真をはりつけていたのだからな。それがいつの間にか、その男の写真と代っていたというのは、これは一体なにを語るものだろう」  北川氏は、内ぶところへ手を入れて、一つの金製のペンダントを取り出した。そして、それを手の平の上にのせてヌッと野本氏の鼻の先へつき出した。  野本氏は、怖れに耐えぬように、打震う手でそれを受け取った。そして、ペンダントの表面の浮彫り模様をじっと見入っていた。  北川氏は極度に緊張していた。皇国の興廃この一戦にありといった感じだった。あらゆる神経が両眼に集中した。そして、野本氏の表情を、どんな細かい点までも見のがすまいと努力した。死のような沈黙がつづいた。  野本氏は可なり長いあいだペンダントを見つめていた。  彼は、その蓋をひらいて、中の写真を確かめようともしなかった。それは、そんなことをしてみるまでもなく、あまりに明白な事実として、野本氏の胸を打ったのに違いなかった……彼の表情はだんだん空虚になって行った。殊に彼の眼は、視線だけはペンダントに注いでいたけれど、何かほかのことを深く深く思いめぐらしてでもいるように、まるでうつろに見えた。やがて、彼の頭は、そろりそろりとさがって行った。そして、ついには、彼はチャブ台の上に俯伏してしまったのだった。その瞬間、北川氏は彼が泣き出したのではないかと思ってハッとした。だが、そうではなかった。  野本氏は、あまりにひどい心の痛手に、もはや永久に起き上がることのできない人のように、俯伏したまま動かなかった。  北川氏は、もうこれでいいと思った。  勝利の快感で喉が塞がったようになった。それ以上話をつづける必要はなかった。たとえあっても、北川氏にはもう口が利けなかった。彼はもがくようにして立ち上がった。  そして、俯伏したままの野本氏をしり目にかけて、すっと座敷から出た。何も知らぬ婆やが、あわてて彼の下駄を直しに出てきた。彼は躍るような足取りで玄関の式台へ下りたとたんに、ドサリという音がした。  北川氏は婆やの上に重なって、ぶざまに倒れていた。彼は昂奮のあまり痺れが切れたことすら意識しなかったのだ。 「かくして、おれは勝ったのだ」  北川氏は満悦のていで、まだ歩きつづけていた。 「あいつはあのペンダントを永久に手離し得ないのだ。棄てようとしても、どうにも棄てられないのだ、いやペンダントそのものはたとえ棄てることができても、あいつの頭の中には、いつまでも、いつまでも、おそらく墓場の中までも、その持主の姿を象徴するようにあのペンダントがこびりついていることだろう。『これほど自分を思ってくれた人を、おれはこの上もない残酷な手段で焼き殺してしまったのだ』やつは取り返しのつかぬ失策に、毎日々々嘆き悶えることだろう。こんな気味のいい復讐があるだろうか。なんという申し分のない手際だろう。さすがは北川だ。お前は偉い。お前の頭は、日頃お前が信じている通り、実にすばらしいものだなあ」  北川氏の歓喜は勝利の悲哀に転ずる一刹那前のクライマックスに達していた。  彼は今、歩きつづけながらベースボールの応援者たちが、「フレー、フレー、なんとかあ」と喚いて躍り上がる時のように、躍り上がった。そして、気違いのように涎を垂らしながら、ゲラゲラと笑った、おびただしい汗が、シャツを通して、薩摩上布の腰のあたりをべっとりと濡らしていた。まっ赤に充血した顔からは、ぼとりぼとりと汗の雫が垂れていた。 「ワハハハハハハハハハハハハ、なんというばかばかしい、子供だましなトリックだ。野本先生まんまとしてやられたね。え、野本先生」  彼は大きな声でこうどなった。  さて、北川氏が野本氏に話したことは、実は前の半分だけがほんとうで、あとの半分は彼の復讐のために考え出したトリックにすぎないのだった。  彼が妙子の死を悲しんだことは、実際野本氏に話した幾層倍か知れなかった。彼女が死んでから半月ばかりというものは、学校も休んでしまって——それが彼の職業だった——夜の眼も寝ずに泣き悲しんでいた。「ママ、ママ」と母親の乳を求める幼児といっしょになって泣いていた。  越野氏——あの火事の時に親切に手伝ってくれた越野氏が、彼の新居へやってきて、妙子の死因についてある暗示を与えたまでは、彼は彼女の死を疑う余裕さえないほど、ただわけもなく悲嘆に暮れていた。  だが一とたび越野氏の話を聞くと、  彼は例の一本調子になって、悲しみを打ち忘れて復讐に熱中しだした。夜となく昼となく、彼は相手の残酷な復讐に対する返り討ちの手段のみを考えた。  それは非常に困難な仕事だった。第一、相手が誰であるか、それすらわからなかった。北川氏は越野氏が火事場で野本氏に逢ったように話したけれど、あれも作りごとだった。なるほど、越野氏は見覚えのある男に逢ったと言った。そして、その男がいかにも彼の眼を怖れるように人混みの中へ隠れてしまったとも言った。  しかし、それが誰であったか、越野氏はよく見別ける暇がなかったのだった。 「なんでも、学校時代に親しく往き来した友だちの一人なんだ。何しろ、あの騒ぎで、気が顛動している際だったから、ハッキリしたことはいえないが、野本か、井上か、松村か、つまり、あの時分君の書斎へよく集まった連中の一人だと思うんだがね。野本のようでもあり、井上のようでもあり、そうかといって松村でなかったとも断言し兼ねるが……ともかくその三人のうちの誰かに違いないのだけれど、どうしても思い出せない」  越野氏はこんなふうに言った。  先ず相手から探してかからねばならないのだった。もし、間違った相手に復讐するようなことがあったら、取り返しのつかぬことになる。それに、たとえ相手がわかったとしても、あまりに巧妙な遣り口に、どうにも手のつけようがないではないか、北川氏自身野本氏に白状した通り、それは絶対に証拠のない犯罪だった。純粋に心理的なものだった。つまり、そこには二重の困難が横たわっていたのだった。  幾日となく、そればかりを考えているうちに、北川氏の頭に、ふとすばらしい名案が浮かんできた。それは法律に訴えることではむろんなかった。といって、暴力をもって私刑を行なうのでもなかった。それは、復讐者は絶対に安全で、しかも、相手には、政府の牢獄や、どんな私刑の苦痛にもまして、深い、強い打撃を与えうるような方法だった。そればかりでなく、もっといい事には、その方法によるときは、わざわざ真犯人を見いだす面倒のないことだった。嫌疑者のすべてに対して、それを実行しさえすればよいのだった。  真の犯罪者にはこの上もない苦痛を与えるけれども、他の者はなんらの痛痒も感じないという方法だった。  妙子が残していったペンダントと、学生時代に、同じクラスの者が集まって写した四つ切りの写真とが、その材料だった。  北川氏は先ずそのペンダントと同じものを二つ作らせた。そして、都合三つの寸分違わないペンダントが揃うと、今度はその中へ、それぞれ、野本氏、井上氏、松村氏の写真を、顔のところだけ切り抜いてはりつけた。  なんという簡単な準備だ。これであの重大な仇討ができようとは。 「しかし、相手のトリックは、もっと簡単でしかも自然だったではないか。世の中には、きわめて些細な原因が、非常に重大な結果を招くことがあるもんだ。このつまらないペンダントと、古ぼけた切抜き写真が、一人の人間の一生の運命を左右する偉大な力を持っていないと誰が断言できるだろう。  野本にしろ、井上にしろ、松村にしろ、このペンダントを見忘れているはずはない。殊にこの蓋の表面のヴィーナスの浮彫りは、あの頃おれの室へきたほどの青年たちが皆熟知しているはずだ。彼らが妙子の噂をし合うときには、いつもその本名を呼ぶ代りに、ペンダントの模様から思いついた『ヴィーナス』という綽名を使っていたほどではないか。今もし、彼らのうちの誰かが、妙子の手文庫の底深く秘めていた、このペンダントの中に、自分の写真がはり付けてあったと知ったなら、どんなに狂喜することだろう。と同時に、もしその誰かが、妙子を焼き殺した本人だったら、その男の悲痛はまあどれほどだろう」  実を言えば、越野氏の教えてくれた三人の中では、北川氏は野本氏を最も疑っていた。だが、他の二人とても妙子に無関心であったはずはないのだから、疑って疑えないことはなかった。そこで、最も嫌疑の重い野本氏を最後に残して、先ず、井上、松村の両氏に、北川氏自ら名案と信ずる、このペンダントのトリックを試みることにしたのだった。  しかし、両氏とも、ペンダントを取り出すまでもなく、その無実が明瞭になった。  彼らは申し合わせたように、北川氏の変てこな話を聴くと、気の毒だという表情をした。そして、 「君は細君に死なれて、少しとりのぼせているに違いない。そんなばかばかしいことがあってたまるものか、君はもっと気を落ち着けなくちゃいけない。まあまあそんなつまらない話は止しにして、さあ一杯やりたまえ」  というような調子で、他意もなく慰めてくれるのだった。彼らの表情には、犯罪者の不安などは影さえもささなかった。  北川氏は少なからず失望した。 「おれの考えは、そんなに気違いじみているのかしら。もしかすると、これは彼らのいうように、まるで根も葉もない妄想にすぎないのではあるまいか。  だが、まだ野本が残っている。おれは最初からあいつをこそ目ざしていたのではないか。ともかくも最後までやってみなければ」  こうして、彼はきょう野本氏をおとずれたのだった。そして、予期以上の見事な効果を収めたのだった。彼が狂人のように歓喜したのは決して無理ではなかった。  北川氏は二時間あまりも、汗でベトベトになって歩きつづけていた。ふと時計を見ると、夏の日はまだ暮れるに間があったけれど、時間はもう夕食どきをすぎていた。彼はようやくわれに返ったように、今度は方向を定めて歩き出した。  一日の昂奮で疲れきったからだを、郊外電車に揺られながら、家にたどりつくと、彼はもう何をする気にもなれなかった。すぐに床をとらせて、ぐったりと横になると、間もなく、快い鼾が、きょうの勝利に満足しきった彼の喉から、ゆったりしたリズムをもって、流れてくるのだった。  翌日、北川氏が眼をさましたのは、十時に近いころだった。熟睡の後の快い倦怠が、彼をことさらいい心持にした。彼は起き上がると寝間着のまま書斎へはいって行った。そこには甘い回想の材料が彼を待っていた。野本氏の手に残してきたのと寸分違わない、二つのペンダントが、書き物机の引出しの中に待っていた。  彼はそれを取り出して愛撫するように眺めるのだった。  はじめの計画では、野本氏の所ばかりでなく、井上氏や、松村氏の所へも、それを残してくるつもりだった。もし三人の内、誰が犯罪者だか判別しかねるような場合には、どうしても一人に一つずつペンダントを残してくる必要があった。そういうつもりで、彼はわざわざ高価な模造品を二つまで造らせたのだった。  しかし、前にも言ったように、野本氏のほかの二人は、ペンダントを取り出すまでもなく見別けがついた。北川氏は大切に紙入れの中へ入れて行ったのを、二度ともそのまま持ち帰らねばならなかった。彼は今、その不用に帰した二つのペンダントを眺めているのだった。 「野本のやつ、こんなトリックがあろうとは、まるで想像もできないだろう。へへへへへ、どうです。なんとうまい手品でしょうがな。ところで一つ種明かしをいたしましょうか。さあごらんなされ。手品の種というのは、この二つのペンダントでござる。この中には一体なにがはいっているとおぼしめす。わかりますまい? では申しますがね。この一つには松村先生の写真、もう一つには井上先生の写真が、ちゃんとはいっているのですよ。野本先生の写真はもうここには……」  北川氏は、ふと|台詞《せ り ふ》めいた独り言をやめた。  彼は心臓がスーッと喉の方へ飛び上がってくるような気がした。彼の顔が白紙のように白くなった。今にもペンダントの蓋をひらこうとしていた彼の手は、突然、えたいの知れぬ恐れのために、パッタリその動作を中止した。  そして恐怖に耐えぬ彼の瞳がじっと空を見詰めた。 「おれはどんなこまかい点までも、注意に注意して事を運んだつもりだ。しかし、この不安はどうしたというのだろう。何かとほうもない間違いをしてやしないかしら、お前は今、その肝腎の点だけがどうしても思い出せないではないか。お前は野本の家へ行くときに、果たして野本の写真のはいっているペンダントを持って行ったか。  さあ、しっかりしろ。もしも、お前が野本に渡したペンダントに、松村か井上の写真がはいっていたとしたら、どんな結果になるか、よく考えてみよ。お前は恐ろしくはないか。そら、お前は震えているではないか。では、お前は、そのどうにも取り返しのつかぬ錯誤を、今思い出したとでもいうのか」  彼はフラフラと立ち上がった。そして、じっとしていられないように、部屋の入口の方へ歩き出した。ちょうどその時、出会いがしらに女中が一通の封書を手にして彼の書斎へはいってきた。 「旦那様、野本さんからお使いでございます」  しゃっくりのようなものが北川氏の胸に込み上げてきた。  ある予感が、だだっ子のように、この手紙を読ませまいと、彼を引き止めた。しかし、いつまでもそうして女中と睨めっこをしているわけにはいかなかった。  彼はついに意を決したもののように、手紙を取って開封した。巻紙に書かれた達筆な野本氏の文字が、焼きつくように北川氏の眼を射た。  読んでいるうちに、物凄い笑いが北川氏の口辺に浮かんできた。その笑いがだんだん顔じゅうに拡がって行った。  彼は、巻紙を持った両手をスーッとさし上げたかと思うと、クルリ、その巻紙で頬冠りをした。そして爆発したように笑い出した。 「ハッハッハッハッ…………ヘッヘッヘッヘッヘッ…………フッフッフッフッ…………」  彼は身をもだえて笑いつづけた。ちょうど、朝顔日記の笑い薬の段に出てくる|悪《あく》医者のように、止め度もなく笑いこけた。  こうして、可哀そうな北川氏は発狂してしまった。彼の発狂の原因がなんであったか、われわれはいま俄かにそれを判断することはできない。  しかし、妙子の変死がその最も重大なる遠因であって、野本氏の手紙がその最も重大なる近因であったと推定するのが、まず誤りのないところであろう。その野本氏の手紙には左のような文句が綴られてあった。 [#ここから2字下げ] 前略 昨日は意外の失策御無礼の段幾重にも御容赦下されたく候。実は数日来極度の多忙にてろくろく夜の眼も寝ず仕事に没頭いたしおり、連日の睡眠不足より遂にあの不始末に及びたる次第に候。貴君のお話も幽かには記憶いたしおり候得共、いつお立帰りになりたることやらまるで前後忘却、貴君の前をも憚らずいぎたなく熟睡に及びたる段、何とも申訳の言葉もこれなく候。おぼろげながら昨日のお話によれば、令閨御死去に関して何か疑惑を抱かれおる様拝察いたし候得共、常識より判断いたせばお話の如き儀はよもこれあるまじきかと存ぜられ候。愛人を失われたる御悲歎の程は千万御同情申上候得共、余りに其事のみ思い詰められては御健康にも宜しからず、此際転地でもなされ十分御静養相成り候様、差出がましき次第ながら、旧友の老婆心より御忠告申上候。先は取りあえず昨日の御詫旁々斯くのごとくに御座候。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 二伸、御忘れのペンダント同封いたしおき候。確かこの中に貼付けある写真の主こそは恐るべき殺人者のよう承り候得共、さるにても御同様親しく往来いたしおるかの松村君が仰せの如き極悪人なりとは断じて信じ難き所に御座候。 [#ここで字下げ終わり]  封筒の中には、手紙のほかに、白紙で包んだペンダントがはいっていた。どうして間違ったのか、そのペンダントには野本氏のでなくて、松村氏の写真が貼りつけてあった。この手紙が野本氏の真意であったか、それともペンダントの間違いに乗じた彼の機智であったか、それは野本氏自身のほかは誰にもわからぬ永久の秘密だった。かくて、北川氏の発狂の直接の動機となったものは、なんと恐ろしい因縁ではないか。彼がへいぜい口癖のようにしていた、いわゆる「脳髄の盲点」の作用だったのである。     D坂の殺人事件     (上)事 実  それは九月初旬のある蒸し暑い晩のことであった。私は、D坂の大通りの中ほどにある、白梅軒という、行きつけの喫茶店で、冷しコーヒーを啜っていた。当時私は、学校を出たばかりで、まだこれという職業もなく、下宿にゴロゴロして本でも読んでいるか、それに飽きると、当てどもなく散歩に出て、あまり費用のかからぬ喫茶店廻りをやるくらいが、毎日の日課だった。この白梅軒というのは、下宿屋から近くもあり、どこへ散歩するにも必ずその前を通るような位置にあったので、したがって、いちばんよく出入りするわけであったが、私という男は悪い癖で、喫茶店にはいるとどうも長尻になる。それに、元来食欲の少ない方なので、ひとつは嚢中の乏しいせいもあってだが、洋食ひと皿注文するでなく、安いコーヒーを二杯も三杯もお代りして、一時間も二時間もじっとしているのだ。そうかといって、別段、ウエートレスにおぼしめしがあったり、からかったりするわけでもない。まあ下宿よりなんとなく派手で居心地がいいのだろう。私はその晩も、例によって、一杯の冷しコーヒーを十分もかかって飲みながら、いつもの往来に面したテーブルに陣取って、ボンヤリ窓のそとをながめていた。  さて、この白梅軒のあるD坂というのは、以前菊人形の名所だったところで、狭かった通りが市区改正で取り拡げられ、何間道路とかいう大通りになって間もなくだから、まだ大通りの両側にところどころ空地などもあって、今よりはずっと淋しかった時分の話だ。大通りを越して白梅軒のちょうど真向こうに、一軒の古本屋がある。実は、私は先ほどから、そこの店先をながめていたのだ。みすぼらしい場末の古本屋で、別段ながめるほどの景色でもないのだが、私にはちょっと特別の興味があった。というのは、私が近頃この白梅軒で知合いになった一人の妙な男があって、名前は明智小五郎というのだが、話をしてみるといかにも変り者で、それが頭がよさそうで、私の惚れ込んだことには、探偵小説好きなのだが、その男の幼馴染の女が、今ではこの古本屋の女房になっているということを、この前、彼から聞いていたからだった。二、三度本を買って覚えているところによれば、この古本屋の細君というのがなかなかの美人で、どこがどうというではないが、なんとなく官能的に男をひきつけるようなところがあるのだ。彼女は夜はいつでも店番をしているのだから、今晩もいるに違いないと、店じゅうを、といっても二間半間口の手狭な店だけれど、探してみたが、誰もいない、いずれそのうちに出てくるのだろうと、私はじっと眼で待っていたものだ。  だが、女房はなかなか出てこない。で、いい加減面倒臭くなって、隣の時計屋へと眼を移そうとしている時であった。私はふと、店と奥の間との境に閉めてある障子の戸が、ピッシャリしまるのを見た——その障子は専門家の方では無双と称するもので、普通、紙をはるべき中央の部分が、こまかい縦の二重の格子になっていて、一つの格子の幅が五分ぐらいで、それが開閉できるようになっているのだ——ハテ変なこともあるものだ。古本屋などというものは、万引きされやすい商売だから、たとえ店に番をしていなくても、奥に人がいて、障子のすき間などから、じっと見張っているものなのに、そのすき見の箇所を塞いでしまうとはおかしい。寒い時分ならともかく、九月になったばかりのこんな蒸し暑い晩だのに、第一障子そのものが閉めきってあるのからして変だ。そんなふうにいろいろ考えてみると、古本屋の奥の間になにごとかありそうで、私は眼を移す気になれなかった。  古本屋の細君といえば、ある時、この喫茶店のウエートレスたちが、妙な噂をしているのを聞いたことがある。なんでも、銭湯で出会うおかみさんや娘さんたちの棚おろしのつづきらしかったが、「古本屋のおかみさんは、あんなきれいな人だけれど、はだかになると、からだじゅう傷だらけだ。たたかれたり抓られたりした痕に違いないわ。別に夫婦仲が悪くもないようだのに、おかしいわねえ」すると別の女がそれを受けてしゃべるのだ。「あの並びのソバ屋の旭屋のおかみさんだって、よく傷をしているわ。あれもどうも叩かれた傷に違いないわ」……で、この噂話が何を意味するか、私は深くも気に留めないで、ただ亭主が邪慳なのだろうぐらいに考えたことだが、読者諸君、それがなかなかそうではなかったのだ。このちょっとした事柄が、この物語全体に大きな関係を持っていたことが、後になってわかったのである。  それはともかく、私はそうして三十分ほども同じところを見詰めていた。虫が知らすとでもいうのか、なんだかこう、傍見をしているすきに何事か起こりそうで、どうもほかへ眼が向けられなかったのだ。その時、先ほどちょっと名前の出た明智小五郎が、いつもの荒い棒縞の浴衣を着て、変に肩を振る歩き方で、窓のそとを通りかかった。彼は私に気づくと会釈をして中へはいってきたが、冷しコーヒーを命じておいて、私と同じように窓の方を向いて、私の隣に腰かけた。そして、私が一つところを見詰めているのに気づくと、彼はその私の視線をたどって、同じく向こうの古本屋をながめた。しかも、不思議なことには、彼もまた、いかにも興味ありげに、少しも眼をそらさないで、その方を凝視し出したのである。  私たちは、そうして、申し合わせたように同じ場所をながめながら、いろいろむだ話を取りかわした。その時、私たちのあいだにどんな話題が話されたか、今ではもう忘れてもいるし、それに、この物語にはあまり関係のないことだから、略するけれど、それが、犯罪や探偵に関したものであったことは確かだ。試みに見本をひとつ取り出してみると、 「絶対に発見されない犯罪というものは不可能でしょうか。僕はずいぶん可能性があると思うのですがね。たとえば、谷崎潤一郎の『途上』ですね。ああした犯罪はまず発見されることはありませんよ。もっとも、あの小説では、探偵が発見したことになってますけれど、あれは作者のすばらしい想像力が作り出したことですからね」と明智。 「いや、僕はそうは思いませんよ。実際問題としてならともかく、理論的にいって、探偵のできない犯罪なんてありませんよ。ただ、現在の警察に『途上』に出てくるような偉い探偵がいないだけですよ」と私。  ざっとこういったふうなのだ。だが、ある瞬間、二人は言い合わせたように、ふとだまり込んでしまった。さっきから、話しながら眼をそらさないでいた向こうの古本屋に、ある面白い事件が発生していたのだ。 「君も気づいているようですね」  と私がささやくと、彼は即座に答えた。 「本泥棒でしょう。どうも変ですね。僕もここへはいってきた時から、見ていたんですよ。これで四人目ですね」 「君が来てからまだ三十分にもなりませんが、三十分に四人も。少しおかしいですね。僕は君の来る前からあすこを見ていたんですよ。一時間ほど前にね、あの障子があるでしょう。あれの格子のようになったところが、しまるのを見たんですが、それからずっと注意していたのです」 「うちの人が出て行ったのじゃないのですか」 「それが、あの障子は一度もひらかないのですよ。出て行ったとすれば裏口からでしょうが………三十分も人がいないなんて、確かに変ですよ。どうです、行ってみようじゃありませんか」 「そうですね。うちの中には別状がないとしても、そとで何かあったのかもしれませんからね」  私はこれが犯罪事件ででもあってくれれば面白いがと思いながら、喫茶店を出た。明智とても同じ思いに違いなかった。彼も少なからず興奮しているのだ。  古本屋は、よくある型で、店は全体土間になっていて、正面と左右に天井まで届くような本棚を取り付け、その腰のところが本を並べるための台になっている。土間の中央には、島のように、これも本を並べたり積み上げたりするための、長方形の台がおいてある。そして、正面の本棚の右の方が三尺ばかりあいていて奥の部屋との通路になり、先にいった一枚の障子が立ててある。いつもは、この障子の前の半畳ほどの畳敷きのところに、主人か細君がチョコンとすわって番をしているのだ。  明智と私とは、その畳敷きのところまで行って、大声に叫んでみたけれど、なんの返事もない。はたして誰もいないらしい。私は障子を少しあけて、奥の間を覗いてみると、中は電燈が消えてまっ暗だが、どうやら人間らしいものが、部屋の隅に倒れている様子だ。不審に思ってもう一度声をかけたが、返事をしない。 「構わない、上がってみようじゃありませんか」  そこで、二人はドカドカと奥の間へ上がり込んで行った。明智の手で電燈のスイッチがひねられた。そのとたん、私たちは同時に「アッ」と声を立てた。明かるくなった部屋の片隅に、女の死体が横たわっていたからだ。 「ここの細君ですね」やっと私がいった。「首を絞められているようじゃありませんか」  明智はそばへ寄って、死骸を調べていたが、 「とても蘇生の見込みはありませんよ。早く警察へ知らせなきゃ。僕、公衆電話まで行ってきましょう。君、番をしててください。近所へはまだ知らせない方がいいでしょう。手掛りを消してしまってはいけないから」  彼はこう命令的に言い残して、半丁ばかりのところにある公衆電話へ飛んで行った。  平常から、犯罪だ探偵だと、議論だけはなかなか一人前にやってのける私だが、さて実際にぶっつかったのははじめてだ。手のつけようがない。私は、ただ、まじまじと部屋の様子をながめているほかはなかった。  部屋はひと間きりの六畳で、奥の方は、右一間は幅の狭い縁側をへだてて、二坪ばかりの庭と便所があり、庭の向こうは板塀になっている——夏のことで、あけっぱなしだから、すっかり、見通しなのだ——左半間はひらき戸で、その奥に二畳敷きほどの板の間があり、裏口に接して狭い流し場が見え、裏口の腰高障子は閉まっている。向かって右側は、四枚の襖になっていて、中は二階への階段と物入れ場になっているらしい。ごくありふれた安長屋の間取りだ。死骸は、左側の壁寄りに、店の間の方を頭にして倒れている。私は、なるべく兇行当時の模様を乱すまいとして、一つは気味もわるかったので、死骸のそばへ近寄らないようにしていた。でも、狭い部屋のことだから、見まいとしても、自然その方に眼が行くのだ。女は荒い中形模様の浴衣を着て、ほとんど仰向きに倒れている。しかし、着物が膝の上の方までまくれて、腿がむき出しになっているくらいで、別に抵抗した様子はない。首のところは、よくはわからぬが、どうやら、絞められた痕が紫色になっているらしい。  表の大通りには往来が絶えない。声高に話し合って、カラカラと|日《ひ》|和《より》下駄を引きずって行くのや、酒に酔って流行歌をどなって行くのや、しごく天下泰平なことだ。そして障子ひとえの家の中には、一人の女が惨殺されて横たわっている。なんという皮肉だろう。私は妙な気持ちになって、呆然とたたずんでいた。 「すぐくるそうですよ」  明智が息をきって帰ってきた。 「あ、そう」  私はなんだか口をきくのも大儀になっていた。二人は長いあいだ、ひとことも言わないで顔を見合わせていた。  間もなく、一人の制服の警官が背広の男と連れだってやってきた。制服の方は、後で知ったのだが、K警察署の司法主任で、もう一人は、その顔つきや持物でもわかるように同じ署に属する警察医だった。私たちは司法主任に、最初からの事情を大略説明した。そして私はこうつけ加えた。 「この明智君が喫茶店へはいってきた時、偶然時計を見たのですが、ちょうど八時半でしたから、この障子の格子が閉まったのは、おそらく八時頃だったと思います。その時はたしか中にも電燈がついていました。ですから、少なくとも八時頃には、誰か生きた人間が部屋にいたことは明らかです」  司法主任が私たちの陳述を聞き取って、手帳に書き留めているあいだに、警察医は一応死体の検診を済ませていた。彼は私たちの言葉のとぎれるのを待っていった。 「絞殺ですね。手でやられたのです。これごらんなさい。この紫色になっているのが指の痕ですよ。それから、この出血しているのは、爪があたった箇所です。|拇《おや》|指《ゆび》の痕が頸の右側についているのを見ると、右手でやったものですね。そうですね。おそらく死後一時間以上はたっていないでしょう。しかし、むろん蘇生の見込みはありません」 「上から押さえつけられたのですね」司法主任が考え考え言った。「しかし、それにしては、抵抗した様子がないが……おそらく非常に急激にやったのでしょうね、ひどい力で」  それから、彼は私たちの方を向いて、この家の主人はどうしたのだと尋ねた。だが、むろん、私たちが知っているはずはない。そこで、明智は気をきかして、隣家の時計屋の主人を呼んできた。  司法主任と時計屋の問答は大体次のようなものだった。 「主人はどこへ行っているのかね」 「ここの主人は、毎晩古本の夜店を出しに参りますんで、いつも十二時頃でなきゃ帰って参りません」 「どこへ夜店を出すんだね」 「よく上野の広小路へ参りますようですが、今晩はどこへ出しましたか、どうも手前にはわかりかねます」 「一時間ばかり前に、何か物音を聞かなかったかね」 「物音と申しますと」 「きまっているじゃないか。この女が殺される時の叫び声とか、格闘の音とか……」 「別段これという物音も聞きませんようでございましたが」  そうこうするうちに、近所の人たちが聞き伝えて集まってきたのと、通りがかりの野次馬で、古本屋の表は一杯の人だかりになった。その中に、もう一方の隣家の足袋屋のおかみさんがいて、時計屋に応援した。そして、彼女も、何も物音を聞かなかったと申し立てた。  このあいだに、近所の人たちは、協議の上、古本屋の主人のところへ使いを走らせた様子だった。  そこへ、表に自動車が止まる音がして、数人の人がドヤドヤとはいってきた。それは警察からの急報で駈けつけた検事局の連中と、偶然同時に到着したK警察署長、及び当時名探偵という噂の高かった小林刑事などの一行だ——むろんこれは後になってわかったことだ。というのは、私の友だちに一人の司法記者があって、それがこの事件の係りの小林刑事とごく懇意だったので、私は後日彼からいろいろと聞くことができたのだ。——先着の司法主任は、この人たちの前で今までの模様を説明した。私たちも|先《さき》の陳述をもう一度繰り返さねばならなかった。 「表の戸を閉めましょう」  突然、黒いアルパカの背広に白ズボンという、下廻りの会社員みたいな男が大声でどなって、さっさと戸を閉め出した。これが小林刑事だった。彼はこうして野次馬を撃退しておいて、さて探偵にとりかかった。彼のやり方はいかにも傍若無人で、検事や署長などはまるで眼中にない様子だった。彼ははじめから終りまで一人で活動した。他の人たちはただ彼の敏捷な行動を傍観するためにやってきた見物人にすぎないように見えた。彼は第一に死体を調べた。頸のまわりは殊に念入りにいじり廻していたが、 「この指の痕には別に特徴がありません。つまり普通の人間が、右手で押さえつけたという以外になんの手がかりもありません」  と検事の方を見て言った。次に彼は一度死体をはだかにしてみると言い出した。そこで議会の秘密会みたいに、傍観者の私たちは、店の間へ追い出されねばならなかった。だから、そのあいだにどういう発見があったか、よくわからないが、察するところ、彼らは死人のからだにたくさんの生傷のあることを注意したに違いない。喫茶店のウエートレスの噂していたあれだ。  やがて、この秘密会は解かれたけれど、私たちは奥の間へはいって行くのを遠慮して、例の店の間と奥との境の畳敷きのところから奥の方をのぞきこんでいた。幸いなことには、私たちは事件の発見者だったし、それに、あとから明智の指紋をとらねばならぬことになったために、最後まで追い出されずにすんだ。というよりは抑留されていたという方が正しいかもしれぬ。しかし小林刑事の活動は奥の間だけに限られていたわけではなく、屋内屋外の広い範囲にわたって行なわれたのだから、ひとつところにじっとしていた私たちに、その捜査の模様がわかろうはずがないのだが、うまいぐあいに、検事が奥の間に陣取っていて、始終ほとんど動かなかったので、刑事が出たりはいったりするごとに、一々捜査の結果を報告するのを、もれなく聞きとることができた。検事はその報告にもとづいて、調書の材料を書記に書きとめさせていた。  まず、死体のあった奥の間の捜索が行なわれたが、遺留品も、足跡も、その他探偵の眼に触れる何物もなかった様子だった。ただひとつのものを除いては。 「電燈のスイッチに指紋があります」黒いエボナイトのスイッチに何か白い粉をふりかけていた刑事がいった。 「前後の事情から考えて、電燈を消したのは犯人に違いありません。しかし、これをつけたのはあなた方のうちどちらですか」  明智は自分だと答えた。 「そうですか。あとであなたの指紋をとらせてください。この電燈はさわらないようにして、このまま取りはずして持って行きましょう」  それから、刑事は二階へ上がって行って、しばらく下りてこなかったが、下りてくるとすぐに裏口の路地を調べるのだと言って出て行ってしまった。それが十分もかかったろうか。やがて、彼はまだついたままの懐中電燈を片手に、一人の男を連れて帰ってきた。それは汚れたクレップシャツにカーキ色のズボンという服装で、四十ばかりの汚ない男だ。 「足跡はまるでだめです」刑事が報告した。「この裏口の辺は、日当りがわるいせいか、ひどいぬかるみで、下駄の跡が滅多無性についているんだから、とてもわかりっこありません。ところで、この男ですが」と今連れてきた男を指さし「これは、この裏の路地を出たところの角に店を出していた、アイスクリーム屋ですが、もし犯人が裏口から逃げたとすれば、路地は一方口なんですから、かならずこの男の眼についたはずです。君、もう一度私の訊ねることに答えてごらん」  そこで、アイスクリーム屋と刑事の一問一答。 「今晩八時前後に、この路地を出入りしたものはないかね」 「一人もありません。日が暮れてからこっち、猫の子一匹通りません」アイスクリーム屋はなかなか要領よく答える。「私は長らくここへ店を出させてもらってますが、あすこは、ここのおかみさんたちも、夜分は滅多に通りません。何分あの足場のわるいところへもってきて、まっ暗なんですから」 「君の店のお客で路地の中へはいったものはないかね」 「それもございません。皆さん私の眼の前でアイスクリームを食べて、すぐ元の方へお帰りになりました。それはもう間違いはありません」  さて、もしこのアイスクリーム屋の証言が信用すべきものだとすると、犯人はたとえこの家の裏口から逃げたとしても、その裏口からの唯一の通路である路地は出なかったことになる。さればといって表の方から出なかったことも、私たちが白梅軒から見ていたのだから間違いはない。では彼は一体どうしたのであろう。小林刑事の考えによれば、これは、犯人がこの路地を取りまいている裏おもて二た側の長屋のどこかの家に潜伏しているか、それとも借家人のうちに犯人がいるのか、どちらかであろう。もっとも、二階から屋根伝いに逃げる道はあるけれど、二階をしらべたところによると、表の方の窓は取りつけの格子がはまっていて、少しも動かした様子はないのだし、裏の方の窓だって、この暑さで、どこの家も二階は明けっぱなしで、中には物干で涼んでいる人もあるくらいだから、ここから逃げるのはちょっとむずかしいように思われる、というのだ。  そこで臨検者たちのあいだに、ちょっと捜査方針についての協議がひらかれたが、結局、手分けをして近所を軒並みにしらべてみることになった。といっても、裏おもての長屋を合わせて十一軒しかないのだから、たいして面倒ではない。それと同時に、家の中も再度、縁の下から天井裏まで残るくまなく調べられた。ところがその結果は、なんの得るところもなかったばかりでなく、かえって事情を困難にしてしまったようにみえた。というのは、古本屋の一軒おいて隣の菓子屋の主人が、日暮れ時分からつい今しがたまで、屋上の物干へ出て尺八を吹いていたことがわかったが、彼は初めからしまいまで、ちょうど古本屋の二階の窓の出来事を見のがすはずのないような位置に坐っていたのだ。  読者諸君、事件はなかなか面白くなってきた。犯人は、どこからはいって、どこから逃げたのか、裏口からでもない、二階の窓からでもない、そして表からではもちろんない。彼は最初から存在しなかったのか、それとも煙のように消えてしまったのか。不思議はそればかりではない。小林刑事が、検事の前に連れてきた二人の学生が、実に妙なことを申し立てたのだ。それは近所に間借りしている或る工業学校の生徒たちで、二人ともでたらめをいうような男とも見えぬが、それにもかかわらず、彼らの陳述はこの事件をますます不可解にするような性質のものだったのである。  検事の質問に対して、彼らは大体左のように答えた。 「僕は、ちょうど八時頃に、この古本屋の前に立って、そこの台にある雑誌をひらいて見ていたのです。すると、奥の方でなんだか物音がしたもんですから、ふと眼を上げてこの障子の方を見ますと、障子は閉まっていましたけれど、この格子のようになったところがひらいていましたので、そのすき間に一人の男の立っているのが見えました。しかし、私が眼を上げるのと、その男がこの格子を閉めるのと、ほとんど同時でしたから、くわしいことはむろん分りませんが、でも帯のぐあいで男だったことは確かです」 「で、男だったというほかに何か気づいた点はありませんか、背恰好とか、着物の柄とか」 「見えたのは腰から下ですから背恰好はちょっとわかりませんが、着物は黒いものでした。ひょっとしたら、細かい縞か絣であったかもしれませんけれど、私の眼には黒く見えました」 「僕もこの友だちと一緒に本を見ていたんです」ともう一方の学生、「そして、同じように物音に気づいて同じように格子の閉まるのを見ました。ですが、その男は確かに白い着物を着ていました。縞も模様もない、白っぽい着物です」 「それは変ではありませんか。君たちのうちどちらかが間違いでなけりゃ」 「決して間違いではありません」 「僕も嘘は言いません」  この二人の学生の不思議な陳述は何を意味するか、敏感な読者はおそらくあることに気づかれたであろう。実は、私もそれに気づいたのだ。しかし、検事や警察の人たちは、この点について、あまり深くは考えない様子だった。  間もなく、死人の|夫《おっと》の古本屋が、知らせを聞いて帰ってきた。彼は古本屋らしくない、きゃしゃな若い男だったが、細君の死骸を見ると、気の弱い性質とみえて、声こそ出さないけれど、涙をぽろぽろこぼしていた。小林刑事は彼が落ち着くのを待って、質問をはじめた。検事も口を添えた。だが、彼らの失望したことには、主人は全然犯人の心当りがないというのだ。彼は「これに限って人様の怨みを受けるようなものではございません」といって泣くのだ。それに、彼がいろいろ調べた結果、物とりの仕業でないことも確かめられた。そこで主人の経歴、細君の身元その他のさまざまの取調べがあったけれど、それらは別段疑うべき点もなく、この話の筋に大して関係もないので、略することにする。最後に死人のからだにある多くの生傷について刑事の質問があった。主人は非常に躊躇していたが、やっと自分がつけたのだと答えた。ところが、その理由については、くどく訊ねられたにもかかわらず、ハッキリ答えることはできなかった。しかし、彼はその夜ずっと夜店を出していたことがわかっているのだから、たとえそれが虐待の傷痕だったとしても、殺害の疑いはかからぬはずだ。刑事もそう思ったのか、深くは追究しなかった。  そうして、その夜の取調べはひとまず終った。私たちは住所氏名などを書き留められ、明智は指紋をとられ、帰途についたのは、もう一時を過ぎていた。  もし警察の捜索に手抜かりなく、また証人たちも嘘をいわなかったとすれば、これは実に不可解な事件であった。しかもあとで分ったところによると、翌日から引きつづいて行なわれた小林刑事のあらゆる取調べもなんの甲斐もなくて、事件は発生の当夜のまま少しだって発展しなかったのだ。証人たちはすべて信頼するに足る人々だった。十一軒の長屋の住人にも疑うべきところはなかった。被害者の国許も取調べられたけれど、これまたなんの変ったこともない。少なくとも、小林刑事——彼は先にもいった通り、名探偵とうわさされている人だ——が、全力をつくして捜索した限りでは、この事件は全然不可解と結論するほかはなかった。これもあとで聞いたのだが、小林刑事が唯一の証拠品として、頼みをかけて持ち帰った例の電燈のスイッチにも、明智の指紋のほか何物も発見することができなかった。明智はあの際であわてていたせいか、そこにはたくさんの指紋が印せられていたが、すべて彼自身のものだった。おそらく、明智の指紋が犯人のそれを消してしまったのだろうと、刑事は判断した。  読者諸君、諸君はこの話を読んで、ポーの「モルグ街の殺人」やドイルの「スペックルド・バンド」を連想されはしないだろうか。つまり、この殺人事件の犯人が、人間ではなくて、オランウータンだとか、印度の毒蛇だとかいうような種類のものだと想像されはしないだろうか。私も実はそれを考えたのだ。しかし、東京のD坂あたりにそんなものがいるとも思われぬし、第一、障子のすき間から、男の姿を見たという証人があるのみならず、猿類などだったら、足跡の残らぬはずはなく、また人眼にもついたわけだ。そして、死人の頸にあった指の痕も、まさに人間のそれだった。蛇がまきついたとて、あんな痕は残らぬ。  それはともかく、明智と私とは、その夜帰途につきながら、非常に興奮していろいろと話し合ったものだ。一例をあげると、まあこんなふうなことを。 「君は、ポーの『ル・モルグ』やルルーの『黄色の部屋』などの材料になった、あのパリの Rose Delacourt 事件を知っているでしょう。百年以上たった今日でも、まだ謎として残っているあの不思議な殺人事件を。僕はあれを思い出したのですよ。今夜の事件も犯人の立ち去った跡のないところは、どうやら、あれに似ているではありませんか」と明智。 「そうですね。実に不思議ですね。よく、日本の建築では外国の探偵小説にあるような深刻な犯罪は起こらないなんていいますが、僕は決してそうじゃないと思いますよ、現にこうした事件もあるのですからね。僕はなんだか、できるかできないかわかりませんけれど、ひとつこの事件を探偵してみたいような気がしますよ」と私。  そうして、私たちはある横町で別れを告げた。その時私は、横町をまがって彼一流の肩を振る歩き方で、さっさと帰って行く明智のうしろ姿が、その派手な棒縞の浴衣によって、闇の中にくっきりと浮き出して見えたのが、なぜか深く私の印象に残った。     (下)推 理  さて、殺人事件から十日ほどたった或る日、私は明智小五郎の宿を訪ねた。その十日のあいだに、明智と私とが、この事件に関して、何をなし、何を考え、そして何を結論したか。読者は、それらを、この日、彼と私とのあいだに取りかわされた会話によって、充分察することができるであろう。  それまで、明智とは喫茶店で顔を合わしていたばかりで、宿を訪ねるのは、その時がはじめてだったけれど、かねて所を聞いていたので、探すのに骨は折れなかった。私は、それらしい煙草屋の店先に立って、おかみさんに明智がいるかどうかを尋ねた。 「ええ、いらっしゃいます。ちょっとお待ちください、今お呼びしますから」  彼女はそういって、店先から見えている階段の上がり口まで行って、大声に明智を呼んだ。彼はこの家の二階に間借りしていたのだ。すると、「オー」と変な返事をして、明智はミシミシと階段を下りてきたが、私を発見すると、驚いた顔をして「やあ、お上がりなさい」といった。私は彼の|後《あと》に従って二階へ上がった。ところが、なにげなく、彼の部屋へ一歩足を踏み込んだ時、私はアッとたまげてしまった。部屋の様子があまりにも異様だったからだ。明智が変り者だということは知らぬではなかったけれど、これはまた変り過ぎていた。  なんのことはない、四畳半の座敷が書物で埋まっているのだ。まん中のところに少し畳が見えるだけで、あとは本の山だ、四方の壁や襖にそって、下の方はほとんど部屋いっぱいに、上の方ほど幅が狭くなって天井の近くまで、四方から書物の土手がせまっている。ほかの道具などは何もない。一体彼はこの部屋でどうして寝るのだろうと疑われるほどだ。第一、主客二人のすわるところもない。うっかり身動きしようものなら、たちまち本の土手くずれで、おしつぶされてしまうかもしれない。 「どうも狭くっていけませんが、それに、座蒲団がないのです。すみませんが、やわらかそうな本の上へでもすわってください」  私は書物の山に分け入って、やっとすわる場所を見つけたが、あまりのことに、しばらく、ぼんやりとその辺を見廻していた。  私はかくも風変りな部屋のぬしである明智小五郎の人物について、ここで一応説明しておかねばなるまい。しかし、彼とは昨今のつき合いだから、彼がどういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人生を送っているのか、というようなことは一切わからぬけれど、彼がこれという職業を持たぬ一種の遊民であることは確かだ。しいていえば学究であろうか。だが、学究にしてもよほど風変りな学究だ。いつか彼が「僕は人間を研究しているんですよ」と言ったことがあるが、そのとき私には、それが何を意味するのかわからなかった。ただ、わかっているのは、彼が犯罪や探偵について、なみなみならぬ興味と、おそるべき豊富な知識を持っていることだ。  年は私と同じくらいで、二十五歳を越してはいまい。どちらかといえば痩せた方で、先にも言った通り、歩く時に変に肩を振る癖がある。といっても、決して豪傑流のそれではなく、妙な男を引合いに出すが、あの片腕の不自由な講釈師の神田伯龍を思い出させるような歩き方なのだ。伯龍といえば、明智は顔つきから|声《こわ》|音《ね》まで、彼にそっくりだ——伯龍を見たことのない読者は、諸君の知っているところの、いわゆる好男子ではないが、どことなく愛嬌のある、そしてもっとも天才的な顔を想像するがよい——ただ明智の方は、髪の毛がもっと長く延びていて、モジャモジャともつれ合っている、そして彼は人と話しているあいだにも、指でそのモジャモジャになっている髪の毛を、さらにモジャモジャにするためのように引っ掻き廻すのが癖だ。服装などは一向構わぬ方らしく、いつも木綿の着物によれよれの兵児帯を締めている。 「よく訪ねてくれましたね。その|後《ご》しばらく会いませんが、例のD坂の事件はどうです。警察の方ではまだ犯人の見込みがつかぬようではありませんか」  明智は例の、頭を掻き廻しながら、ジロジロ私の顔をながめる。 「実は僕、きょうはそのことで少し話があって来たんですがね」そこで私はどういうふうに切り出したものかと迷いながらはじめた。「僕はあれから、いろいろ考えてみたんですよ。考えたばかりでなく、探偵のように実地の取調べもやったのですよ。そして、実はひとつの結論に達したのです。それを君にご報告しようと思って……」 「ホウ。そいつはすてきですね。くわしく聞きたいものですね」  私は、そういう彼の眼つきに、何がわかるものかというような、軽蔑と安心の色が浮かんでいるのを見のがさなかった。そして、それが私の逡巡している心を激励した。私は勢いこんで話しはじめた。 「僕の友だちに一人の新聞記者がありましてね、それが、例の事件の小林刑事というのと懇意なのです。で、僕はその新聞記者を通じて、警察の模様をくわしく知ることができましたが、警察ではどうも捜査方針が立たないらしいのです。むろん、いろいろやってはいるのですが、これはという見込みがつかぬのです。あの例の電燈のスイッチですね。あれもだめなんです。あすこには、君の指紋だけしかついていないことがわかりました。警察の考えでは、多分君の指紋が犯人の指紋を隠してしまったのだろうというのですよ。そういうわけで、警察が困っていることを知ったものですから、僕はいっそう熱心に調べてみる気になりました。そこで、僕が到達した結論というのは、どんなものだと思います。そして、それを警察へ訴える前に、君のところへ話しにきたのはなんのためだと思います。  それはともかく、僕はあの事件のあった日から、或ることを気づいていたのですよ。君は覚えているでしょう。二人の学生が犯人らしい男の着物の色については、まるで違った申立てをしたことをね。一人は黒だと言い、一人は白だと言うのです。いくら人間の眼が不確かだと言って、正反対の黒と白とを間違えるのは変じゃないですか。警察ではあれをどんなふうに解釈したか知りませんが、僕は二人の陳述は両方とも間違いでないと思うのですよ。君、わかりますか。あれはね、犯人が白と黒とのだんだらの着物を着ていたんですよ——つまり、太い黒の棒縞の浴衣かなんかですね。よく宿屋の貸し浴衣にあるような——では、なぜそれが一人にはまっ白に見え、もう一人にはまっ黒に見えたかといいますと、彼らは障子の格子のすき間から見たのですから、ちょうどその瞬間、一人の眼が格子のすき間と着物の白地の部分と一致して見える位置にあり、もう一人の眼が黒地の部分と一致して見える位置にあったんです。これは珍らしい偶然かもしれませんが、決して不可能ではない。そして、この場合こう考えるよりほかに方法がないのです。  さて、犯人の着物の縞柄はわかりましたが、これでは単に捜査範囲が縮小されたというまでで、まだ確定的のものではありません。第二の論拠は、あの電燈のスイッチの指紋なんです。僕はさっき話した新聞記者の友だちの伝手で小林刑事に頼んでその指紋を——君の指紋ですよ——よくしらべさせてもらったのです。その結果、いよいよ僕の考えていることが間違っていないのを確かめました。ところで君、硯があったら、ちょっと貸してくれませんか」  そこで、私はひとつの実験をやって見せた。まず硯を借りると、私は右手の|拇《おや》|指《ゆび》に薄く墨をつけて懐中から取り出した半紙の上にひとつ指紋を捺した。それから、その指紋の乾くのを待って、もう一度同じ指に墨をつけ、前の指紋の上から、今度は指の方向をかえて念入りにおさえつけた。すると、そこには互に交錯した二重の指紋がハッキリあらわれた。 「警察では、君の指紋が犯人の指紋の上に重なってそれを消してしまったのだと解釈しているのですが、しかしそれは今の実験でもわかる通り不可能なんですよ。いくら強く押したところで、指紋というものが線でできている以上、線と線とあいだに、前の指紋の跡が残るはずです。もし前後の指紋がまったく同じもので、捺し方まで寸分違わなかったとすれば、指紋の各線が一致しますから、あるいは後の指紋が先の指紋を隠してしまうこともできるでしょうが、そういうことはまずあり得ませんし、たとえそうだとしても、この場合結論は変らないのです。  しかし、あの電燈を消したのが犯人だとすれば、スイッチにその指紋が残っていなければなりません。僕はもしや警察では君の指紋の線と線とのあいだに残っている犯人の指紋を見おとしているのではないかと思って、自分で調べてみたのですが、少しもそんな痕跡がないのです。つまり、あのスイッチには、後にも先にも、君の指紋が捺されているだけなのです——どうして古本屋の人たちの指紋が残っていなかったのか、それはよくわかりませんが、多分、あの部屋の電燈はつけっぱなしで、一度も消したことがないのでしょう。〔註1〕  君、以上の事柄はいったい何を語っているでしょう。僕は、こういうふうに考えるのですよ。一人の太い棒縞の着物を着た男が——その男はたぶん死んだ女の幼馴染で、失恋の恨みという動機なんかも考えられるわけですね——古本屋の主人が夜店を出すことを知っていて、その留守のあいだに女を襲ったのです。声を立てたり抵抗したりした形跡がないのですから、女はその男をよく知っていたに違いありません。で、まんまと目的をはたした男は、死骸の発見をおくらすために、電燈を消して立ち去ったのです。しかし、この男はひとつの大きな手ぬかりをやっています。それはあの障子の格子のあいているのを知らなかったこと、そして、驚いてそれを閉めた時に、偶然店先にいた二人の学生に姿を見られたことでした。それから、男はいったんそとへ出ましたが、ふと気がついたのは、電燈を消した時、スイッチに指紋が残ったに違いないということです。これはどうしても消してしまわねばなりません。しかし、もう一度同じ方法で部屋の中へ忍び込むのは危険です、そこで、男は一つの妙案を思いつきました。というのは、自分が殺人事件の発見者になることです。そうすれば、少しの不自然もなく、自分の手で電燈をつけて、以前の指紋に対する疑いをなくしてしまうことができるばかりでなく、まさか、発見者が犯人だろうとは誰しも考えませんからね。二重の利益があるのです。こうして、彼は何食わぬ顔で警察のやり方を見ていたのです。大胆にも証言さえしました。しかも、その結果は彼の思うつぼだったのですよ。五日たっても十日たっても、誰も彼をとらえに来るものはなかったのですからね」  この私の話を、明智小五郎はどんな表情で聴いていたか。私は、おそらく話の中途で、何か変った表情をするか、言葉をはさむだろうと予期していた。ところが、驚いたことには、彼の顔にはなんの表情もあらわれぬのだ。日頃から心を色にあらわさぬたちではあったけれど、あまり平気すぎる。彼は始終例の髪の毛をモジャモジャやりながら、だまりこんでいるのだ。私は、どこまでずうずうしい男だろうと思いながら、最後の点に話を進めた。 「君はきっと、それじゃ、その犯人はどこからはいって、どこから逃げたかと反問するでしょう。確かにそれが明らかにならなければ、他のすべてのことがわかってもなんのかいもないのですからね。だが、遺憾ながら、それも僕が探り出したのですよ。あの晩の捜査の結果では、全然犯人の出て行った形跡がないように見えました。しかし、殺人があった以上、犯人が出入りしなかったはずはないのですから、刑事の捜索にどこか抜け目があったと考えるほかはありません。警察でもそれにはずいぶん苦心した様子ですが、不幸にして、彼らは、僕という一人の青年の推理力に及ばなかったのですよ。  なあに、実に下らないことですが、僕はこう思ったのです。これほど警察が取調べているのだから、近所の人たちに疑うべき点はまずあるまい。もしそうだとすれば、犯人は何か、人の眼にふれても、それが犯人だとは気づかれぬような方法で逃げたのじゃないだろうか。そして、それを目撃した人はあっても、まるで問題にしなかったのではなかろうかとね。つまり人間の注意力の盲点——われわれの眼に盲点があると同じように、注意力にもそれがありますよ——を利用して、手品使いが見物の眼の前で、大きな品物をわけもなく隠すように、自分自身を隠したのかもしれませんからね。そこで、僕が眼をつけたのはあの古本屋の一軒おいて隣の旭屋というソバ屋です」  古本屋の右へ時計屋、菓子屋と並び、左へ足袋屋、ソバ屋と並んでいるのだ。 「僕はあすこへ行って、事件の夜八時頃に、手洗いを借りにきた男はないかと聞いてみたのです。あの旭屋は、君も知っているでしょうが、店から土間つづきで、裏木戸まで行けるようになっていて、その裏木戸のすぐそばに便所があるのですから、それを借りるように見せかけて、裏口から出て行って、また裏口から戻ってくるのはわけはありませんからね——例のアイスクリーム屋は路地を出た角に店を出していたのですから、見つかるはずはありません——それに相手がソバ屋ですから、手洗いを借りるということがきわめて自然なんです。聞けば、あの晩はおかみさんは不在で、主人だけが店の間にいたのだそうですから、おあつらえ向きなんです。君、なんとすてきな思いつきではありませんか。  調べてみると、果たして、ちょうどその時分に手洗いを借りた客があったのです。ただ、残念なことには、旭屋の主人は、その男の顔とか着物の縞柄なぞを少しも覚えていないのですがね——僕は早速このことを例の友だちを通じて、小林刑事に知らせてやりましたよ。刑事は自分でもソバ屋を調べたようでしたが、それ以上には何もわからなかったらしいのです……」  私は少し言葉を切って、明智に発言の余裕を与えた。彼の立場は、この際なんとか一こといわないではいられぬはずだ。ところが、彼は相変らず頭を掻き廻しながら、すましこんでいるではないか。私はこれまで、敬意を表する意味で間接法を用いていたのを、直接法に改めねばならなかった。 「君、明智君、僕のいう意味がわかるでしょう。動かぬ証拠が君を指さしているのですよ。白状すると、僕はまだ心の底では、どうしても君を疑う気にはなれないのですが、こういうふうに証拠がそろっていては、どうも仕方がありません……僕は、もしやあの長屋の住人のうちに、太い棒縞の浴衣を持っている人がないかと思って、ずいぶん骨折って調べてみましたが、一人もありません。それももっともですよ。同じ棒縞の浴衣でも、あの格子に一致するような派手なのを着る人は珍らしいのですからね。それに、指紋のトリックにしても、手洗いを借りるというトリックにしても、実に巧妙で、君のような犯罪学者ででもなければ、ちょっとまねのできない芸当ですよ。それから、第一おかしいのは、君はあの死人の細君と幼馴染だといっていながら、あの晩、細君の身元調べなんかあった時に、そばで聞いていて、少しもそれを申し立てなかったではありませんか。  さて、そうなると、唯一の頼みはアリバイの有無です。ところが、それもだめなんです。君は覚えていますか、あの晩帰り途で、白梅軒へ来るまで君がどこにいたかということを、僕が聞きましたね。君は、一時間ほど、その辺を散歩していたと答えたでしょう。たとえ君の散歩姿を見た人があったとしても、散歩の途中で、ソバ屋の手洗いを借りるなどはありがちのことですからね。明智君、僕のいうことが間違っていますか。どうです、もしできるなら君の弁明を聞きたいものですね」  読者諸君、私がこういって詰めよった時、奇人明智小五郎は何をしたと思います。面目なさに俯伏してしまったとでも思いますか。どうしてどうして、彼はまるで意表外のやり方で、私の荒胆をひしいだ。というのは、彼はいきなりゲラゲラと笑い出したのである。 「いや失敬々々、決して笑うつもりではなかったのですが、君があまりまじめだもんだから」明智は弁解するように言った。「君の考えはなかなか面白いですよ。僕は君のような友だちを見つけたことをうれしく思いますよ。しかし惜しいことには、君の推理はあまりに外面的で、そして物質的ですよ。たとえばですね。僕とあの女との関係についても、君は僕たちがどんなふうな幼馴染だったかということを、内面的に心理的に調べてみましたか。僕が以前あの女と恋愛関係があったかどうか。また現に彼女を恨んでいるかどうか。君にはそれくらいのことが推察できなかったのですか。あの晩、なぜ彼女を知っていることをいわなかったか、そのわけは簡単ですよ。僕は何も参考になるような事柄を知らなかったのです……僕はまだ小学校へもはいらぬ時分に、彼女と別れたきりなのですからね」 「では、たとえば指紋のことはどういうふうに考えたらいいのですか?」 「君は、僕があれから何もしないでいたと思うのですか。僕もこれでなかなかやったのですよ。D坂は毎日のようにうろついていましたよ。ことに古本屋へはよく行きました。そして、主人をつかまえて、いろいろ探ったのです——細君を知っていたことはその時打ち明けたのですが、それがかえって話を聞き出す便宜になりましたよ——君が新聞記者をつうじて警察の模様を知ったように、僕はあの古本屋の主人から、それを聞き出していたんです。今の指紋のことも、じきわかりましたから、僕も妙だと思って調べてみたのですが、ハハハハ、笑い話ですよ。電球の線が切れていたのです。誰も消しやしなかったのですよ。僕がスイッチをひねったために光が出たと思ったのは間違いで、あの時、あわてて電球を動かしたので、一度切れたタングステンがつながったのですよ。〔註2〕スイッチに僕の指紋しかなかったのはあたりまえなのです。あの晩、君は障子のすき間から電燈のついているのを見たといいましたね。とすれば、電球の切れたのは、そのあとですよ。古い電球は、どうもしないでも、ひとりでに切れることがありますからね。それから、犯人の着物の色のことですが、これは僕が説明するよりも……」  彼はそういって、彼の身辺の書物の山を、あちらこちら発掘していたが、やがて、一冊の古ぼけた洋書を掘りだしてきた。 「君、これを読んだことがありますか、ミュンスターベルヒの『心理学と犯罪』という本ですが、この『錯覚』という章の冒頭を十行ばかり読んでごらんなさい」  私は、彼の自信ありげな議論を聞いているうちに、だんだん私自身の失敗を意識しはじめていた。で、言われるままにその書物を受け取って、読んでみた。そこには大体次のようなことが書いてあった。  かつて一つの自動車犯罪事件があった。法廷において、真実を申し立てると宣誓した証人の一人は、問題の道路は全然乾燥してほこり立っていたと主張し、今一人の証人は、雨降りあげくで、道路はぬかるんでいたと証言した。一人は、問題の自動車は徐行していたと言い、他の一人は、あのように早く走っている自動車を見たことがないと述べた。また、前者は、その村道には人が二、三人しかいなかったと言い、後者は、男や女や子供の通行人がたくさんあったと陳述した。この二人の証人は共に尊敬すべき紳士で、事実を曲弁したとて、なんの利益があるはずもない人々であった。  私がそれを読み終るのを待って明智はさらに本のページをくりながらいった。 「これは実際あったことですが、今度は、この『証人の記憶』という章があるでしょう。その中ほどのところに、あらかじめ計画して実験した話があるのですよ。ちょうど着物の色のことが出てますから、面倒でしょうが、まあちょっと読んでごらんなさい」  それは左のような記事であった。 (前略)一例をあげるならば、一昨年(この書物の出版は一九一一年)ゲッティンゲンにおいて、法律家、心理学者及び物理学者よりなる、或る学術上の集会が催されたことがある。したがって、そこに集まったのはみな綿密な観察に熟練した人たちばかりであった。その町には、あたかもカーニヴァルのお祭り騒ぎが演じられていたが、この学究的な会合の最中に、突然戸がひらかれて、けばけばしい衣裳をつけた一人の道化が狂気のように飛び込んできた。見ると、その|後《あと》から一人の黒人がピストルを持って追っかけてくるのだ。ホールのまん中で、彼らはかたみがわりに、おそろしい言葉をどなり合ったが、やがて、道化の方がバッタリ床に倒れると、黒人はその上におどりかかった、そして、ポンとピストルの音がした。と、たちまち彼らは二人とも、かき消すように室を出て行ってしまった。全体の出来事が二十秒とはかからなかった。人々はむろん非常に驚かされた。座長のほかには、誰一人、それらの言葉や動作が、あらかじめ予習されていたこと、その光景が写真に撮られたことなどを悟ったものはなかった。で、座長が、これはいずれ法廷に持ち出される問題だからというので、会員各自に正確な記録を書くことを頼んだのは、ごく自然に見えた(中略、このあいだに、彼らの記録がいかに間違いにみちていたかを、パーセンテイジを示してしるしてある)。黒人が頭に何もかぶっていなかったことを言いあてたのは四十人のうちでたった四人きりで、ほかの人たちは、中折帽子をかぶっていたと書いたものもあれば、シルクハットだったと書くものもあるという有様だった。着物についても、ある者は赤だと言い、あるものは茶色だと言い、あるものは縞だと言い、あるものはコーヒー色だと言い、その他さまざまの色合いが彼のために発明せられた。ところが、黒人は実際は、白ズボンに黒の上衣を着て、大きな赤のネクタイを結んでいたのである。(後略) 「ミュンスターベルヒが賢くも説破した通り」と明智ははじめた。「人間の観察や人間の記憶なんて、実にたよりないものですよ。この例にあるような学者たちでさえ、服の色の見分けがつかなかったのです。私が、あの晩の学生たちも着物の色を思い違えたと考えるのが無理でしょうか。彼らは何物かを見たかもしれません。しかしその者は棒縞の着物なんか着ていなかったのです。むろん僕ではなかったのです。格子のすき間から棒縞の浴衣を思いついた君の着眼は、なかなか面白いには面白いですが、あまりおあつらえ向きすぎるじゃありませんか。少なくとも、そんな偶然の符合を信ずるよりは、君は、僕の潔白を信じてくれるわけにはいかないでしょうか。さて最後に、ソバ屋の手洗いを借りた男のことですがね。この点は僕も君と同じ考えだったのです。どうも、あの旭屋のほかに犯人の通路はないと思ったのです。で、僕もあすこへ行って調べてみましたが、その結果は、残念ながら君とは正反対の結論に達したのです。実際は手洗いを借りた男なんてなかったのですよ」  読者もすでに気づかれたであろうように、明智はこうして、証人の申立てを否定し、犯人の指紋を否定し、犯人の通路をさえ否定して、自分の無罪を証拠だてようとしているが、しかしそれは同時に、犯罪そのものをも否定することになりはしないか。私は彼が何を考えているのか少しもわからなかった。 「で、君には犯人の見当がついているのですか」 「ついてますよ」彼は頭をモジャモジャやりながら答えた。「僕のやり方は、君とは少し違うのです。物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるものですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです。だが、これは探偵自身の能力の問題ですがね。ともかく、僕は今度はそういう方面に重きをおいてやってみましたよ。  最初僕の注意をひいたのは、古本屋の細君のからだじゅうに生傷があったことです。それから間もなく、僕はソバ屋の細君のからだにも同じような生傷があるということを聞き込みました。これは君も知っているでしょう。しかし、彼女らの夫たちはそんな乱暴者でもなさそうです。古本屋にしても、ソバ屋にしても、おとなしそうな物分りのいい男なんですからね。僕はなんとなく、そこに或る秘密が伏在しているのではないかと疑わないではいられなかったのです。で、僕はまず古本屋の主人をとらえて、彼の口からその秘密を探り出そうとしました。僕が死んだ細君の知合いだというので、彼もいくらか気を許していましたから、それは比較的らくにいきました。そして、ある変な事実を聞き出すことができたのです。ところが、今度はソバ屋の主人ですが、彼はああ見えてもなかなかしっかりした男ですから、探り出すのにかなり骨が折れましたよ。でも、僕はある方法によって、うまく成功したのです。  君は、心理学上の連想診断法が、犯罪捜査の方面にも利用されはじめたのを知っているでしょう。たくさんの簡単な刺戟語を与えて、それに対する嫌疑者の観念連合の遅速をはかる、あの方法です。しかし、あれは心理学者のいうように、犬だとか家だとか川だとか、簡単な刺戟語には限らないし、そしてまた、常にクロノスコープの助けを借りる必要もないと、僕は思いますよ。連想診断のコツを悟ったものにとっては、そのような形式はたいして必要ではないのです。それが証拠に、昔の名判官とか名探偵とかいわれた人は、心理学が今のように発達しない以前から、ただ彼らの天禀によって、知らずしらずのあいだにこの心理学的方法を実行していたではありませんか。大岡越前なども確かにその一人ですよ。小説でいえば、ポーの『ル・モルグ』のはじめに、デュパンが友だちのからだの動き方ひとつによって、その心に思っていることを言い当てるところがありますね。ドイルもそれをまねて、『レジデント・ペーシェント』の中で、ホームズに同じような推理をやらせてますが、これらはみな、或る意味の連想診断ですからね。心理学者の色々な機械的方法は、ただこうした天禀の洞察力を持たぬ凡人のために作られたものにすぎませんよ。話がわき道にはいりましたが、僕はソバ屋の主人にいろいろの話をしかけてみました。それもごくつまらない世間話をね。そして、彼の心理的反応を研究したのです。しかし、これは非常にデリケートな心理の問題で、それに可なり複雑してますから、くわしいことはいずれゆっくり話すとして、ともかくその結果、僕はひとつの確信に到達しました。つまり、犯人を見つけたのです。  しかし、物質的な証拠というものがひとつもないのです。だから、警察に訴えるわけにもいきません。よし訴えてもおそらく取り上げてくれないでしょう。それに、僕が犯人を知りながら、手をつかねて見ているもう一つの理由は、この犯罪には少しも悪意がなかったという点です。変な言い方ですが、この殺人事件は、犯人と被害者と同意の上で行なわれたのです。いや、ひょっとしたら被害者自身の希望によって行なわれたのかもしれません」  私はいろいろ想像をめぐらしてみたけれど、どうにも彼の考えていることがわかりかねた。私は自分の失敗を恥じることも忘れて、彼のこの奇怪な推理に耳を傾けた。 「で、僕の考えをいいますとね。殺人者は旭屋の主人なのです。彼は罪跡をくらますために、あんな手洗いを借りた男のことを言ったのですよ。いや、しかし、それは何も彼の創案でもなんでもない。われわれが悪いのです。君にしろ僕にしろ、そういう男がなかったかと、こちらから問いを構えて彼を教唆したようなものですからね。それに、彼は僕たちを刑事かなんかと思い違えていたのです。では、彼はなぜに殺人罪をおかしたか……僕はこの事件によって、うわべはきわめて何気なさそうなこの人生の裏面に、どんなに意外な陰惨な秘密が隠されているかということを、まざまざと見せつけられたような気がします。それは実にあの悪夢の世界でしか見出すことのできないような種類のものだったのです。 「旭屋の主人というのは、マルキ・ド・サドの流れをくんだ、ひどい残虐色情者で、なんという運命のいたずらでしょう。一軒おいて隣に、女のマゾッホを発見したのです。古本屋の細君は彼におとらぬ被虐色情者だったのです。そして、彼らは、そういう病者に特有の巧みさをもって、誰にも見つけられずに、姦通していたのです——君、僕が合意の殺人だといった意味がわかるでしょう——彼らは、最近まではおのおの、そういう趣味を解しない夫や妻によって、その病的な欲望を、かろうじてみたしていました。古本屋の細君にも、旭屋の細君にも、同じような生傷のあったのはその証拠です。しかし、彼らがそれに満足しなかったのはいうまでもありません。ですから眼と鼻の近所に、お互の探し求めている人間を発見した時、彼らのあいだに非常に敏速な了解の成立したことは想像にかたくないではありませんか。ところがその結果は、運命のいたずらが過ぎたのです。彼らの、パッシヴとアクティヴの力の合成によって、狂態が漸次倍加されて行きました。そして、ついにあの夜、この、彼らとても決して願わなかった事件をひき起こしてしまったわけなのです……」  私は、明智の異様な結論を聞いて、思わず身震いした。これはまあ、なんという事件だ!  そこへ、下の煙草屋のおかみさんが、夕刊を持ってきた。明智はそれを受け取って、社会面を見ていたが、やがて、そっと溜息をついていった。 「ああ、とうとう耐えきれなくなったと見えて、自首しましたよ。妙な偶然ですね。ちょうどそのことを話している時に、こんな報道に接するとは」  私は彼の指さすところを見た。そこには小さい見出しで、十行ばかりソバ屋の主人の自首したことがしるされてあった。 [#ここから2字下げ] 〔註1〕 この小説の書かれた大正時代には、メーターを取りつけない小さな家の電燈は、昼間は、電燈会社の方で、変電所のスイッチを切って消燈したものである。 〔註2〕 当時の電球はタングステンの細い線を鼓の紐のように張ったもので、一度切れても、また偶然つながることがよくあった。 [#ここで字下げ終わり]     火繩銃  或る年の冬休み、私は友人の林一郎から一通の招待状を受けとった。手紙は弟の二郎と一緒に一週間ばかり前からこちらに来て毎日狩猟に日を暮らしているが、ふたりだけでは面白くないから暇があれば私にも遊びにこないか、という文面だった。封筒はホテルのもので、A山麓Sホテルと名前が刷ってあった。  永い冬休みをどうして暮らそうかと、物憂い毎日をホトホト持てあましていたおりなので、私にはその招待がとても嬉しく、渡りに船で早速招きに応ずることにした。林が日頃仲のわるい義弟と一緒だというのがちょっと気になったが、ともかく橘を誘ってふたりで出掛けることになった。なんでも前の日の雨が名残りなく晴れた十二月の、小春日和の暖かい日であった。別に身支度の必要もない私らは、旅行といっても至極簡単で、身柄一つで列車に乗りこめばよかった。この日、橘は、これが彼の好みらしいのだが、制服の上にインバネスという変な恰好で、車室の隅に深々と身を沈め、絶えずポーのレーヴンか何かを|口《くち》|誦《ずさ》んでいた。そうやってインバネスの片袖から突き出した肘を窓枠に乗せ、移り行く窓のそとの景色をうっとりと眺めながら、物凄い|怪鳥《けちょう》の詩を口誦んでいる彼の様子が、私には何かしらひどく神秘的に見えたものだ。  三時間ばかりの後、汽車はA山麓の駅に着いた。なんの前触れもしてなかったことだし、駅にはもちろん誰も出迎えに来てはいなかったので、私たちはすぐ駅前の車に乗ってホテルに向かった。ホテルに着くと、私たちを迎えたホテルのボーイが私たちに答えて言った。 「林さんでございますか、弟様の方はどこかへお出ましになりましたが、にいさまの方は裏の離れにお寝みでございます」 「昼寝かい」 「ハイ、毎日お昼からしばらくお寝みでございますので。では離れへ御案内いたしましょう」  その離れは母屋から庭を隔てて十間ほど奥に、一軒ポツンと建っている小さな洋館であったが、母屋からまっすぐに長い廊下が通じていた。  部屋の前に私たちを導いたボーイは「いつもお寝みの時は中から錠をおろしてございますので」と言いながら、とざされたドアを軽く叩いた。しかしよく眠っているとみえて、内部からはなんの返事もない。今度は少し強く叩いたが、それでも林の深い眠りをさますことはできなかった。 「オイ、林、起きないか」  そこで、今度は私が大声にわめいてみた。これならいかに寝込んでいても眼をさますだろうと思ったが、どうしたことか、内部からはなんの物音も聞こえない。橘も一緒になってドアを一層強く叩きながらどなったが、更に眼をさますけはいもなかった。私はなんだか不安になってきた。非常に不吉なことが想像された。 「オイ、どうも変だぜ。どうかしてやしないか」  私が、橘にそういうと、橘も私と同じような事を想像していたらしく、ボーイの方を振り返って言った。 「林がこの部屋で寝ているのは間違いないでしょうね」 「ええ、それはもう……何しろ中から鍵もかかっていますし」 「合鍵はほかにないですか」 「ございます。持ってまいりましょう」 「これほど叩いても起きないのは、ただ事でないようです。ともかく、合鍵であけて中の様子を見てみましょう」  そこで、ボーイは引き返して母屋から合鍵を持ってきた。  ドアがひらかれると、まっ先に橘が飛び込んだが、入口の真正面の壁際にすえてある寝台の方へつかつかと近づいて行ったかと思うと、そこで棒立ちになり「アッ」とかすかな叫びを洩らした。  寝台の上には、上衣をぬいだチョッキ一枚の林一郎が、左胸に貫通銃創を受けて横たわっていた。生々しい血潮は、チョッキから流れて白いシーツを紅に染め、まだ乾ききらず、血の匂いを漂わしている。私はこの意外な林の姿を見ると、もう何を考える力もなく、なかば放心のていで、ボンヤリ橘の動作を見まもっていた。  橘はしばらく変わり果てた林の死体をじっと見詰めていたが、やがて、あまりにも不意の血なまぐさい出来事のためにろくろく口も利けず、ただおろおろと顔の色を変えて震えているボーイに、ともかく急を警察へ知らせるように言いつけておいて、さて、寝台の傍を離れると、あらためて部屋の内部を克明に見廻しはじめた。  先にも言った通り、この離れは一軒建ての洋館だったが、部屋の様子を一と通り話してみると、東と北とは壁、そして、その隅に寝台が置かれ、それに並んで、洋だんすが据えてある。その真正面、つまり西側の北寄りのところが、この部屋の唯一の入口で、長い廊下を通よって母屋に行けるようになっていた。南に面した方には二つの窓があり、その西側の窓の下に大きな机があって、その上にドッシリした本立てが置かれ、それに数冊の洋書が立ててある。その本立ての傍に、台にのせた、珍らしい形をした、球形のガラスの花瓶があって、それに一杯水がいれてあった。その前にはきわめて旧式な一梃の猟銃が無造作に投げ出されてある。そのほかにペンとインキ、それから手紙が一通、それが机の上に置かれたすべてのものであった。机の前と横には型どおり二脚の椅子が行儀よく据えてあった。  窓は両方とも磨りガラスだったが、一方の、机の前の窓はどうしたのか半びらきになって、そこから陽の光がまぶしいまでに、机の上いっぱい射しこんでいた。  橘はしばらく部屋の中を見廻していたが、机の前のなかばひらいた窓に近寄ると、そこからヒョイと首を出して窓のそとを眺め、首を引くと、机の上の猟銃にじっと眼をそそいだ。次に封筒を手に取って一瞥し、今度は洋服のポケットから時計の鎖についた磁石を取り出し、その磁石を見ては又窓から首を出して空を眺めたり、じっと机の上を見詰めたり、うしろを振り返って部屋の隅の寝台の方を見たり、そんな事をなんべんかくり返していたが、その時、母屋の方から廊下伝いにあわただしい人の足音が聞こえてきた。すると何思ったか橘は急にあわてだし、ポケットから取り出した鉛筆でそそくさと机の上に猟銃の位置とガラス瓶の位置とのしるしをつけた。半びらきになった窓にも、そのひらき加減を同じように鉛筆でしるしをつけた。  やがて椿事の部屋にドカドカとはいってきたのは、ボーイの急報によって駈けつけた警察官の一行であった。制服の警部に巡査、背広服の刑事に警察医、そしてそのうしろにはこのホテルの主人と、私たちを最初この部屋に案内したさっきのボーイが、青くなって控えていた。  警察医と刑事は、はいってくるなりまっすぐに寝台の方に歩みよって、何かもぞもぞ調べていたが、見ていると、刑事が死体の胸のあたりから鎖の付いた懐中時計を引きずり出した。そして誰にともなく、 「やられたのは一時半だな」  とつぶやいた。銃弾が当たって、時計の針が一時半で止まっていたらしい。刑事がそうして死体を調べているあいだに、警部はボーイを招いて尋問をはじめていた。 「被害者は昼食を食堂ですましてから部屋に帰ったというのだな。ウン、それでお前は何か鉄砲の音のようなものを聞かなかったか」 「そういえば、お昼すぎ、なんだか大きな音がしたように思いますが、何分すぐ裏の山で始終鉄砲の音がしているものですから、別に気にも留めませんでした」 「この机の上の銃は——火繩銃のようだが、これはどうしたのだ。被害者の物か」  そう言いながら、警部はその火繩銃を取り上げ、銃口を鼻に近づけたが、思わずつぶやいた。 「フン、まだ煙硝の匂いが残っている」 「ああ、それでございますか、それはこのかたの弟様ので……」  ホテルの主人が横から口をはさんだ。 「弟?」 「ハイ、二郎様とおっしゃいまして、矢張り手前どもにお泊まりで、只今お留守でございますが、母屋の方にお部屋がございます」 「じゃあ、あれは? あの銃は?」  警部はなかば向きをかえて、寝台の上を指さした。そこには、最新式の連発銃が、やっと手の届くほどの高さの壁に懸かっていた。迂闊な話だが、私はそのときまでそれに気がつかなかった。 「あれはにいさまのでございまして、あれで毎日裏山へ猟においででございました」  その時、死体から離れて窓のそとを眺めていた刑事が、何を見出したのか、 「アッ、これだ!」  と叫んだ。私もその声に釣られて、刑事のうしろから窓の下を見ると、きのうの雨で湿った庭に、下駄の跡がクッキリしるされていた。それを見きわめた刑事は、さもわが意を得たというふうに、警部のほうに向きなおって、一席弁じだした。 「犯行の径路は至極簡単のようです。つまり、犯人は被害者の昼寝の習慣を知っていて、ちょうど被害者が寝ついた頃、この窓のそとへ忍び寄り、静かにこの窓をあけてその火繩銃で狙撃したのです。そして銃を机の上に置いたまま逃走したというわけでしょう。ですから、被害者の日常生活をよく知っている者を調べ上げたら、犯人はすぐ知れるだろうと思います」  その時、廊下にバタバタとあわただしい足音がしてひとりの青年が飛び込んできた。二郎だ。はいってくるなり寝台の上の兄の死体の方に眼を馳せたが、その顔は恐怖のあまりひどく硬ばっていた。私はなぜか二郎の姿を見ると急に動悸がはげしくなってきた。来てはいけない所へその人がやってきたように思ったからだ。すべての状況が、ひとりの人に向かって「お前が犯人だ」とゆびさしているではないか。火繩銃は二郎のものだし、窓のそとの足跡は下駄の跡だが、いま目の前にいる二郎は和服を着ている。それに、彼ら兄弟の家庭内のごたごたを私はよく知っていた。 「これは、いったい、どうしたのです」  肩で息をしながら、はいってくるなり二郎は誰にともなくどなった。 「君が二郎君だね」  刑事が鋭い口調で尋ねた。 「そうです」  二郎はそこに居並んだ緊張しきった人々の顔を見ると、一層顔を青くして、震え声で答えた。 「じゃあ、これは、この火繩銃はあなたのでしょうね」  刑事は机の上の猟銃をゆびさした。それを見ると、二郎はハッと驚いたらしかったが、でも平然と答える。 「そうです。しかし、それがどうかしたのですか」  刑事はそれにかまわず畳みかけた。 「今まであなたはどこへ行っていたのです」  この質問に二郎はちょっと詰ったが、やっと小さな声でつぶやくように答えた。 「それは申し上げられません。また申し上げる必要もないと思います」 「失礼ですが、あなた方は真実の御兄弟でしょうね」  そう言った刑事の顔には皮肉な微笑が浮かんでいた。 「いいえ、そうじゃないんです」  それからなおいろいろの尋問があったり、警察医の検死があったり、部屋の内とそとの現場調べがあったりしたが、そのあげく、二郎はついにその場から拘引される事になった。  その夕方、橘と私とは同じホテルの一室で互に向かい合っていた。死体の後始末や何かのため私たちはホテルに残っていたのだ。 「君はしばらく姿が見えなかったが、どこかへ行っていたのかい?」  先ず私が口を切った。日頃探偵狂の橘が、こんな事件にぶっつかって安閑としているはずがない。永いあいだ姿を隠していたのは、そのあいだに何か真相をあばく手掛かりを掴んだのか、或いは証拠がためのために奔走していたに違いないと思ったので、私は橘の探偵談を聞きたくて、話をその方に向けてみたのだ。とはいうものの、私はまじめに橘の名探偵振りを期待したのではなく、こんなきまりきった殺人事件を、探偵狂の橘がどうもったいつけて説明するか、それが実は聞きたかったのである。すると、橘は突然大きな口をあけて、 「アハハハハハ」  と笑い出した。  私は何が何やらさっぱりわからず、狐につままれた形で、ボンヤリ橘の顔を眺めていた。 「田舎の刑事にしては、素早く立ち廻ってよく調べているようだったが、この事件は、せんさく好きの田舎探偵には少し簡単すぎるようだ。そうだ、まったく単純過ぎるくらい単純な事件なんだ——」  橘がなおも語りつづけようとした時、ボーイに案内されて、今うわさしていた、その橘のいわゆる田舎探偵がヒョッコリやってきた。 「先ほどは失礼、ちょっとお尋ねしたいことがありまして、ね」  探偵が挨拶した。 「二郎君は自白しましたか」  私がこう聞くと、刑事は嫌な顔をして、 「それをあなた方にいう必要はありません」  と空うそぶいた。 「それじゃなんの用で来たのです」 「あの時の模様をもう一度詳しく聞きたいと思うのです」  刑事がそう言って私につめ寄ると、傍から橘が片頬に皮肉な、また得意そうな笑いを浮かべて刑事に答えた。 「詳しくお話しすることもないでしょう」  この侮辱したような言葉は、明らかに刑事を怒らせた。 「なにっ? 話す必要がないとはなんです。僕は職権をもって調べにきたのだ」 「お調べになるのは御自由ですが、僕はその必要がないと思うのです」 「なぜ?」 「あなたはどうお考えか知りませんが、この事件は犯罪ではないのです。従って犯人もなく、犯行を調べる必要もないのです」  この橘の意外な言葉に、刑事も私も飛び上がるほど驚いた。 「犯罪でない? フン、じゃあ君は自殺だと言うんだね」  刑事の言葉には、この若造が何を生意気な、という侮蔑の響きがこもっていた。 「いや、もちろん自殺じゃありません」 「それじゃ過失死とでも言うのかね」 「そうでもないんです」 「アハハハハハハ、これは面白い。他殺でもなく、自殺でもなく、又過失死でもないか、じゃあ一体あの男はどうして死んだのだね。まさか、君は——」 「いや、僕はただ犯罪でないと言ったまでです。他殺でないとは言いません」 「わからないね、僕には——」  口ではそう言ったものの刑事の顔にはまだ橘をばかにしたような皮肉な微笑が浮かんでいた。その刑事の顔色を見た橘は、グッと癪にさわったらしく、鋭く刑事を睨みつけて言った。 「ここで今、私が説明しても、あなたには得心できぬかもしれませんから、あすその証拠をお見せしましょう」 「証拠? ホウ、そんな珍らしい証拠があれば是非見せていただきたいね。だが、あすとはどうしてなんだね」 「それには重大な意味があるのです。あすにならなければお見せする事ができないのです。ともかくあす一時にここへ来てください。きっと御得心のゆく証拠をお見せします」 「まさか冗談ではあるまいね、よろしい、あす一時だね」 「しかし、もしあす雨天か、少しでも曇っていたらだめだと思ってください」 「へえ、曇っていてはいけないのかね」 「そうです。きょうのように晴天でなければ証拠はお目にかけられないのです。ああ、それからお出での時に必ずあの火繩銃を持ってきてください」 「なかなかむずかしい条件だね。では、あすの日を楽しみにして、きょうはこれで失礼しよう」  刑事は捨てぜりふともつかず、そう言い捨てると、妙にニヤニヤ笑いながら出て行った。刑事が出て行くと、橘は私に向かって、 「田舎刑事め、今度は僕を疑いはじめたな」  とつぶやいた。田舎刑事ならずとも、私も実は橘の言動があまりに意表外なので、橘の言葉を疑わずにはいられなかった。  橘の言う証拠とはいったい何を指しているのだろう。 「君、証拠って、いったい何をいうんだい?」  そこで、私がその事を聞くと、橘は、さも事もなげに言うのだった。 「あの部屋のテーブルの上に、風変わりな花瓶があっただろう。あれがつまり証拠さ」  橘にそう言われても、私にはさっぱり呑み込めなかった。だが、それ以上つっ込んで聞くのも私は業腹だった。  その夜、私は床に就く前、部屋の窓をあけてそとを眺めたが、その時、窓に添うて闇の中につっ立っている怪しい男の姿を見た。  翌日は、幸いに日本晴れの好天気だった。  きのうの刑事はふたりの巡査を伴なって、約束通り一時かっきりにやってきた。右手には問題の火繩銃をしっかり握っている。橘は刑事のうしろからついてくるひとりの巡査の姿を見ると、その方に近寄り、その巡査の肩を軽く叩いて笑いながら、 「ゆうべは御苦労でした」  と言った。  それを聞くと、刑事の方がドギマギして、 「実は、まだこのホテル内に犯人が隠れていやしないかと思ったので、見張りをさせておいたのです」  と、言いわけをした。すると、私の見た怪しい男はこの警官であったらしい。  さて、一同の顔が離れに揃うと……その中にはホテルの主人もボーイもいたのであるが……きょうの主役の橘は、部屋の西南隅にあるテーブルに近寄って、その上の品物をきのうの通り置き並べた。刑事から受け取った火繩銃には、用意の弾丸と火薬を装填して、しるしをつけておいた元の位置に正確に置き、花瓶と花瓶台も、これには最も綿密に注意をしたのであるが、前にあった位置通りに据えた。机の上の品物が、きのうと寸分違わぬ場所に置かれると、今度は机の前の窓を、しるしをつけてあった所までひらいた。そうしておいて橘はボーイに何か耳打ちした。すると、ボーイはうなずいて部屋を出て行ったが、間もなく等身大の藁人形を抱えて戻ってきた。藁人形には不恰好にチョッキが着せてあった。橘はボーイからそれを受け取ると、部屋の隅の寝台の上に、きのう林が寝ていた通りに人形を横たえた。  用意がととのうと、橘は一同の人々を見廻して、おもむろに口をきった。 「これで、この部屋の様子はどの品一つも、きのう椿事があった時の位置と違っていないはずです。重要な品物の位置にはすべてしるしをつけておいたのです。さて私はこれからきのう林君がいかにして殺されたか、いや、いかにして胸に弾丸を受けたか、その時の状況を皆さんにお目にかけようと思うのです」  この橘のいかにも自信に満ちた言葉を聞くと、なみいる人々は緊張した。 「その前に、私はこの事件について、私の信ずるところを申し述べてみようと思います。警察は二郎君を犯人と認められているようですが、それは、この事件の真相を見誤まったものと言わなければなりません。二郎君に限らず、この事件には、どこにも林一郎を殺害した犯人はいないのです。二郎君に嫌疑をかけた第一の理由は、この火繩銃が彼の所有品である事によるらしいのですが、これは毫も理由にならないと思います。いかに迂闊な人間でも、自分の銃で人を殺し、その上それを現場に置いて逃げるようなばかなまねはしないでしょう。かえってこの事は、二郎君の無罪を証拠だてるものだと思います。第二の理由は、この庭にある足跡ですが、これもまた反対の証拠を示しているにすぎません。あとでお調べになればよくわかる事ですが、往復とも同じ歩幅で、しかもその歩幅が非常に狭いのです。殺人罪を犯した人間が、こんなに落ちついて帰れるものでしょうか。なお念のため、ゆうべその足跡を辿って調べてみますと、ばかばかしい事には、それは、このホテルの裏山の気ちがい娘が、裏の生垣をくぐって庭に忍び込んだ足跡とわかったのです。第三の理由は、二郎君が椿事のあった時間に、ちょうど不在であって、その行き先を言わなかった事です。この事については、私はあまり詳しい話は避けたいと思いますが、ただ、ボーイから、二郎君が外出するとすぐ、二階に滞在している老紳士の令嬢が外出し、その令嬢は二郎君とほとんど同時に帰られたという事実を聞いた事のみ申し上げておきます。この事は、或いはもう二郎君が警察で告白したかもしれませんが」  そこで橘は言葉をきって、刑事の方を眺めた。刑事はうなずいて、暗黙のうちに橘の推察を肯定した。  橘は再び語りはじめた。 「最後に、一郎君と二郎君とが、真実の兄弟でないという事も、疑う理由の一つになっているようですが、それは理由とするに足らないほど薄弱な理由だと思います。それにもし二郎君が一郎君に殺意を抱いておったとしても、何もホテルなどという人目の多い場所を選ぶことはありません。兄弟は毎日のように裏山へ狩猟に行っていたのですから、もしやろうと思えばそこでいくらでも機会はあったはずです。もし運わるく現場を誰かに見られたとしても、そんな場所であれば、鳥かけものか、何かをうとうとして、誤まって殺したとでも言いのがれる途があるのです。こう煎じ詰めてきますと、どこに一つ二郎君を疑う理由も見出せないではありませんか。いかがでしょう。これでも二郎君が殺人犯人でしょうか」  橘の雄弁と推理のあざやかさには、唯もう感心するばかりで、私は心の中で、なるほど、なるほど、と叫びつづけていた。橘は言葉を改めてまた語りつづけた。 「はじめは私も火繩銃が机の上に置いてあったり、死人のチョッキが煙硝で黒く焦げていたりするものですから、或いは自殺ではないかとも思いましたが、机の上にあった、二つの品の或る怖ろしい因果関係に気づいて、私はすぐ自分の考えの間違っていたことを悟ったのです。次に足跡がこの事件にまったく関係のない事がわかったので、この事件に犯人のある事を想像する事はできないわけになりました。と、しますと、林君の死は、いったいどう解釈したらいいのでしょう。犯人のない他殺とよりほかに考えようはないのじゃないでしょうか」  ああ、犯人のない他殺。そのような奇妙な事実があるであろうか。一座の人々は固唾を呑んで橘の言葉に聞き入っていた。 「私の想像に間違いなければ、林君はきのう正午、中食を終ると、二郎君の部屋から弾丸の装填してあった火繩銃を持ち出して、この部屋に戻り、それをこの机に凭れながらもてあそんでいたのです。ところが、フト友人に手紙を書かなければならない事を思い出したので、銃を机の上に置いたまま、手紙を書きはじめたのです。その時、銃の台尻がちょうどこの本立ての隅に当たっていたということが、この事件に重大な関係があるのです。手紙を書き終ると、すぐ、習慣になっている午睡のためにベッドに横たわりました。それからどれくらいたったか明確ではありませんが、一時三十分になって、実に恐るべき惨事が突発したのです。世にも不思議な犯人のない殺人が行なわれたのです」  そう言いながら、橘はポケットから懐中時計を取り出した。 「さあ、今一時二十八分です、もう一、二分すれば、犯人のない殺人が行なわれるのです。この事件の真相がハッキリわかるのです。机の上の花瓶によく注意していてください」  人々は手品師の奇術を見るような気持で、そのガラス瓶に十二の瞳を一斉に注いだ。  と、そのとき、私の頭に或る考えが稲妻のように閃めいた。そうだ。手品の種がわかった。事件の真相が明らかとなった。  ああ、それは太陽とガラス瓶との世にも不思議な殺人事件であったのだ。  見よ、ガラス瓶は、空から射す強烈な太陽の光を受けて、焔のようにキラキラと照りかがやき、その満々と水をたたえた球形のガラス瓶を貫ぬいて、太陽の光線は一層強烈となり、机の上に置かれた火繩銃の上に、世にも怖ろしい呪いの焦点を作りはじめた。  焦点は太陽の移動と共にジリジリ位置を換えて、今や点火孔の真上にその白熱の光を投げた。と同時に、鋭い銃声が部屋一杯に響きわたり、銃口からは白い煙がモクモクとゆらめいた。  人々は一様に視線を寝台に移した。  そこには胸を撃たれた藁人形が、無残な死体となって横たわっていた。     黒手組     顕れたる事実  またしても明智小五郎の手柄話です。  それは、私が明智と知合いになってから一年ほどたったころの出来事なのですが、事件に一種劇的な色彩があってなかなか面白かったばかりでなく、それが私の身内のものの家庭を中心にして行なわれたという点で、私には一そう忘れがたいのです。  この事件で、私は、明智に暗号解読のすばらしい才能のあることを発見しました。読者諸君の興味のために、彼の解いた暗号文というのをまず冒頭に掲げておきましょうか。 [#ここから2字下げ] 一度おうかがいしたいと存じながらつい好い折がなく失礼ばかり致しております割合にお暖かな日がつづきますのね是非此頃にお邪魔させていただきますわ扨|日《いつ》|外《ぞや》×つまらぬ品物をお贈りしました処御叮寧なお礼を頂き痛み入りますあの手提袋は実はわたくしがつれづれのすさびに自×ら拙い刺繍をしました物で却ってお叱りを受けるかと心配したほどですのよ歌の方は近頃はいかが?時節柄お身お大切に遊ばして下さいまし [#ここで字下げ終わり] [#地から2字上げ]さよなら  これは或る葉書の文面です。忠実に原文通りしるしておきました。文字を抹消したところから各行の字詰めにいたるまですべて原文のままです。  さてお話ですが、当時私は避寒かたがた少し仕事をもって熱海温泉の或る旅館に逗留していました。毎日いくどとなく湯につかったり、散歩したり、寝ころんだり、そしてそのひまに筆をとったりして、のんびりと日を送っていたのです。ある日のことでした。又しても一と風呂あびて好い気持に暖まったからだを、日あたりのいい縁側の籐椅子に投げかけ、なにげなくその日の新聞を見ていますと、ふとたいへんな記事が眼につきました。  当時都には「黒手組」と自称する賊徒の一団が人もなげに跳梁していまして、警察のあらゆる努力もその甲斐なく、きのうは某の富豪がやられた。きょうは某の貴族がおそわれたと、噂は噂をうんで、都の人心は兢々として安き日もなかったのです。したがって新聞の社会面なども、毎日々々そのことで賑わっていましたが、きょうも「神出鬼没の怪賊云々」というような三段抜きの大見出しで、相もかわらず書き立てています。しかし私はそうした記事にはもうなれっこになっていて別に興味をひかれませんでしたが、その記事の下の方に、いろいろと黒手組の被害者の消息をならべたうちに、小さい見出しで「××××氏襲わる」という十二三行の記事を発見して非常に驚きました。といいますのは、その××××氏はかくいう私の伯父だったからです。記事が簡単でよく分りませんけれど、なんでも娘の富美子が賊に誘拐され、その身代金として一万円〔註、今の四、五百万に当る〕を奪われたということらしいのです。  私の実家はごく貧乏で、私自身もこうして温泉場にきてまで筆かせぎをしなければならぬほどですが、伯父はどうしてなかなか金持なのです。二、三の相当な会社の重役なども勤めていますし、充分「黒手組」の目標になる資格はありました。日頃なにかと世話になっている伯父のことですから、私は何をおいても見舞いに帰らなければなりません。身代金をとられてしまうまで知らずにいたのは迂闊千万です。きっと伯父の方では私の下宿へ電話ぐらいはかけていたのでしょうが、こんどの旅行はどこへも知らせずにきていましたので、新聞の記事になってから、はじめてこの不祥事を知ったわけなのです。  そこで、私は早速荷物をまとめて帰京しました。そして旅装をとくや否や伯父の屋敷へ出掛けました。行ってみますと、どうしたというのでしょう。伯父夫婦が仏壇の前で一心不乱に|団扇《う ち わ》|太《だい》|鼓《こ》や拍子木をたたいてお題目を唱えているではありませんか。いったい彼らの一家は狂的な日蓮宗の信者で、一にも二にもお祖師様なんです。ひどいのは、ちょっとした商人でさえも、まず宗旨を確かめた上でなければ出入りを許さないという始末でした。しかしそれにしても、いつもお勤めをする時間ではないのにおかしなこともあるものだと思い、様子をききますと、驚いたことには事件はまだ解決していないのでした。身代金は賊の要求どおり渡したにもかかわらず、肝心の娘がいまだに帰ってこないというのです。彼らがお題目をとなえていたのは、いわゆる苦しい時の神頼みで、お祖師様のお袖にすがって娘を取戻してもらおうというわけだったのでしょう。  ここでちょっと当時の「黒手組」のやり口を説明しておく必要があるようです。あれからまだ数年にしかなりませんから、読者諸君のうちには当時の模様を御記憶のかたもあるでしょうが、彼らはきまったように、まず犠牲者の子女を誘拐し、それを人質にして巨額の身代金を要求するのです。脅迫状には、いつ何日の何時にどこそこへ金何万円を持参せよと、くわしい指定があって、その場所には「黒手組」の首領がちゃんと待ちかまえています。つまり身代金は被害者から直接賊の手に渡されるのです。なんと大胆なやりかたではありませんか。しかも、それでいて彼らには寸分の油断もありません。誘拐にしろ、脅迫にしろ、金円の受授にしろ、少しの手掛りも残さないようにやってのけるのです。また被害者があらかじめ警察に届け出て、身代金を手渡す場所に刑事などを張り込ませておきますと、どうして察知するのか、彼らは決してそこへやってきません。そして後になって、その被害者の人質は手ひどい目にあわされるのです。思うにこんどの黒手組事件は、よくある不良青年の気まぐれなどではなくて、非常に頭の鋭い、しかもきわめて豪胆な連中の仕業に違いありません。  さて、この兇賊のお見舞いを受けた伯父の一家では、今も言いますように、伯父夫妻をはじめ青くなってうろたえていました。一万円の身代金はとられる、娘は返してもらえないというのでは、さすが実業界では古狸とまでいわれている策士の伯父も、手のつけようがないのでしょう。いつになく私のような青二才をたよりにして、何かと相談をする始末です。|従妹《い と こ》の富美子は当時十九のしかも非常な美人でしたから、身代金をあたえても戻さぬところを見ると、ひょっとしたら無残にも賊の毒手にもてあそばれているのかもしれません。そうでなかったら、賊は伯父を組みしやすしと見て、一度ではあきたらず、二度、三度身代金を脅喝しようとしているのでしょう。いずれにしても伯父としてはこんな心配なことはありません。  伯父には富美子のほかに一人の息子がありましたが、まだ中学へはいったばかりで力にはなりません。で、さしずめ私が、伯父の助言者という格でいろいろと相談したことですが、よく聞いてみますと、賊のやり方はうわさにたがわず実に巧妙をきわめていて、なんとなく妖怪じみたすごいところさえあるのです。私も犯罪とか探偵とかいうことには人並み以上の興味があり、「D坂の殺人事件」でもご承知のように、時にはみずから素人探偵を気取るほどの稚気も持ち合わせているのですから、できることなら一つ本職の探偵の向こうを張ってやろうと、さまざまに頭をしぼってみましたものの、これはとてもだめです。てんで手がかりというものがないのですからね。警察へはもちろん伯父から届け出てありましたけれど、果たして警察の手でこれが解決できましょうか。少なくともきょうまでの成績を見ると、まず覚束ないものです。  そこで、当然、私は友だちの明智小五郎のことをおもいだしました。彼なればこの事件にもなんとか眼鼻をつけてくれるかもしれません。そう考えますと、私は早速それを伯父に相談してみました。伯父は一人でも余計に相談相手のほしい際ではあり、それに私が日頃明智の探偵的手腕についてよく話をしていたものですから、もっとも、伯父としてはたいして彼の才能を信用してはいなかったようですけれど、ともかく呼んできてくれということになりました。  私は御承知の煙草屋へ車を飛ばしました。そして、いろいろの書物を山と積み上げた例の二階の四畳半で明智に会いました。都合のよかったことには、彼は数日来「黒手組」についてあらゆる材料を蒐集し、ちょうど得意の推理を組み立てつつあるところでした。しかも彼の口ぶりではどうやら何か端緒をつかんでいる様子なのです。で、私が伯父のことを話しますと、そういう実例にぶっつかるのは願ってもないことだというわけで、早速承諾してくれ、時を移さず連れだって伯父の家へ帰ることができました。  間もなく、明智と私とは伯父の屋敷の数奇を凝らした応接間で伯父と対座していました。伯母や書生の牧田なども出てきて話に加わりました。この牧田というのは身代金手交の当日、伯父の護衛役として現場へ同行した男なので、参考のために伯父に呼ばれたのでした。  取り込みの中で、紅茶だ菓子だといろいろのものが運ばれました。明智は舶来の接待煙草を一本つまんで、つつましやかに煙をはいていましたっけ。伯父はいかにも実業界の古狸といった形で、生来大男のところへ、美食と運動不足のためにデブデブ肥っていますので、こんな場合にも、多分に相手を威圧するようなところを失いません。その伯父の両隣に伯母と牧田が坐っているのですが、これがまた二人とも痩形で、ことに牧田は人並みはずれた小男ですから、一そう伯父の恰幅が引き立って見えます。一通り挨拶がすみますと、事情はすでに私からざっと話してあったのですけれど、もう一度詳しく聞きたいという明智の希望で、伯父が説明をはじめました。「事の起こりは、さよう、きょうから六日前、つまり十三日でした。その日のちょうど昼ごろ、娘の富美がちょっと友だちの所までといって、着がえをして家を出たまま晩になっても帰らない。われわれはじめ『黒手組』のうわさに脅かされている際でしたから、先ずこの家内が心配をはじめましてね、その友だちの家へ電話で問い合わせたところが、娘はきょうは一度も行っていないという返事です。さあ驚いてね、わかっているだけの友だちの所へはすっかり電話をかけさせてみたが、どこへも寄っていない。それから、書生や出入りの者などを狩り集めて八方捜索につくしました。その晩はとうとうわれわれは一睡もせずでしたよ」 「ちょっとお話し中ですが、その時、お嬢さんがお出ましになるところを実際に見られたかたがありましたでしょうか」  明智がたずねますと、伯母がかわって答えました。 「はあ、それはもう女どもや書生などがたしかに見たのだそうでございます。ことに梅と申す女中などは、あれが門を出る後姿を見送ってよくおぼえていると申しておりますので……」 「それからあとは一切不明なのですね。ご近所の人とか通行人などで、お嬢さんのお姿を見かけたものもないのですね」 「そうです」と伯父が答えます。「娘は車にも乗らないで行ったのだから、もし知った人に行きあえば、充分顔を見られるはずですが、ここはご存じの通り淋しい屋敷町で、近所の人といっても、そう出あるかないようだし、それはずいぶんたずね廻ってみたのですが、だれ一人娘を見かけたものがないのです。そういうわけで警察へ届けたものかどうだろうと迷っているところへ、その翌日の昼すぎでした。心配していた『黒手組』の脅迫状が舞い込んだのです。もしやと思っていたものの、実に驚かされました。家内などは手ばなしで泣きだす始末でね。脅迫状は警察へ持って行って今ありませんが、文句は、身代金一万円を、十五日午後十一時に、T原の一本松まで現金で持参せよ。持参人は必ず一人きりでくること、もし警察へ訴えたりすれば、人質の生命はないものと思え……娘は身代金を受取った翌日返還する。ざっとまあこんなものでした」  T原というのは、あの都の近郊にある練兵場のT原のことですが、原の東の隅っこの所にちょっとした灌木林があって、一本松はそのまん中に立っているのです。練兵場といっても、その辺は昼間でもまるで人の通らぬ淋しい場所で、ことに今は冬のことですから一そう淋しく、秘密の会合場所には持ってこいなのです。 「その脅迫状を警察で検べた結果、何か手掛りでも見つかりませんでしたか」とこれは明智です。 「それがね、まるで手掛りがないというのです。紙はありふれた半紙だし、封筒も茶色の一重の安物で目印もなにもない。刑事は、手跡などもいっこう特徴がないといっていました」 「警視庁にはそういうことを検べる設備はよくととのっていますから、先ず間違いはありますまい。で、消印はどこの局になっていましたでしょう」 「いや、消印はありません。というのは、郵便で送ったのではなく、誰かが表の郵便受函へ投げ込んで行ったらしいのです」 「それを函からお出しになったのはどなたでしょう」 「私です」書生の牧田が答えた。「郵便物はすべて私が取りまとめて奥様の所へさし出しますんで、十三日の午後の第一回の配達の分を取り出した中に、その脅迫状がまじっておりました」 「何者がそれを投げ込んだかという点も」伯父がつけ加えました。「交番の警官などにもたずねてみたり、いろいろ調べたが、さっぱりわからないのです」  明智はここでしばらく考え込みました。彼はこれらの意味のない問答のうちから、何物かを発見しようとして苦しんでいる様子でした。 「で、それからどうなさいました」  やがて顔を上げた明智が話の先をうながしました。 「わしはよほど警察沙汰にしてやろうかと思いましたが、たとえ一片のおどし文句にもせよ、娘の生命をとると言われては、そうもなりかねる。そこへ、家内もたって止めるものですから、可愛い娘には替えられぬと観念して、残念だが一万円出すことにしました。  脅迫状の指定は今もいう通り、十五日の午後十一時、T原の一本松までということで、わしは少し早目に用意をして、百円礼で一万円、白紙に包んだのを懐中し、脅迫状には必ず一人でくるようにとありましたが、家内がばかに心配してすすめますし、それに書生の一人ぐらいつれて行ったって、まさか賊の邪魔にもなるまいと思ったので、もしもの場合の護衛役としてこの牧田をつれて、あの淋しい場所へ出掛けました。笑ってください。わしはこの年になってはじめてピストルというものを買いましたよ。そしてそれを牧田に持たせておいたのです」  伯父はそういって苦笑いをしました。私は当夜の物々しい光景を想像して思わずふき出しそうになるのを、やっとこらえました。この大男の伯父が、世にもみすぼらしい小男のしかも幾ぶん愚鈍な牧田を従えて、闇夜の中をおずおずと現場へ進んで行った、珍妙な様子が眼に見えるようです。 「あのT原の四、五丁手前で自動車をおりると、わしは懐中電燈で道を照らしながら、やっと一本松の下までたどりつきました。牧田は、闇のことで見つかる心配はなかったけれど、なるべく|木《こ》|陰《かげ》をつたうようにして、五、六間の間隔でわしのあとからついてきました。ご承知の通り一本松のまわりは一帯の灌木林で、どこに賊が隠れているやらわからぬので、可なり気味がわるい。が、わしはじっと辛抱してそこに立っていました。さあ三十分も待ったでしょうかな。牧田、お前はあのあいだどうしていたっけなあ」 「はあ、ご主人の所から十間ぐらいもありましたかと思いますが、繁みの中に腹這いになって、ピストルの引金に指をかけて、じっとご主人の懐中電燈の光を見詰めておりました。ずいぶん長うございました。私は二、三時間も待ったような気がいたします」 「で、賊はどの方角から参りました?」  明智が熱心に訊ねました。彼は少なからず興奮している様子です。と言いますのは、ソラ、例の頭の毛をモジャモジャと指でかきまわす癖がはじまったのでわかります。 「賊は原っぱの方から来たようです。つまりわれわれが通って行った路とは反対のほうから現われたのです」 「どんなふうをしていました」 「よくはわからなかったが、なんでもまっ黒な着物を着ていたようです。頭から足の先までまっ黒で、ただ顔の一部分だけが、闇の中にほの白く見えていました。それというのが、わしはそのとき賊に遠慮して懐中電燈を消してしまったのでね。だが、非常に背の高い男だったことだけは間違いない。わしはこれで五尺五寸あるのですが、その男はわしよりも二三寸も高かったようです」 「何か言いましたか」 「だんまりですよ。わしの前までくると、一方の手でピストルをさしむけながら、もう一方の手をぐっと突き出したもんです。で、わしも無言で金の包みを手渡ししました。そして、娘の事を言おうとして、口をききかけると、賊のやつやにわに人差指を口の前に立てて、底力のこもった声でシーッというのです。わしはだまってろという合図だと思って何も言いませんでした」 「それからどうしました」 「それっきりですよ。賊はピストルをわしの方に向けたまま、あとじさりにだんだん遠ざかって行って、林の中に見えなくなってしまったのです。わしはしばらく身動きもできないで立ちすくんでいましたが、そうしていても際限がないので、うしろの方を振り向いて小声で牧田を呼びました。すると、牧田は繁みからごそごそ出てきて、もう行きましたかとビクビクもので聞くのです」 「牧田さんの隠れていたところからも賊の姿は見えましたか」 「はあ、暗いのと樹が茂っていたために、姿は見えませんでしたが、何かこう賊の足音のようなものを聞いたかと思います」 「それからどうしました」 「で、わしはもう帰ろうというと、牧田が賊の足跡を検べてみようというのです。つまりあとになって警察に教えてやれば非常な手懸りになるだろうという意見でね。そうだったね牧田」 「はあ」 「足跡が見つかりましたか」 「それがね」伯父は変な顔つきをして言うのです。「わしはどうも不思議でしようがないのですて。賊の足跡というものがなかったのです。これは決してわしたちの見誤まりではないので、きのうも刑事が検べに行ったそうですが、淋しい場所でその後人も通らなかったとみえ、わしたち両人の足跡はちゃんと残っているのに、そのほかの足跡は一つもないということでした」 「ほう、それは非常に面白いですね。もう少しく詳しくお話し願えませんでしょうか」 「地面の現われているのは、あの一本松の真下の所だけで、そのまわりには落葉がたまっていたり、草がはえていたりして、足跡はつかないわけですが、その地面の現われている部分には、わしの下駄と牧田の靴の跡しか残っていないのです。ところが、わしの立っていた所へきて金包みを受取るためには、どうしたって賊はその足跡の残るような部分へ立ち入っていなければならないのに、それがない。わしの立っていた地面から草のはえている所までは、一ばん短いので二|間《けん》は充分あったのですからね」 「そこには何か動物の足跡のようなものはありませんでしたか」  明智が意味ありげに訊ねました。伯父はけげんな顔をして、 「え、動物ですって」  と聞き返します。 「例えば、馬の足跡とか犬の足跡とかいうようなものです」  私はこの問答を聞いて、ずっと以前にストランド・マガジンか何かで読んだ一つの犯罪物語を想い浮かべました。それは或る男が、馬の蹄鉄を靴の底につけて犯罪の場所へ往復したために、殺人の嫌疑を免れたという話でした。明智もきっとそんな事を考えていたのに違いありません。 「さあ、そこまではわしも気がつかなかったが、牧田お前覚えていないかね」 「はあ、どうもよく覚えませんですが、たぶんそんなものはなかったようでございます」  明智はここでまた黙想をはじめました。  私は最初伯父から話を聞いた時にも思ったことですが、今度の事件の中心は、この賊の足跡のないという点にあるのです。それは実に一種無気味な事実でした。  長いあいだ沈黙がつづきました。 「しかし何はともあれ」やがてまた伯父が話しはじめます。「これで事件は落着したのだとわしは大いに安心して帰宅しました。そして翌日は娘が帰ってくるものと信じていました。偉い賊になればなるほど、約束などは必ず守る、一種の泥棒道徳というようなものがあることをかねて聞き及んでいたので、まさか嘘はいうまいと安心しておりました。ところがどうでしょう、きょうでもう四日目になるのに娘は帰ってこない。実に言語道断です。たまりかねて、わしはきのう警察に委細を届け出ました。けれども、警察はどうも、事件の多い中のことで、余り当てにもなりません。ちょうど幸い甥があんたとお心安いというので、実は大いに頼みにして御足労を願ったような次第で……」  これで伯父の話は終りました。明智は更にいろいろ細かい点について巧みな質問をして、一つ一つ事実を確かめて行きました。 「ところで」明智は最後に訊ねました。「近頃お嬢さんの所へ、何か疑わしい手紙のようなものでも参っていないでしょうか」  これには伯母が答えました。 「私どもでは娘の所へ参りました手紙類は、必ず一応私が眼を通すことにしておりますので、怪しいものがあればじきにわかるはずでございますが、さようでございますね、近頃べつにこれといって……」 「いや、ごくつまらないような事でも結構です。どうかお気づきの点をご遠慮なくお話し願いたいのですが」  明智は伯母の口調から何か感じたのでしょう、畳みかけるように訊ねました。 「でも、今度の事件にはたぶん関係のないことでしょうと存じますが……」 「ともかくお話なすってみてください。そういうところに往々思わぬ手掛りがあるものです。どうか」 「では申し上げますが、一と月ばかり前から娘の所へ、私どものいっこう聞き覚えのないお名前のかたから、ちょくちょく葉書が参るのでございますよ。いつでしたか、一度私は娘に、これは学校時代のお友だちですかって聞いてみたことがございましたが、娘は、ええと答えはいたしましたものの、どうやら何か隠している様子なのでございます。私も妙に存じまして、一度よく糺してみようと考えていますうちに、今度の出来事でございましょう。もうそんな些細なことはすっかり忘れておりましたのですが、お言葉でふとおもい出したことがございます。と申しますのは、娘がかどわかされますちょうど前日に、その変な葉書が参っているのでございますよ」 「では、それをいちど拝見願えませんでしょうか」 「よろしゅうございます。たぶん娘の手文庫の中にございましょうから」  そうして伯母は問題の葉書というのを探し出してきました。見ると日付は伯母の言った通り十二日で、差出人は匿名なのでしょう、ただ「やよい」となっています。そして市内の某局の消印がおされていました。文面はこの話の冒頭に掲げておきました「一度おうかがい云々」のあれです。  私もその葉書を手に取って充分吟味してみましたが、なんの変てつもない、いかにも少女らしい|要《よう》でもない文句を並べたものにすぎません。ところが、明智は何を思ったのか、さも一大事という調子で、その葉書をしばらく拝借して行きたいと言うではありませんか。もちろん拒むべき事でもなく、伯父は即座に承諾しましたが、私には明智の考えがちっともわからないのです。  こうして明智の質問はようやく終りを告げましたが、伯父は待ちかねたように彼の意見を問うのでした。すると、明智は考え考え次のように答えました。 「いや、お話を伺っただけでは別段これという意見も立ちかねますが……ともかくやってみましょう。ひょっとしたら、二、三日のうちにお嬢さんをお連れすることができるかもしれません」  さて、伯父の家を辞した私たちは、肩を並べて帰途についたことですが、その折、私がいろいろ言葉を構えて明智の考えを聞き出そうと試みたのに対して、彼はただ、捜査方針の一端をにぎったにすぎないと答え、そのいわゆる捜査方針については、一とことも打ち明けませんでした。  その翌日、私は朝食をすませますと、直ぐに明智の宿を訪ねました。彼がどんなふうにこの事件を解決して行くか、その径路を知りたくてたまらなかったからです。  私は例の書物の山の中に埋没して、得意の瞑想にふけっている彼を想像しながら、心安い間柄なので、ちょっと煙草屋のおかみさんに声をかけて、いきなり明智の部屋への階段を上がろうとしますと、 「あら、きょうはいらっしゃいませんよ。珍らしく朝早くからどっかへお出かけになりましたの」  といって呼び止められました。驚いて行先を訊ねますと、別に言い残してないということです。  さてはもう活動をはじめたかしら、それにしても朝寝坊の彼が、こんなに早くから外出するというのは、あまり例のないことだと思いながら、私は一と先ず下宿へ帰りましたが、どうも気になるものですから、少しあいだをおいて、二度も三度も明智を訪問したことです。ところが、何度行ってみても彼は帰っていないのです。そして、とうとう翌日の昼ごろまで待ちましたが、彼はまだ姿を見せないではありませんか。私は少々心配になってきました。宿のおかみさんも非常に心配して、明智の部屋に何か書き残してないか調べてみたりしましたが、そういうものもありません。  私は一応伯父の耳に入れておく方がいいと思いましたので、早速彼の屋敷を訪ねました。伯父夫妻は相変らずお題目を唱えてお祖師様を念じていましたが、事情を話しますと、それは大変だ。明智までも賊の虜になってしまったのではあるまいか。探偵を依頼したのだから、こちらにも充分責任がある。もしやそんなことがあったら明智の親許に対してもなんとも申しわけがないと言って騒ぎ出す始末です。私は明智に限って|万《ばん》|々《ばん》へまなまねはしまいと信じていましたが、こう周囲で騒がれては、心配しないわけにはいきません。どうしよう、どうしようといううちに時間がたつばかりです。  ところが、その日の午後になって、私たちが伯父の家の茶の間へ集まって、小田原評定をやっているところへ、一通の電報が配達されました。  フミコサンドウコウイマタツ  それは意外にも明智が千葉から打ったものでした。私たちは思わず歓呼の声を上げました。明智も無事だ。娘も帰る。打ちしめっていた一家は、にわかに陽気にざわめいて、まるで花嫁でも迎える騒ぎです。  そうして、待ちかねた私たちの前に、明智のニコニコ顔が現われたのは、もう日暮れごろでした。見ると幾ぶん面やつれのした富美子が彼のあとに従っていました。ともかく疲れているだろうからという伯母の心づかいで、富美子だけは居間に|退《しりぞ》き床についた様子でしたが、私たちの前にはお祝いとあって、用意の酒肴がはこばれる。伯父夫妻は明智の手を取らんばかりにして、上座にすえ、お礼の百万遍を並べるという騒ぎでした。無理もありません。国家の警察力をもってしても、長いあいだどうすることもできなかった「黒手組」です。いかに明智が探偵の名人だからといって、そうやすやすと娘が取り戻せようとは、誰にしたって思いもかけなかったのです。それがどうでしょう。明智はたった一人の力でやってのけたではありませんか。伯父夫妻が凱旋将軍でも迎えるように歓待したのは、ほんとうにもっともなことです。彼はまあなんという驚くべき男なのでしょう。さすがの私も、今度こそすっかり参ってしまいました。そこで、皆がこの大探偵の冒険談を聞こうとつめよったものです。黒手組の正体は果たして何者でしょう。 「非常に残念ですが、何もお話しできないのです」明智が少し困ったような顔をして言いました。「いくら私が無謀でも、単身であの兇賊を逮捕するわけにはいきません。私はいろいろ考えた結果、極くおだやかにお嬢さんを取り戻す工夫をしたのです。つまり、賊の方から|熨《の》|斗《し》をつけて返上させるといった方法ですね。で、私と『黒手組』とのあいだにこういう約束が取りかわされたのです。すなわち、『黒手組』の方ではお嬢さんも身代金の一万円も返すこと、そして、将来ともお宅に対しては絶対に手出しをしないこと、私の方では、『黒手組』に関しては一切口外しないこと、そして、将来とも『黒手組』逮捕の助力など絶対にやらぬこと、こういうのです。私としてはお宅の損害を回復しさえすれば、それで役目がすむのですから、下手をやって虻蜂とらずに終るよりはと思って、賊の申し出を承知して帰ったような次第です。そういうわけですから、どうかお嬢さんにも『黒手組』については一切おたずねなさいませんように……で、これが例の一万円です。確かにお渡しします」  そういって彼は白紙に包んだものを伯父に手渡しました。折角楽しみにしていた探偵談を聞くことができないのです。しかし私は失望しませんでした。それは伯父や伯母には話せないかもしれませんが、いくら固い約束だからといって、親友の私だけには打ち明けてくれるだろう。そう考えますと、私は酒宴の終るのが待ち遠しくてしようがありません。  伯父夫妻としては、自分の一家さえ安全なら、賊が逮捕されようとされまいと、そんなことは問題ではないのですから、ただもう明智への礼心で、賑やかな杯の献酬がはじめられました。あまり酒のいけぬ明智はじきにまっ赤になってしまって、いつものニコニコ顔を更に笑みくずしています。罪のない雑談に花が咲いて、陽気な笑い声が座敷一杯にひろがります。その席でどんなことが話されたか、それはここにしるす必要もありませんが、ただ次の会話だけはちょっと読者諸君の興味をひきはしないかと思います。 「いやもう、あんたは全く娘の命の親です。わしはここで誓っときます。将来ともあんたのお頼みならどんな無理なことでもきっと承知するということをね。どうです。さし当り何かお望みくださることでもありませんかな」  伯父は明智に杯をさしながら、恵美須様のような顔をして言いました。 「それは有難いですね」明智が答えます。「例えばどうでしょう。私の友人の或る男が、お嬢さんに大変こがれているのですが、その男にお嬢さんを頂戴するというような望みでも構いませんでしょうか」 「ハハハハハハ、あんたもなかなか隅に置けない。いや、あんたが先の人物さえ保証してくださりゃ、娘をさし上げまいものでもありませんよ」  伯父はまんざら冗談でもない様子で言いました。 「その友人はクリスチャンなんですが、この点はどうでしょう」  明智の言葉は座興にしては少し真剣すぎるように思われます。日蓮宗に凝り固まっている伯父は、ちょっといやな顔をしましたが、 「よろしい。わしはいったい耶蘇教は大嫌いですが、ほかならんあんたのお頼みとあれば、一つ考えてみましょう」 「いやありがとう。きっといつかお願いに上がりますよ。どうか今のお言葉をお忘れないように願います」  この一とくさりの会話は、ちょっと妙な感じのものでした。座興と見ればそうとも考えられますが、真剣な話と思えば、又そうらしくもあるのです。ふと私は、バリモアの芝居では、あのシャーロック・ホームズが、事件で知合いになった娘と恋におちいり、ついに結婚する筋になっているのを思い出して、密かにほほ笑みました。  伯父はいつまでも引き止めようとしましたが、余り長くなりますので、やがて私たちは暇をつげることにしました。伯父は明智を玄関まで送り出して、お礼の寸志だと言いながら、彼が辞退するのも聞かないで、無理に二千円の金包みを明智の懐へ押し込みました。     隠れたる事実 「君、いくら『黒手組』との約束だって、僕にだけは様子を話してくれたっていいだろう」  私は伯父の家の門を出るのを待ちかねて、こう明智に問いかけたものです。 「ああ、いいとも」彼は案外たやすく承知しました。「じゃ、コーヒーでも飲みながら、ゆっくり話そうじゃないか」  そこで、私たちは一軒のカフェーにはいり、奥まったテーブルを選んで席につきました。 「今度の事件の出発点はね。あの足跡のなかったという事実だよ」  明智はコーヒーを命じておいて、探偵談の口を切りました。 「あれには少なくとも六つの可能な場合がある。第一は伯父さんや刑事が賊の足跡を見落としたという解釈、賊は例えば獣類とか鳥類とかの足跡をつけてわれわれの眼を欺瞞することができるからね。第二は、これは少し突飛な想像かもしれないが、賊が何かにぶら下がるか、それとも綱渡りでもするか、とにかく足跡のつかぬ方法で現場へやってきたという解釈、第三は伯父さんか牧田かが賊の足跡をふみ消してしまったという解釈、第四は偶然賊の履物と伯父さん又は牧田の履物と同じだったという解釈、この四つは現場を綿密に検べてみたらわかる事柄だ。それから第五は、賊が現場へこなかった、つまり伯父さんが何かの必要から独り芝居を演じたのだという解釈、第六は牧田と賊とが同一人物だったという解釈、この六つだ。 「僕はともかく現場を検べてみる必要を感じたので、あの翌朝、早速T原へ行ってみた。もしそこで第一から第四までの痕跡を発見することができなかったら、さしずめ第五と第六の場合が残るばかりだから、非常に捜査範囲をせばめることができるわけだ。ところがね、僕は現場で一つの発見をしたんだ。警察の連中は大変な見落としをやっていたのだよ。というのは、地面にたくさん、なんだかこう尖ったもので突いたような跡があるんだ。もっともそれは伯父さんたちの足跡(といっても大部分は牧田の下駄の跡)の下に隠れていて、ちょっと見たんではわからないのだがね。僕はそれを見ていろいろ想像をめぐらしているうちに、ふとある事をおもい出した。天来の妙音とでもいうか、実にすばらしい考えなんだよ。それはね、書生の牧田が小さなからだに似合わない太い黒メリンスの兵児帯を、大きな結び目をこしらえて締めているだろう。うしろから見るとちょっと滑稽な感じだね。僕は偶然あれを覚えていたんだ。これでもう僕には何もかもわかってしまったような気がしたよ」  明智はこう言ってコーヒーを一と口なめました。そして、なんだかじらすような眼つきをして私を眺めるのです。しかし、私には残念ながらまだ彼の推理の跡をたどる力がありません。 「で、結局どうなんだい」  私はくやしまぎれにどなりました。 「つまりね、さっきいった六つの解釈のうち、第三と第六とが当っているんだ。言い換えると、書生の牧田と賊とが同一人物だったのさ」 「牧田だって」私は思わず叫びました。「それは不合理だよ。あんな愚かな、それに正直者で通っている男が……」 「それじゃあね」明智は落ついて言うのです。「君が不合理だと思う点を一つ一つ言ってみたまえ。答えるから」 「数えきれぬほどあるよ」  私はしばらく考えてから言いました。 「第一、伯父は賊が大男の彼よりも二、三寸も背が高かったといっている。そうすると五尺七、八寸はあったはずだ。ところが牧田は反対にあんな小っぽけな男じゃないか」 「反対もこう極端になるとちょっと疑ってみる必要があるよ。一方は日本人としては珍らしい大男で、一方は畸形に近い小男だね。これは、いかにもあざやかな対照だ。惜しいことに少しあざやか過ぎたよ。もし牧田がもう少し短い竹馬を使ったら、かえって僕は迷わされたかもしれない。ハハハハハハ、わかるだろう。彼はね。竹馬を短くしたようなものをあらかじめ現場に隠しておいて、それを手で持つ代りに両足に縛りつけて用を弁じたんだよ。闇夜でしかも伯父さんからは十間も離れていたんだから、何をしたってわかりやしない。そして、賊の役目を勤めたあとで、今度は竹馬の跡を消すために、わざと賊の足跡を調べまわったりなんかしたのさ」 「そんな子供だましみたいなことを、どうして伯父が看破できなかったのだろう。第一、賊は黒い着物だったというのに、牧田はいつも白っぽい田舎縞を着ているじゃないか」 「それが例のメリンスの兵児帯なんだ。実にうまい考えだろう。あの大幅の黒いメリンスをグルグルと頭から足の先までまきつけりゃ、牧田の小さなからだぐらいわけなく隠れてしまうからね」  あんまり簡単な事実なので、私はすっかりばかにされたような気がしました。 「それじゃ、あの牧田が『黒手組』の手先を勤めていたとでもいうのかい。どうもおかしいね。黒手……」 「おや、まだそんな事を考えているのか、君にも似合わない、ちときょうは頭が鈍っているようだね。伯父さんにしろ、警察にしろ、はては君までも、すっかり、『黒手組』恐怖症にとっつかれているんだからね。まあ、それも時節がら無理もない話だけれど、もし君がいつものように冷静でいたら、なにも僕を待つまでもなく、君の手で充分今度の事件は解決できただろうよ。これには『黒手組』なんてまるで関係がないんだ」  なるほど、私は頭がどうかしていたのかもしれません。こうして明智の説明を聞けば聞くほど、かえって真相がわからなくなってくるのです。無数の疑問が、頭の中でゴッチャになって、こんぐらがって、何から訊ねていいのかわからないくらいです。 「じゃあ、さっき君は、『黒手組』と約束したなんて、なぜあんなでたらめをいったのだい。第一わからないのは、もし牧田の仕業とすれば、彼をだまってほうっておくのも変じゃないか。それから、牧田はあんな男で、富美子を誘拐したり、それを、数日のあいだも隠しておいたりする力がありそうにも思われぬし。現に富美子が家を出た日には、彼は終日伯父の屋敷にいて、一歩もそとへ出なかったというではないか。いったい牧田みたいな男に、こんな大仕事ができるものだろうか。それから……」 「疑問百出だね。だがね、もし君がこの葉書の暗号文を解いていたら、少なくともこれが暗号文だということを看破していたら、そんなに不思議がらないですんだろうよ」  明智はこういって、いつかの日、伯父のところから借りてきた例の「やよい」という署名の葉書を取り出しました。(読者諸君、はなはだご面倒ですが、どうかもう一度冒頭のあの文面を読み返してください) 「もしもこの暗号文がなかったら、僕はとても牧田を疑う気になれなかったに違いない。だから、今度の発見の出発点はこの葉書だったといってもいいわけだ。しかもこれが暗号文だと最初からハッキリわかっていたのではない。ただ疑ってみたんだ。疑ったわけはね、この葉書が富美子さんのいなくなるちょうど前日にきていたこと、手跡がうまくごまかしてあるがどうやら男らしいこと、富美子さんがこれについて聞かれたとき、妙なそぶりを示したことなどもあったが、それよりもね、これを見たまえ、まるで原稿用紙へでも書いたように各行十八字詰めに実に綺麗に書いてある。で、ここへ横にずっと線を引いてみるんだ」  彼はそう言いながら、鉛筆を取り出して、ちょうど原稿用紙の横線のようなものを引きました。 「こうするとよくわかる。この線にそってずっと横に眼を通してみたまえ。どの列も半分ぐらい仮名がまじっているだろう。ところがたった一つの例外がある。それは、この一ばんはじめの線に沿った各行の第一字目だ、漢字ばかりじゃないか。 [#ここから2字下げ] 一好割此外叮袋自叱歌切 [#ここで字下げ終わり] 「ね、そうだろう」彼は鉛筆でそれを横にたどりながら説明するのです。「これはどうも偶然にしては変だ。男の文章ならともかく、全体として仮名の方がずっと多い女の文章に、一列だけ、こんなにうまく漢字の揃うはずがないからね。とにかく僕は研究してみるねうちがあると思ったのだ。あの晩帰ってから一所懸命考えた。幸い、以前暗号についてはちょっと研究したことがあるので、結局、解けたことは解けたがね。一つやってみようか。先ずこの漢字の一列を拾い出して考えるんだ。しかしこのままではおみくじの文句みたいで、いっこう意味がない。何か漢詩か経文などに関係していないかと思って調べてみたが、そうでもない。いろいろやっているうちに、僕はふと二字だけ抹消した文字のあるのに気づいた。こんなに綺麗に書いた文章の中に汚ない消しがあるのはちょっと変だからね。しかもそれが二つとも第二字目なんだ。僕は自分の経験で知っているが、日本語で暗号文を作るとき、一ばん困るのは濁音半濁音の始末だよ。でね、抹消文字はその上に位する漢字の濁音を示すための細工じゃないかと考えたんだ。果たしてそうだとすると、この漢字はおのおの一字ずつの仮名を代表するものでなければならない。それから、紙を何枚も何枚も書きつぶして、ずいぶん考えたが、とうとう解読することができた。つまりこれは漢字の字画がキイなんだよ。それも|偏《へん》と|旁《つくり》を別々に勘定するんだ。例えば『好』は偏が三画で旁が三画だから33という組合わせになる。で、それを表にしてみるとこうだ。この中に一つ当て字がある。『叮嚀』は、ほんとうは『丁寧』だが、それでは暗号にぐわいがわるいので、わざと当て字を使ったんだね」  彼は手帳を出して左のような表を書きました。 [#ここから2字下げ] 旁  3 2 2 2 2     2 4 2 偏1 3 10 4 3 3 11 6 3 10 2  一 好 割 此 外 叮 袋 自 叱 歌 切 [#ここで字下げ終わり] 「この数字を見ると、偏の方は十一まで、旁の方は四までしかない。これが何かの数に符合しやしないか。例えばアイウエオ五十音をどうかいうふうに配列した場合の順序を示すものではあるまいか。ところが、アカサタナハマヤラワンと並べてみると、その数はちょうど十一だ。こいつは偶然かもしれないが、まあやってみよう。偏の画の数はアカサタナすなわち子音の順序を示し、旁の画の数はアイウエオすなわち母音の順序を示すものと仮定するのだ。すると『一』は一画で旁がないからア行の第一字目すなわち『ア』となり、『好』は偏が三画だからサ行で、旁が三画だから第三字目の『ス』だ。こうして当てはめて行くと、 「アスヰチジシンバシヱキ」  となる。『ヰ』と『ヱ』はあて字だろう。『ハ』は偏が六で旁が一でなければならないが、適当な字が見当らなかったので、偏だけでごまかしておいたのだろう。果たして暗号だった。ね、『明日一時新橋駅』。さて、年ごろの女のところへ暗号文で時間と場所を知らせてくる。しかもそれがどうやら男の手跡らしい。この場合ほかに考え方があるだろうか。逢引きの打合わせと見るほかにはね。そうなると、事件は『黒手組』らしくなくなってくるじゃないか。少なくとも『黒手組』を捜索する前に一応この葉書の差出人を取り調べてみる必要があるだろう。ところが、葉書の主は富美子さんのほかに知っている者がない。ちょっと難関だね。しかし一とたびこれを牧田の行為と結びつけて考えてみると、疑問はたちまち解けるのだよ。というのは、もし富美子さんが自分で家出をしたものとすれば、両親のところへ詫状の一本ぐらいよこしてもよさそうなものじゃないか。この点と、牧田が郵便物を取りまとめる役目だということと結びつけると、ちょっと面白い筋書きが出来上る。つまりこうだ。牧田がどうかして富美子さんの恋を感づいていたとするんだ。ああした不具者みたいな男のことで、その方の猜疑心は人一倍発達しているだろうからね。で、彼は富美子さんからの手紙をにぎりつぶして、その代りに手製の『黒手組』の脅迫状を伯父さんのところへさし出したという順序だ。これは脅迫状が郵便でこなかった点にもあてはまる」  明智はここでちょっと言葉を切った。 「驚いた。だが……」  私がなおもさまざまの疑問について糺そうとすると、「まあ、待ちたまえ」彼はそれを押えつけておいてつづけました。「僕は現場を検べると、その足で伯父さんの屋敷の門前へ行って牧田の出てくるのを待ち伏せしていた。そして彼が使いにでも行くらしいふうで出てきたのを、うまくごまかして、このカフェーへ連れ込んだ。ちょうど今僕らが坐っているこのテーブルだったよ。僕は彼が正直者だということは、はじめから君と同様に認めていたので、今度の事件の裏には何か深い事情がひそんでいるに違いないと睨んでいた。でね、絶対に他言しないし、場合によっては相談相手になってやるからと安心させて、とうとう白状させてしまったのだ。  君は多分服部時雄という男を知っているだろう。キリスト教信者だという理由で、富美子さんに対する結婚の申し込みを拒絶されたばかりでなく、伯父さんのところへのお出入りまで止められてしまった、あの気の毒な服部君をね。親というものは馬鹿なもので、さすがの伯父さんも、富美子さんと服部君とがとうから恋仲だったことに気づかなかったのだよ。また富美子さんも富美子さんだ。何も家出までしないでも、可愛い娘のことだ、いかに宗教上の偏見があったって、できてしまったものを今さら無理に引き離す伯父さんでもあるまいに、そこは娘心の浅はかというやつだ。それとも案外家出をして脅かしたら頑固な伯父さんも折れるだろうという横着な考えだったかもしれないが、いずれにしても二人は手に手をとって、服部君の田舎の友人の所へ駈落ちとしゃれたのさ。むろんそこからたびたび手紙を出したそうだ。それを牧田のやつ一つもらさずにぎりつぶしていたんだね。僕は千葉へ出張して、家では『黒手組』騒動が持ち上がっているのも知らないで、ひたすら甘い恋に酔っている二人を、一と晩かかってくどいたものだよ。あんまり感心した役目じゃなかったがね。で、結局きっと二人が一緒になれるように取り計ろうという約束で、やっと引き離して連れてきたのさ。だが、その約束もどうやら果たせそうだよ。きょうの伯父さんの口ぶりではね。  ところで、今度は牧田の方の問題だが、これもやっぱり女出入りなのだ。可哀そうに先生涙をぽろぽろこぼしていたっけ。あんな男にも恋はあるんだね。相手が何者かは知らないが、おそらく商売人か何かにうまく持ちかけられたとでもいうのだろう。ともかく、その女を手に入れるために、まとまった金が入用だったのだ。そして、聞けば富美子さんが帰ってこないうちに出奔するつもりでいたんだそうだ。僕はつくづく恋の偉力を感じた。あの愚かしい男に、こんな巧妙なトリックを考えださせたのも、全く恋なればこそだよ」  私は聞き終って、ほっと溜息を吐いたことです。なんとなく考えさせられる事件ではありませんか。明智もしゃべり疲れたのか、ぐったりとしています。二人は長いあいだだまって顔を見合わせていました。 「すっかりコーヒーが冷えてしまった。じゃあ、もう帰ろうか」  やがて明智は立ち上がりました。そして、私たちはそれぞれ帰途についたのですが、別れる前に明智は何かおもい出したふうで、先刻伯父から貰った二千円〔今の七、八十万円に当る〕の金包みを私の方へ差し出しながら言うのです。 「これをね、ついでの時に牧田君にやってくれたまえ。婚資にといってね。君、あれは可哀そうな男だよ」  私は快よく承諾しました。 「人生は面白いね。このおれがきょうは二た組の恋人の|仲《なこ》|人《うど》をつとめたわけだからね」  明智はそう言って、心から愉快そうに笑うのでした。     夢遊病者の死  彦太郎が勤め先の木綿問屋をしくじって、父親のところへ帰ってきてから、もう三カ月にもなった。旧藩主M伯爵邸の小使いみたいなことを勤めて、かつかつその日を送っている、五十を越した父親の厄介になっているのは、彼にしても決して快いことではなかった。どうかして勤め口を見つけようと、人にも頼み自分でも奔走しているのだけれど、折からの不景気で、学歴もなく、手にこれという職があるでもない彼のような男を、雇ってくれる店はなかった。もっとも、住み込みなればという口が一軒、あるにはあったのだけれど、それは彼の方から断わった。というのは、彼にはどうしても再び住み込みの勤めができないわけがあったからである。  彦太郎には、幼ない時分から寝とぼける癖があった。ハッキリした声で寝言を言って、そばにいるものが寝言と知らずに返事をすると、それを受けて又しゃべる。そうしていつまででも問答をくり返すのだが、さて、朝になって眼が覚めてみると、少しもそれを記憶していないのだ。余り言うことがハッキリしているので、気味がわるいようだと、近所の評判になっていたくらいである。それが、小学校を出て奉公をするようになった当時は、一時やんでいたのだけれど、どうしたものか二十歳を越してから、また再発して、困ったことには、みるみる病勢がつのって行くのであった。  夜中にムクムクと起き上がって、その辺を歩き廻る。そんなことはまだお手軽な方だった。ひどい時には、夢中で表の締まりを——それが住み込みで勤めていた木綿問屋のである——その締まりをあけて、一町内をぐるっと廻ってきて、また戸締まりをして寝てしまったことさえあるのだ。  だが、そんなふうのことだけなら、気味のわるいやつだぐらいですみもしようけれど、最後には、その夢中でさ迷い歩いているあいだに、他人の品物を持ってくるようなことが起こった。つまり知らず知らずの泥棒なのである。しかも、それが二度、三度とくり返されたものだから、いくら夢中の仕草だとはいえ、泥棒を雇っておくわけにはゆかぬというので、もうあと三年で、年期を勤め上げ、暖簾を分けてもらうという惜しいところで、とうとうその木綿問屋をお払い箱になってしまったのである。  最初、自分が夢遊病者だとわかった時、彼はどれほど驚いたことであろう。乏しい小遣銭をはたいて、医者にもみてもらった。いろいろの医学の書物を買い込んで、自己療法もやってみた。或いは神仏を念じて、大好物の餅を断って、病気平癒の祈願をさえした。だが、彼のいまわしい悪癖はどうしても治らぬどころではない、日にまし重くなって行くのだ。そして、ついには、あの思い出してもゾッとする夢中の犯罪。ああ、おれはなんという因果な男だろう。彼はただもう、身の不幸を歎くほかはなかったのである。  今までのところでは、幸いに法律上の罪人となることだけは免がれてきた。だが、この先どんなことで、もっとひどい罪を犯すまいものでもない。いや、ひょっとしたら、夢中で人を殺すようなことさえ、起こらないとは限らぬのだ。  本を見ても、人に聞いても、夢遊病者の殺人というのは、ままある事らしい。まだ木綿問屋にいたころ、飯炊きの爺さんが、若いころ在所にあった事実談だといって、気味のわるい話をしたのを、彼はよく覚えている。それは、村でも評判の貞女だったある女が、寝とぼけて、野らで使う草刈鎌をふるって、その亭主を殺してしまったというのである。  それを考えると、彼はもう夜というものが怖くてしようがないのだ。そして、普通の人には一日の疲れを休める安息の床が、彼だけには、まるで地獄のようにも思われるのだ。もっとも、家へ帰ってからは、ちょっと発作がやんでいるようだけれど、そんなことで決して安心はできないのだ。そこで、彼は、住み込みの勤めなど、どうして、どうして、二度とやる気はしないのである。  ところが、彼の父親にしてみると、折角勤め口が見つかったのを、なんの理由もなく断わってしまう彼のやり方を、甚だ心得がたく思うのである。というのは、父親はまだ、大きくなってから再発した彼の病気について、何も知らないからで、息子がどういう過失で木綿問屋をやめさせられたか、それさえ実はハッキリしないくらいなのだ。  ある日、一台の車がM伯爵の門長屋へはいってきて、三畳と四畳半二た間きりの狭苦しい父親の住居の前に梶棒をおろした。その車の上から息子の彦太郎が妙にニヤニヤ笑いながら行李を下げて降りてきたのである。父親は驚いて、どうしたのだと聞くと、彼はただフフンと鼻の先で笑って見せて、少し面白くないことがあったものだからと答えたばかりだった。  その翌日、木綿問屋の主人から一片の書状が届いた。そこには、今度都合により一時御子息を引き取ってもらうことにした。が、決して御子息に落度があったわけではないからというような、こうした場合の極りきった文句がしるされていた。  そこで、父親は、これはてっきり、彼が茶屋酒でも飲み覚えて、店の金を使い込みでもしたのだろうと早合点をしてしまったのである。そして、暇さえあれば彼を前に坐らせて、この柔弱者めがというような、昔形気な調子で意見を加えるのだった。  彦太郎が、最初帰ってきた時に、実はこうこうだと言ってしまえば、わけもなくすんだのであろうが、それを言いそびれてしまったところへ、父親に変な誤解をされて、お談義まで聞かされては、彼の癖として、もうどんなことがあっても真実を打ち明ける気がしないのであった。  彼の母親は三年あとになくなり、ほかに兄弟とてもない。ほんとうに親一人子一人の間柄であったが、そういう間柄であればあるほど、あの妙な肉親憎悪とでもいうような感情のために、お互いになんとなく隔意を感じ合っていた。彼が依怙地に病気のことを隠していたのも、一つはこういう感情に妨げられたからであった。もっとも一方では、二十三歳の彼には、それを打ち明けるのが此の上もなく気恥かしかったからでもあるけれど。そこへ持ってきて彼が折角の勤め口を断わってしまったものだから、父親の方ではますます立腹する。それが彦太郎にも反映して、彼の方でも妙にいらいらしてくる。というわけで、近頃ではお互いに口を利けば、すぐもう喧嘩腰になり、そうでなければ何時間でもだまって睨み合っているという有様であった。きょうもまたそれである。  二、三日雨が降りつづいたので、彦太郎は、日課のようにしていた散歩にも出られず、近所の貸本屋から借りてきた講談本も読み尽してしまい、どうにも身の置きどころもないような気持になって、ボンヤリと父親の小さな机の前に坐っていた。  四畳半と三畳の狭いうちが、畳から壁から天井から、どこからどこまでジメジメと湿って、すぐに父親を連想するような一種の臭気がむっと鼻を突く。それに、八月のさ中のことで、雨が降ってはいても、耐らなく蒸し暑いのである。 「えっ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……」  彼はそこにあった、鉛の屑を叩き固めたような重い不恰好な文鎮で、机の上を滅多無性に叩きつけながら、やけくそのようにそんなことをどなったりした。そうかと思うとまた、長いあいだ、だまりこくって考え込んでいることもあった。そんな時、彼はきっと十万円〔註、今の四千万円ほど〕の夢を見ていたのである。 「あああ、十万円ほしいな。そうすれば働かなくってもいいのだ。利子で充分生活ができるのだ。おれの病気だって、いい医者にかかって、金をうんとかけたら、治らないものでもないのだ。親父にしてもそうだ。あの年になって、みじめな労働をすることはいらないのだ。それもこれも、みんな金だ、金だ。十万円ありさえすればいいのだ。こうっと、十万円だから、銀行の利子が六分として、年に六千円、月に五百円か……」〔註、五百円は今の二十万円ほど〕  すると彼の頭に、いつか木綿問屋の番頭さんに連れられて行った、お茶屋の光景が浮かぶのである。そして、そのとき彼のそばに坐った眉の濃い一人の芸妓の姿や、その|声《こわ》|音《ね》や、いろいろのなまめかしい仕草が、浮かぶのである。 「ところで、なんだっけ、ああ、そうそう十万円だな。だが一体全体そんな金がどこにあるのだ。えっ、くそ、死んじまえ、死んじまえ、死んじまえ……」  そして、またしてもゴツンゴツンと、文鎮で机の上をなぐるのである。  彼がそんなことをくり返しているところへ、いつの間にか電燈がついて、父親が帰ってきた。 「今帰ったよ。やれやれよく降ることだ」  近頃では、その声を聞くと彼はゾーッと寒気を感じるのだ。  父親は雨で汚れた靴の始末をしてしまうと、やれやれという恰好で、四畳半の貧弱な長火鉢の前に坐って、濡れた紺の詰襟の上衣を脱いで、クレップシャツ一枚になり、ズボンのポケットから取り出した、真鍮のなたまめ|煙管《き せ る》で、まず一服するのであった。 「彦太郎、何か煮ておいたかい」  彼は父親から炊事係りを命ぜられていたのだけれど、ほとんどそれを実行しないのだった。朝などでも、父親がブツブツと言いながら、自分で釜の下を焚きつける日が多かった。きょうとても、むろんなんの用意もしていないのである。 「おい、なぜだまっとるんだ。おやおや、湯も沸いていないじゃないか。からだを拭くこともできやしない」  なんといってみても、彦太郎はだまっていて答えないので、父親は仕方なく、よっこらしょと立ち上がって、勝手もとへ下りて、ゴソゴソと夕餉の支度にとりかかるのであった。  そのけはいを感じながら、じっと机の前の壁を見つめている彦太郎の胸の中は、憎しみとも悲しみとも、なんとも形容のできない感情のために、煮え返るのである。天気のよい日なれば、こういう時には、何も言わずにプイとそとへ出て、その辺を足にまかせて歩き廻るのだけれど、きょうはそれもできないので、いつまでもいつまでも、雨もりで汚れた壁と睨めっくらをしているほかはない。  やがて、鮭の焼いたので貧しい膳立てをした父親が、それだけが楽しみの晩酌に取りかかるのである。そして、一本の徳利を半分もあけたころになると、ボツボツと元気が出て、さて、おきまりのお談義がはじまるのだ。 「彦太郎、ちょっとここへおいで……どういうわけで、お前はおれのいうことに返辞ができないのだ。ここへこいといったらくるがいいじゃないか」  そこで、彼は仕方なく机の前に坐ったまま、向きだけをかえて、はじめて父親の方を見るのだが、そこには、頭の禿と、顔の皺とを除くと、彼自身とそっくりの顔が、酒のために赤くなって、ドロンとした眼を見はっている。 「お前は毎日そうしてゴロゴロしていて、一体恥かしくないのか……」と、それから長々とよその息子の例話などがあって、さて「おれはな、お前に養ってくれとはいわない。ただ、このおいぼれの脛噛りをして、ゴロゴロしていることだけは、頼むから止めてくれ。どうだわかったか。わかったのかわからないのか」 「わかってますよ」すると彦太郎がひどい剣幕で答えるのだ。「だから、一所懸命就職口を探しているのです。探してもなければ仕方がないじゃありませんか」 「ないことはあるまい。此のあいだ××さんが話してくだすった口を、お前はなぜ断わってしまったのだい。おれにはどうもお前のやることはさっぱりわからない」 「あれは住み込みだから、厭だと言ったじゃありませんか」 「住み込みがなぜいけないのだ。通勤だって住み込みだって、別に変りはないはずだ」 「…………」 「そんな贅沢がいえた義理だと思うか。|先《せん》のお|店《たな》をしくじったのは何がためだ。みんなその我儘からだぞ。お前は自分ではなかなか一人前のつもりかも知れないが、どうして、まだまだ何もわかりゃしないのだ。人様が勧めてくださるところへハイハイと言って行けばいいのだ」 「そんなことをいったって、もう断わってしまったものを、今さらしようがないじゃありませんか」 「だから、だからお前は生意気だというのだ。一体あれを、おれに一言の相談もしないで、断わったのは誰だ。自分で断わっておいて、今さらしようがないとは、なんということだ」 「じゃあ、どうすればいいのです………そんなに僕がお邪魔になるのだったら、出て行けばいいのでしょう。ええ、あすからでも出て行きますよ」 「ば、馬鹿。それが親に対する言い草か」  やにわに父親の手が前の徳利にかかると、彦太郎の眉間めがけて飛んでくる。 「何をするんです」  そう叫ぶが早いか、今度は彼の方から父親に武者ぶりついて行く。狂気の沙汰である。そこで世にもあさましい親と子のとっ組み合いがはじまるのだ。だが、これは何も今夜に限ったことではない。もうこの頃では毎晩のようにくり返される日課の一つなのである。  そうして、とっ組み合っているうちに、いつも彦太郎の方が耐りかねたように、ワッとばかりに泣き出す………何が悲しいのだ。なんということもなく、すべてが悲しいのだ。詰襟の洋服を着て働いている五十歳の父親も、その父親の家でゴロゴロしている自分自身も、三畳と四畳半の乞食小屋のような家も、何もかも悲しいのだ。  そして、それからどんなことがあったか。  父親が火鉢の引出しから湯札を出して、銭湯へ出掛けた様子だった。しばらくたって帰ってくると、彼の御機嫌をとるように、 「すっかり晴れたよ。おい、もう寝たのか。いい月だ、庭へ出てみないか」  などといっていた。そして自分は縁側から庭へ下りて行った。そのあいだじゅう、彦太郎は四畳半の壁のそばに俯伏して、泣き出した時のままの姿勢で、身動きもしないでいた。蚊帳もつらないで全身を蚊の食うに任せ、ふてくされた女房のように、棄鉢に、口癖の「死んじまえ、死んじまえ」を念仏みたいに頭の中でくり返していた。そして、いつの間にか寝入ってしまったのである。  それからどんなことがあったか。  その翌朝、開けはなした縁側からさし込む、まばゆい日光のために、早くから眼を覚ました彦太郎は、部屋の中がいやにガランとして、ゆうべのまま蚊帳も吊ってなければ床も敷いてないのを発見した。  さてはもう父親は出勤したのかと、柱時計を見ると、まだやっと六時を廻ったばかりだ。なんとなく変な感じである。そこで、睡い眼をこすりながら、ふと庭の方を見ると、これはどうしたというのであろう。父親が庭のむこうの籐椅子にもたれこんで、ぐったりとしているではないか。  まさか睡っているのではあるまい。彦太郎は妙に胸騒ぎを覚えながら、縁側にあった下駄をつっかけると、急いで籐椅子のそばへ行ってみた。——読者諸君、人間の不幸なんて、どんなところにあるかわからないものだ。そのとき縁側には二足の下駄があって、彼のはいたのはその内の朴歯の日和下駄であったが、もしそうでなく、もう一つの桐の駒下駄の方をはいていたなら、或いはあんなことにならなくてすんだのかもしれないのだ。  近づいてみると、彦太郎の仰天したことには、父親はそこで死んでいたのである。両手を籐椅子の肘かけからダラリと垂らして、腰のところで二つに折れでもしたようにからだを曲げて、頭と膝とがほとんどくっ着かんばかりである。それゆえ、見まいとしても見えるのだが、その後頭部がひどい傷になっている。出血こそしていないけれど、いうまでもなくそれが致命傷に違いない。  まるで作りつけの人形ででもあるように、じっとしている父親の奇妙な姿を、夏の朝の輝かしい日光が、はれがましく照らしていた。一匹の虻がにぶい羽音を立てて、死人の頭の上を飛び廻っていた。  彦太郎は、余り突然のことなので、悪夢でも見ているのではないかと、しばらくぼんやりそこにたたずんでいたが、でも、夢であろうはずもないので、そこで、彼は庭つづきの伯爵邸の玄関へ駈けつけて、折から居合わせた一人の書生に、事の次第を告げたのである。  伯爵家からの電話によって間もなく警察官の一行がやってきたが、中に警察医もまじっていて、先ず取りあえず死体の検診が行なわれた。その結果、彦太郎の父親は「鈍器による打撃のために脳震盪」を起こしたもので、絶命したのはゆうべ十時前後らしいということがわかった。一方彦太郎は警察署長の前に呼び出されて、いろいろと取り調べを受けた。伯爵家の執事も同様に訊問された。しかし両人とも、なんら警察の参考になるような事柄は知っていなかったのである。  それから現場の取り調べが開始された。署長のほかに背広姿の二人の刑事が、いろいろと議論を戦わせながら、しかしいかにも専門家らしくテキパキと調査を進めて行った。彦太郎は伯爵家の召使いたちと一緒に、ぼんやりとその有様を眺めていた。彼は余りのことに思考力を失ってしまって、その時まで、まだ何事も気づかないでいたのだ。一種の名状しがたい不安におそわれてはいたけれど、しかしそれが何ゆえの不安であるか、彼は少しも知らなかったのである。  そこは庭とはいっても、彦太郎の家の裏木戸のそとにある二十坪ほどの殺風景な空地なので、彦太郎の家と向かい合って、伯爵家の三階建ての西洋館があり、右手の方は高いコンクリート塀を隔てて往来に面し、左手は伯爵家の玄関に通ずる広い道になっている。そのほとんど中央に、主家の使いふるしの毀れかかった籐椅子が置いてあるのだ。  むろん他殺の見込みで取り調べが進められた。しかし、死体の周囲からは加害者の遺留品らしいものは何も発見されなかった。空地が隅から隅まで捜索せられたけれど、西洋館に沿って植えられた五、六本の杉の木を除いては、植木一本、植木鉢一つないガランとした砂地で、石ころ、棒切れ、その他兇器に使いうるような品物はむろん、疑うべき何物をも見出すことはできなかった。  たった一つ、籐椅子から一間ばかりの杉の木の根元の草のあいだに、一と束の夏菊の花が落ちていたほかには。だが、誰もそんな草花などには見向きもしなかった。或いは、たとえ気がついていても特別の注意を払わなかった。彼らはもっとほかのもの、例えば一と筋の手拭とか、一個の財布とか、いわゆる遺留品らしいものを探していたのである。  結局、唯一の手掛りは足跡だった。幸いなことには降りつづいた雨のために、地面が滑らかになっていて、前夜、雨が上がってからの足跡だけが、ハッキリと残っているのだ。とはいえ、けさからもうたくさんの人が歩いているので、それを一々調べ上げるのはずいぶん骨の折れる仕事ではあったが、これは誰の足跡、あれは誰の足跡と、丹念にあてはめて行くと、あとに一つだけ主のない足跡が残ったのである。  それは幅の広い駒下駄らしいもので、その辺をやたらに歩き廻ったとみえて、縦横無尽の跡がついている。そこで、刑事の一人がそれを追ってみると、不思議なことには、足跡は彦太郎の家の縁側から発して、またそこへ帰っていることがわかった。そして、縁側の型ばかりの沓脱石の上に、その足跡にピッタリ一致する古い桐の駒下駄がチャンと脱いであったのである。  最初刑事が足跡を調べはじめたころに、彦太郎はもうその桐の古下駄に気がついていた。彼は父親の死体を発見してから一度も家の中へはいったことはないのだから、その足跡はゆうべついたものに違いないが、とすると、一体なにびとがその下駄をはいたのであろうか……  そこで、彼はやっと或る事を思い当たったのである。彼はハッと昏倒しそうになるのをやっとこらえることができた。頭の中でドロドロした液体が渦巻きのように回転しはじめた。レンズの焦点が狂ったように、周囲の景色がスーッと眼の前からぼやけて行った。そして、そのあとへ、あの机の上の重い文鎮をふり上げて、父親の脳天を叩きつけようとしている、自分自身の恐ろしい姿が幻のように浮かんできた。 「逃げろ、逃げろ、さあ早く逃げるんだ」  何者とも知れず、彼の耳のそばであわただしく叫びつづけた。  彼は一所懸命に、なにげないふうを装いながら、伯爵家の召使いたちの群れから少しずつ、少しずつ離れて行った。それが彼にとってどれほどの努力であったか。今にも「待てっ」と呼び止められそうな気がして、もう生きた心地もないのである。  だが、仕合わせなことには、誰もこの彼の不思議な挙動に気づくものもなく、無事に家の蔭までたどりつくことができた。そこから彼は一と息に門の前まで駈けつけた。見ると門前に一台の警察用の自転車が立てかけてある。彼はいきなりそれに飛び乗って、行手も定めず、無我夢中でペダルを踏んだ。  両側の家並がスーッ、スーッと背後へ飛んで行った。幾度となく往来の人に突きあたって顛覆しそうになった。それを危うく避けて走った。今なんという町を走っているのか、むろんそんなことは知らなかった。賑やかな電車道などへ出そうになると、それをよけて淋しい方へ、淋しい方へとハンドルを向けた。  それからどれほど炎天の下を走りつづけたことか。彦太郎の気持では充分十里以上も逃げのびたつもりだったけれど、東京の町はなかなか尽きなかった。ひょっとすると、彼は同じところをグルグル廻っていたのかもしれないのだ。そうしているうちに、突然パンというひどい音がしたかと思うと、彼の自転車は役に立たなくなってしまった。  彼は自転車を捨てて走り出した。白絣の着物が、汗のために、水にでも漬けたようにビッショリ濡れていた。足は棒のように無感覚になって、ちょっとした障碍物にでもつまずいては倒れた。  心臓が胸の中で狂気のように躍り廻っていた。喉はカラカラに渇いて、ヒューヒューと喘息病みみたいな音を立てた。彼はもう、なんのために走らねばならぬのか、最初の目的を忘れてしまっていた。ただ眼の前に浮かんでくる世にも恐ろしい親殺しの幻影が彼を走らせた。  そして、一丁、二丁、三丁、彼は酔っぱらいのような恰好で、倒れては起き上がり、倒れてはまた起き上がって走った。が、その痛ましい努力も長くはつづかなかった。やがて彼は倒れたまま動かなくなった。汗と埃にまみれた彼のからだを、真夏の日光がジリジリと照りつけていた。  しばらくして、通行人の知らせで駈けつけた警官が、彼の肩をつかんで引き起こそうとした時に、彼はちょっとふり放して逃げ出す恰好をしたが、それが最後だった。彼はそうして警官の腕に抱かれたまま息を引きとったのである。  そのあいだに、伯爵邸の父親の死骸のそばでは何事が起こっていたか。  警官たちが彦太郎の逃亡に気づいたのは、彼が半里も逃げ延びている時分であった。署長は、もう追っかけてもだめだと悟ると、猶予なく伯爵家の電話を借りて、その旨を本署に伝え、彦太郎逮捕の手配を命じた。そうしておいて、彼らは猶も現場の調査をつづけ、かたがた検事の来着を待つことにしたのである。  むろん彼らは彦太郎が下手人だと信じた。現場に残された唯一の手掛りである桐の下駄が、彦太郎の家の縁側から発見されたこと、その下駄の主と見なすべき彦太郎が逃亡したこと、この二つの動かし難い事実が彼の有罪を証拠立てていた。  ただ、彦太郎が何ゆえに真実の父親を殺害したか、そして又、下手人である彼が、なぜ警官が出張するまで逃亡を躊躇していたかという二点が、疑問として残されていたけれど、それもいずれ彼を逮捕してみればわかることなのである。ところが、そうして事件が一段落をつげたかとみえた時に、実に意外なことが起こった。 「その人を殺したのは、私です。私です」  伯爵邸の方から一人のまっ青な顔をした男が、署長のそばへ走ってきて、いきなりこんなことを言い出したのである。その男はまるで熱病患者のように「私です、私です」とそればかりをくり返すのだ。  署長をはじめ刑事たちは、あっけにとられて、不思議な闖入者の姿を眺めた。そんなことがありうるだろうか。まさか、この男が彦太郎の家にあった桐の下駄をはいたとも思われぬ。そうだとすると、少しも足跡を残さないで、どうして殺人罪を犯すことができたのであろうか。そこで、彼らはともかく男の陳述を聞いてみることにした。  それは実に意外な事実であった。警察はじまって以来の記録といってもさしつかえないほど、不思議千万な事実であった。さて、その男(それは伯爵家の書生の一人であった)の告白したところはこうである。  きのう、伯爵邸に数人の来客があって、西洋館三階の大広間で晩餐が供せられた。それが終って客の帰ったのがちょうど九時ごろであった。彼はそこのあと片付けを命ぜられて、部屋の中をあちこちしながら働いていたが、ふとジュウタンの端につまずいて倒れた。そのはずみに部屋の隅に置いてあった花瓶を置くための高い台を倒し、台の上の品物が、開けはなしてあった窓から飛びだしたのである。  この品物がもし花瓶であったら、こんな間違いは起こらなかったのであろうが、それは、花瓶の台にはのっていたけれど、花瓶ではなく、五、六時間もたてば跡形もなく融けてなくなってしまう氷の|塊《かたま》りだったのである。冷房用の花氷だったのである。水を受けるための装置は台に取りつけてあったので、上の氷だけが落ちたのだ。むろんそれは昼間からその部屋に飾ってあったのだから、大部分融けてしまって、ほとんど心だけが残っていたのだけど、でも老人に脳震盪を起こさせるには充分だったとみえる。  彼は驚いて窓から下を覗いて見た。そして、月あかりでそこに小使いの老人が死んでいるのを知った時、どんなに仰天したか。たとえあやまちからとはいえ、おれは人殺しをやってしまったのだ。そう思うともうじっとしていられない。皆に知らせようか、どうしようか、とつおいつ思案をしているうちに時間がたつ、もしこのままあすの朝まで知れずにいたら、どうなるだろう。ふと彼はそんなことを考えてみた。  いうまでもなく、氷は解けてしまうのだ。中の夏菊の花だけは残っているだろうけれど、ひょっとしたら気づかれずにすむかもしれない。それとも今から氷のかけらを拾いに行こうか。いやいや、そんなことをして、もし見つかったら、それこそ罪人にされてしまう。彼は寝床へはいっても、一と晩中まんじりともしなかった。  ところが朝になってみると、事件は意外な方向に進んで行った。朋輩から詳しく様子を聞いて、一時はこいつはうまく行ったと喜んだものの、さすがに善人の彼は、そうしてじっとしていることはできなかった。自分の代りに、一人の男が恐ろしい罪名を着せられているかと思うと、あまりに空恐ろしかった。それに又、そうして一時は免がれることができても、いずれ真実が暴露する時がくるに違いなかった。そこで彼は、今は意を決して署長のところへやってきた。というわけであった。  これを聞いた人々は、あまりに意外な、そしてまたあまりにあっけない事実に、しばらくは、ただ顔を見合わせているばかりであった。  それにしても彦太郎は早まったことをしたものである。その時は、彼が逃亡してからまだ三十分もたっていないのだった。それとも又、彼が、いや彼でなくとも、刑事なり伯爵家の人たちなりが、あの杉の根元に落ちていた一と束の夏菊の花に、もっとよく注意したならば、そしてその意味を悟ることができたならば、彦太郎は決して死ななくともすんだのである。 「しかしおかしいね」しばらくしてから警察署長が妙な顔をして言った。「この足跡はどうしたというのだろう。それから、死人の息子はなぜ逃亡したのだろう」 「わかりましたよ、わかりましたよ」ちょうどこのとき問題の桐の下駄をはき試みていた一人の刑事がそれに答えて叫んだ。「足跡はなんでもないのです。この下駄をはいてみるとわかりますがね。割れているのですよ。見たところ別状ないようですけれど、はいてみると、まん中からひび割れていることがわかるのです。もうちょっとで離れてしまいそうです。誰だってこんな下駄をはいているのは気持がよくありませんからな。きっと被害者が庭を歩いているうちに、それに気づいて、縁側まではき換えに帰ったのですよ」  もしこの刑事の想像が当たっているとすると、彼らは今まで被害者自身の足跡を見て騒いでいたわけである。なんという皮肉な間違いであろう。多分それは、殺人が行なわれたからには、犯人の足跡がなければならぬというもっともな理窟が、彼らの判断力を迷わせてしまったのであろう。  その翌々日、M伯爵家の門を二つの棺が出た。いうまでもなく、不幸なる夢遊病者彦太郎とその父親を納めたものである。噂を聞いた世間の人たちは、だれもかれも、彼ら親子の変死を気の毒がらぬものはなかった。だが、あのとき彦太郎がなぜ逃亡を試みたかという点だけは、永久に解くことのできない謎として残されたのである。     幽霊 「辻堂のやつ、とうとう死にましたよ」  腹心のものが、多少手柄顔にこう報告した時、平田氏は少なからず驚いたのである。もっとも、だいぶ以前から、彼が病気で|床《とこ》についたきりだということは聞いていたのだけれど、それにしても、あの自分をうるさくつけ狙って、|敵《かたき》を(あいつは勝手にそうきめていたのだ)討つことを生涯の目的にしていた男が、「きゃつのどてっ腹へ、この短刀をぐっさりと突きさすまでは、死んでも死にきれない」と口ぐせのようにいっていたあの辻堂が、その目的を果たしもしないで死んでしまったとは、どうにも考えられなかった。 「ほんとうかね」  平田氏は思わずその腹心の者にこう問い返したのである。 「ほんとうにもなんにも、私は今あいつの葬式の出るところを見とどけてきたんです。念のために近所で聞いてみましたがね。やっぱりそうでした。親子ふたり暮らしのおやじが死んだのですから、息子のやつ可哀そうに、泣き顔で棺のそばへついて行きましたよ。おやじに似合わない、あいつは弱虫ですね」  それを聞くと、平田氏はがっかりしてしまった。屋敷のまわりに高いコンクリート塀をめぐらしたのも、その塀の上にガラスの破片を植えつけたのも、門長屋をほとんどただのような家賃で警官の一家に貸したのも、屈強なふたりの書生を置いたのも、夜分はもちろん、昼間でも、止むを得ない用事のほかはなるべく外出しないことにしていたのも、止むを得ず外出する場合には、必ず書生を伴なうようにしていたのも、それもこれも皆、ただひとりの辻堂が怖いからであった。平田氏は一代で今の大身代を作り上げたほどの男だから、それは時にはずいぶん罪なこともやってきた。彼に深い恨みをいだいている者もふたりや三人ではなかった。といって、それを気にする平田氏ではないのだが、あの半狂乱の辻堂老人ばかりは、彼はほとほと持てあましていたのである。その相手が今死んでしまったと聞くと、彼はホッと安心のため息をつくと同時に、なんだか張合いが抜けたような、淋しい気持もするのであった。  その翌日、平田氏は念のために自身で辻堂の住まいの近所へ出掛けて行って、それとなく様子をさぐってみた。そして、腹心のものの報告がまちがっていなかったことを確かめることができた。そこで、いよいよ大丈夫だと思った彼は、これまでの厳重な警戒をといて、久しぶりでゆったりした気分を味わったことである。  詳しい事情を知らぬ家族の者は、日頃陰気な平田氏が、にわかに快活になって、彼の口からついぞ聞いたことのない笑い声がもれるのを、少なからずいぶかしがった。ところが、この彼の快活な様子はあんまり長くはつづかなかった。家族の者は、今度は、前よりも一そうひどい主人公の憂鬱に悩まされなければならなかった。  辻堂の葬式があってから、三日のあいだは何事もなかったが、その次の四日目の朝のことである。書斎の椅子にもたれて、何心なくその日とどいた郵便物を調べていた平田氏は、たくさんの封書やはがきの中にまじって、一通の、かなりみだれてはいたが、確かに見覚えのある手蹟で書かれた手紙を発見して、青くなった。 [#ここから2字下げ] この手紙は、おれが死んでから貴様の所へとどくだろう。貴様は定めしおれの死んだことを小躍りして喜んでいるだろうな。そして、ヤレヤレこれで安心だと、さぞのうのうした気でいるだろうな。ところが、どっこいそうは行かぬぞ。おれのからだは死んでも、おれの魂は貴様をやっつけるまでは決して死なないのだからな。なるほど、貴様のあのばかばかしい用心は生きた人間には利き目があるだろう。たしかにおれは手も足も出なかった。だがな、どんな厳重なしまりでも、すうっと、煙のように通りぬけることのできる魂というやつには、いくら貴様が大金持ちでも策のほどこしようがないだろう。おい、おれはな、身動きもできない大病にとっつかれて寝ているあいだに、こういうことを誓ったのだよ。この世で貴様をやっつけることができなければ、死んでから怨霊になって、きっと貴様をとり殺してやるということをな。何十日というあいだ、おれは寝床の中でそればっかり考えていたぞ。その思いが通らないでどうするものか。用心しろ、怨霊というものはな、生きた人間よりもよっぽど恐ろしいものだぞ。 [#ここで字下げ終わり]  筆蹟がみだれている上に、漢字のほかは全部片仮名で書かれていて、ずいぶん読みにくいものだったが、そこには大体右のような文句がしるされていた。いうまでもなく、辻堂が病床で呻吟しながら、魂をこめて書いたものに違いない。そして、それを自分の死んだあとで息子に投函させたものに違いない。 「なにをばかな。こんな子供だましのおどし文句で、おれがビクビクするとでも思っているのか。いい年をして、さてはやつも病気のせいで、いくらかもうろくしていたんだな」  平田氏は、その場ではこの死人の脅迫状を一笑に付してしまったことだが、さて、だんだん時がたつにつれて、なんともいえない不安が、そろそろと彼の心にわき上がってくるのをどうすることもできなかった。どうにも防禦の方法がないということが、相手がどんなふうに攻めてくるのだか、まるでわからないことが、少なからず彼をイライラさせた。彼は夜となく昼となく、気味のわるい妄想に苦しめられるようになった。不眠症がますますひどくなって行った。  一方においては、辻堂の息子の存在も気がかりであった。あのおやじとはちがって気の弱そうな男に、まさかそんなこともあるまいが、もしやおやじの志をついで、やっぱりおれをつけ狙っているのだったら大変である。そこへ気づくと、彼はさっそく以前辻堂を見張らせるために雇ってあった男を呼びよせ、今度は息子の方の監視を命じるのであった。  それから数カ月のあいだは何事もなく過ぎ去った。平田氏の神経過敏と不眠症は容易に回復しなかったけれど、心配したような怨霊のたたりらしいものもなく、又辻堂の息子の方にもなんら不穏の形勢は見えなかった。さすが用心深い平田氏も、だんだん無益なとりこし苦労をばかばかしく思うようになってきた。  ところが、ある晩のことであった。  平田氏は珍らしく、たったひとりで書斎にとじこもって何か書き物をしていた。屋敷町のことで、まだ宵のうちであったにもかかわらず、あたりはいやにシーンとしずまり返っていた。ときどき犬の遠吠えが物淋しく聞こえてくるばかりだった。 「これが参りました」  突然書生がはいってきて、一封の郵便物を彼の机の端に置くと、だまって出て行った。  それは一と目見て写真だということがわかった。十日ばかり前に或る会社の創立祝賀会が催された時、発起人たちが顔を揃えて写真をとったことがある。平田氏もそのひとりだったので、それを送ってきたものに違いない。  平田氏はそんなものに大して興味もなかったけれど、ちょうど書きものに疲れて一服したい時だったので、すぐ包み紙を破って写真を取り出してみた。彼はちょっとのあいだそれを眺めていたが、ふと何か汚ないものにでもさわった時のように、ポイと机の上にほうり出した。そして不安らしい眼つきで、部屋の中をキョロキョロと見廻すのであった。  しばらくすると、彼の手がおじおじと、今ほうり出したばかりの写真の方へ伸びて行った。しかし拡げてちょっと見ると、又ポイとほうり出すのだ。二度三度この不思議な動作をくりかえしたあとで、彼はやっと気を落ちつけて写真を熟視することができた。  それは決して幻影ではなかった。眼をこすってみたり、写真の表をなでてみたりしても、そこにある恐ろしい影は消え去りはしなかった。ゾーッと彼の背中を冷たいものが這い上がった。彼はいきなりその写真をずたずたに引きさいてストーブの中に投げ込むと、フラフラと立ちあがって、書斎から逃げ出した。  とうとう恐れていたものがやってきたのだ。辻堂の執念深い怨霊が、その姿を現わしはじめたのだ。  そこには、七人の発起人の明瞭な姿の奥に、朦朧として、ほとんど写真の表面一杯にひろがって、辻堂の無気味な顔が大きく大きく写っていたではないか。そして、その〔も〕〔や〕のような顔の中にまっ暗な二つの眼が平田氏の方を恨めしげに睨んでいたではないか。  平田氏はあまりの恐ろしさに、ちょうど物におびえた子供のように、頭から蒲団をひっ被って、その晩はよっぴてブルブルとふるえていたが、翌朝になると、太陽の力は偉いものだ! 彼は少しばかり元気づいたのである。 「そんなばかなことがあろうはずはない。ゆうべはおれの眼がどうかしていたのだ」  しいてそう考えるようにして、彼は朝日のカンカン照りこんでいる書斎へはいっていった。見ると残念なことには、写真は焼けてしまって跡形もなくなっていたけれど、それが夢でなかった証拠には、写真の包み紙が机の上にちゃんと残っていた。  よく考えてみると、どちらにしても、恐ろしいことだった。もしあの写真にほんとうに辻堂の顔が写っていたのだったら、それはもう、例の脅迫状もあることだし、こんな無気味な話はない。世の中には理外の理というものがないとも限らないのだ。それとも又、実はなんでもない写真が、平田氏の眼にだけあんなふうに見えたのだとしても、それでは、いよいよ辻堂の呪いにかかって、気が変になりはじめたのではないかと、一そう恐ろしく感ぜられるのだ。  二、三日のあいだというもの、平田氏はほかのことは何も思わないで、ただあの写真のことばかり考えていた。  もしや、どうかして同じ写真屋で辻堂が写真をとったことがあって、その種板と今度の写真の種板とが二重に焼き付けられたとでもいうことではないかしら、そんなばかばかしいことまで考えて、わざわざ写真屋へ使いをやって調べさせたが、むろんそのような手落ちのあろうはずもなく、それに、写真屋の台帳には辻堂という名前はひとりもないこともわかった。  それから一週間ばかりのちのことである。関係している会社の支配人から電話だというので、平田氏が何心なく卓上電話の受話器を耳にあてると、そこから変な笑い声が聞こえてきた。 「ウフフフフフ」  遠いところのようでもあり、そうかと思うと、すぐ耳のそばで非常な大きな声で笑っているようにも思われた。こちらからいくら声をかけても、先方は笑っているだけだった。 「モシモシ、君は××君ではないのかね」  平田氏がかんしゃくを起こしてこうどなりつけると、その声はだんだん小さくなって、ウ、ウ、ウ、ウ、ウ、と、すうっと遠くの方へ消えて行った。そして、「ナンバン、ナンバン、ナンバン」という交換手のかんだかい声がそれに代わった。  平田氏はいきなりガチャンと受話器をかけると、しばらくのあいだじっと一つ所を見つめて身動きもしないでいた。そうしているうちに、なんとも形容できない恐ろしさが、心の底からジリジリと込み上げてきた……あれは聞き覚えのある辻堂自身の笑い声ではなかったか……平田氏はその卓上電話器が何か恐ろしいものででもあるように、でもそれから眼を離すことはできないで、あとじさりにそろそろとその部屋を逃げ出すのであった。  平田氏の不眠症はだんだんひどくなって行った。やっと睡りついたかと思うと、突然気味わるい叫び声を立てて飛び起きるようなこともたびたびあった。家族の者は主人の妙な様子に少なからず心配した。そして医者に見てもらうことをくどく勧めた。平田氏は、もしできることなら、ちょうど幼い子供が「怖いよう」といって母親にすがりつくように、誰かにすがりつきたかった。そして、このごろの怖さ恐ろしさをすっかり打ち明けたかった。でもさすがにそうもなりかねるので、「なあに、神経衰弱だろう」といって、家族の手前をとりつくろい、医者の診察を受けようともしなかった。  そしてまた数日が過ぎ去った。ある日のこと、平田氏の重役を勤めている会社の株主総会があって、彼はその席で少しばかりおしゃべりをしなければならなかった。その半年のあいだの会社の営業状態はこれまでにない好成績を示していたし、ほかに別段心配するような問題もなかったので、ただ通り一ぺんの報告演説をすれば事はすむのであった。彼は百人近くも集まった株主たちの前に立って、もうそういう事には慣れきっているので、至極板についた態度口調で、話を進めるのであった。  ところが、しばらくおしゃべりをつづけているうちに、むろんそのあいだには、聴衆である株主たちの顔をそれからそれへと眺め廻していたのだが、ふと変なものが眼にはいった。彼はそれに気づくと、思わず演説をやめて、人々があやしむほども長いあいだ、だまったまま棒立ちになっていた。  そこには、たくさんの株主たちのうしろから、あの死んだ辻堂と寸分ちがわない顔がじっとこちらを見つめていたのだ。 「上述の事情でござりまして」  平田氏は気を取りなおしたように一段と声をはり上げて、演説をつづけようとした。だがどうしたものか、いくら元気を出してみても、その気味のわるい顔から眼をそらすことができないのである。彼はだんだんうろたえ出した。話の筋もしどろもどろになってきた。すると、その辻堂と寸分ちがわない顔が、平田氏の狼狽をあざけりでもするように、いきなりニヤリと笑ったではないか。  平田氏はどうして演説を終ったか、ほとんど無我夢中であった。彼はヒョイとおじぎをしてテーブルのそばを離れると、人々が怪しむのもかまわず、部屋の出口の方へ走って行って、彼をおびやかしたあの顔の持ち主を物色した。しかし、いくら探してもそんな顔は見あたらないのだ。念のために一度上座の方へ戻って、元の位置に近い所から、株主たちの顔を一人々々見直しても、もう辻堂に似た顔さえ見いだすことができなかった。  その会場の大広間は、人の出入り自由な或るビルディングの中にあったのだが、考えようによっては、偶然、聴衆の中に辻堂と似た人物がいて、それが平田氏の探した時には、もう立ち去ったあとだったかもしれない。でも世の中にあんなによく似た顔があるものだろうか。平田氏はどう考え直してみても、それが瀕死の辻堂のあの恐ろしい宣言に関係があるような気がしてしようがなかった。  それ以来、平田氏はしばしば辻堂の顔を見た。ある時は劇場の廊下で、ある時は公園の夕闇の中で、ある時は旅行先の都会のにぎやかな往来で、ある時は彼の屋敷の門前でさえ。この最後の場合などは、平田氏は危うく卒倒するところであった。ある夜ふけに、よそから帰った彼の自動車が今門をはいろうとした時だった。門の中から一つの人影がすうっと出てきて自動車とすれちがったが、すれちがう時に、実に瞬間の出来事だった、その顔が自動車の窓からヒョイと覗いたのである。  それがやっぱり辻堂の顔だった。しかし、玄関について、そこに出迎えていた書生や女中などの声でやっと元気を回復した平田氏が、運転手に命じて探させた時分には、人影はもうその辺には見えなかった。 「ひょっとしたら、辻堂のやつ、生きているのではないかな。そして、こんなお芝居をやっておれを苦しめようというのではないかな」  平田氏はふとそんなふうに疑ってみた。しかし、絶えず辻堂の息子を見張らせてある腹心の者からの報告では、少しも怪しむべきところはなかった。もし辻堂が生きているのだったら、長いあいだには一度ぐらいは息子のところへやってきそうなものだが、そんなけぶりも見えないのだ。それに第一おかしいのは、生きた人間に、あんなにこちらの行く先がわかるものだろうか。平田氏は平常から秘密主義の男で、外出する場合にも召使いはもちろん家族の者にさえ、行く先を知らさないことが多かった。だから例の顔が彼の行く先々へ現われるためには、絶えず彼の屋敷の門前に張りこんでいて自動車のあとをつけるほかはないのだが、その辺は淋しい場所で、ほかの自動車がくればそれに気のつかぬはずはなく、また自動車を雇おうにも、近くにガレージはないのだ。といって、まさか徒歩であとをつけるわけにも行くまい。どう考えてみても、やっぱりこれは怨霊の祟りと思うほかはなかった。 「それともおれの気の迷いかしら」  だが、たとえ気の迷いであっても、恐ろしさに変わりはなかった。彼ははてしもなく思いまどった。  ところが、そうしていろいろと頭を悩ましているうちに、ふと一つの妙案が浮かんできた。 「これならもう確かなもんだ。なぜ早くそこへ気がつかなかったのだろう」  平田氏はいそいそと書斎へはいって行って、筆をとると、辻堂の郷里の役場へあてて、彼の息子の名前で、戸籍謄本下付願を書いた。もし戸籍謄本の表に辻堂が生きて残っているようだったらもう占めたものだ。どうかそうあってくれるようにと平田氏は祈った。  数日たつと、役場から戸籍謄本が届いた。しかし平田氏のがっかりしたことには、そこには、辻堂の名前の上に十文字に朱線が引かれて、上欄には死亡の年月日時間と届書を受け付けた日付とが明瞭に記入されていた。もはや疑う余地はないのだ。 「近頃どうかなすったのではありませんか。おからだのぐあいでも悪いんじゃないんですか」  平田氏に会うと誰もが心配そうな顔をしてこんなことを言った。平田氏自身でも、なんだかめっきり年をとったような気がした。頭のしらがも一、二カ月以前にくらべると、ずっとふえたように思われた。 「いかがでしょう。どこかへ保養にでもいらしってみては」  医者に見てもらうことはいくら言ってもだめなので、家族の者は今度は彼に転地をすすめるのであった。平田氏とても、門前であの顔に出あってからというものは、もう家にいても安心できないような気がして、旅行でもして気分を変えてみたらと思わないではなかったので、そこで、そのすすめをいれて、しばらく或る暖かい海岸へ転地することにした。  あらかじめ行きつけの旅館へ、部屋を取って置くようにハガキを出させたり、当座の入用の品を調えさせたり、お供の人選をしたり、そんなことが平田氏を久しぶりで明かるい気持にした。彼は、いくらかわざとではあったけれど、若い者が遊山にでも行く時のようにはしゃいでいた。  さて、海岸へ行ってみると、予期した通りすっかり気分が軽くなった。海岸のはればれした景色も気に入った。醇朴なあけっぱなしな町の人たちの気風も気に入った。旅館の部屋も居心地がよかった。そこは海岸ではあったけれど、海水浴場というよりはむしろ温泉町として名高い所だった。彼はその温泉へはいったり、暖かい海岸を散歩したりして日を暮らした。  心配していた例の顔も、この陽気な場所へは現われそうにもなかった。平田氏は今では人のいない海岸を散歩する時にも、もうあまりビクビクしないようになっていた。  ある日、彼はこれまでになく、少し遠くまで散歩したことがあった。うかうかと歩いているうちに、ふと気がつくといつの間にか夕闇が迫まっていた。あたりには、広い砂浜に人影もなく、ドドン……ザー、ドドン……ザーッと寄せては返す波の音ばかりが、思いなしか何か不吉なことを告げ知らせでもするように、気味わるく響いていた。  彼は大急ぎで宿の方へ引っ返した。可なりの道のりであった。悪くすると半分も行かぬうちに日が暮れきってしまうかもしれなかった。彼はテクテク、テクテク、汗を流して急いだ。  あとから誰かついてくるように聞こえる自分の足音に、彼は思わずハッとふり返ったりした。何かがひそんでいそうな松並木のうす暗い影も気になった。  しばらく行くと、行く手の小高い砂丘の向こう側に、チラと人影が見えた。それが平田氏をいくらか心丈夫にした。早くあのそばまで行って話しかけでもしたら、この妙な気持が直るだろうと、彼は更に足を早めてその人影に近づいた。  近づいてみると、それはひとりの男が、もうだいぶ年寄りらしかったが、向こうをむいてじっとうずくまっているのだった。そのようすは、何か一心不乱に考え込んでいるらしく見えた。  それが、平田氏の足音に気づいたのか、びっくりしたように、いきなりヒョイとこちらをふり向いた。灰色の背景の中に、青白い顔がくっきりと浮き出して見えた。 「アッ」  平田氏はそれを見ると、押しつぶされたような叫び声を発した。そしてやにわに走り出した。五十男の彼が、まるでかけっこをする小学生のように滅多無性に走った。  ふりむいたのは、もうここでは大丈夫だと安心しきっていた、あの辻堂の顔だったのである。 「危ない」  夢中になって走っていた平田氏が、何かにつまずいてばったり倒れたのを見ると、ひとりの青年がかけ寄ってきた。 「どうなすったのです。ア、|怪《け》|我《が》をしましたね」  平田氏は生爪をはがして、うんうん唸っているのだ。青年は袂から取り出した新らしいハンケチで手ぎわよく傷の上に包帯をすると、極度の恐怖と傷の痛みとで、もう一歩も歩けぬほど弱っている平田氏を、ほとんどだくようにしてその宿へつれ帰った。  自分でも寝込んでしまうかと心配したのが、そんなこともなく、平田氏は翌日になると割合い元気に起き上がることができた。足の痛みで歩き廻るわけにはいかなかったけれど、食事など普通にとった。  ちょうど朝飯をすませたところへ、きのう世話をしてくれた青年が見舞いにきた。彼もやっぱり同じ宿に泊まっていたのだ。見舞いの言葉やお礼の挨拶が、だんだん世間話に移って行った。平田氏はそういう際で、話し相手がほしかったのと、礼心とで、いつになく快活に口をきいた。  同席していた平田氏の召使いがいなくなると、それを待っていたように、青年は少し形を改めてこんなことを言った。 「実は僕はあなたがここへいらした最初から、ある興味をもってあなたのご様子に注意していたのですよ……何かあるのでしょう。お話しくださるわけにはいきませんかしら」  平田氏は少からず驚いた。この初対面の青年が、いったい何を知っているというのだろう。それにしてもあまりぶしつけな質問ではないか。彼はこれまで一度も辻堂の怨霊について人に話したことはなかった。恥かしくってそんなばかばかしいことは言えなかったのだ。だから今この青年の質問に対しても、彼はむろんほんとうのことを打ち明けようとはしなかった。  だが、しばらく問答をくり返しているあいだに、それはまあなんという不思議な話術であったか。青年はまるで魔法使いのように、さしもに堅い平田氏の口をなんなくひらかせてしまったのである。平田氏がちょっと口をすべらしたのがいとぐちだった。もし相手が普通の人間だったら、なんなく取り繕うこともできたであろうけれど、青年にはだめだった。彼は世にもすばらしい巧みさをもって、次から次へと話を引き出して行った。一つは、ゆうべあの恐ろしい出来事のあったけさであったためもあろうが、平田氏はまるで自由を失った人のように、話をそらそうとすればするほど、だんだん深みへはまって行くのだった。そしてついには、辻堂の怨霊に関するすべてのことが、あますところなく語りつくされてしまったのである。  聞きたいだけ聞いてしまうと、今度は、青年は話を引き出した時にも劣らぬ、実に巧みな話術をもって、ほかの世間話に移っていった。そして、彼が長座を詫びて部屋を出て行った時には、平田氏は無理に打ち明け話をさせられたことを不快に感じていなかったばかりか、その青年がどうやらたのもしくさえ思われたのである。  それから十日ほどは別段のこともなく過ぎ去った。平田氏はもうこの土地にもあきていたけれど、足の傷がまだ痛むのと、それを無理に帰京して淋しい屋敷へ帰るよりは、この賑やかな宿屋住いの方がいくらか居心地がよかろうと思ったのとで、ずっと滞在をつづけていた。一つは新らしく知り合いになった青年がなかなか面白い話し相手だったことも、彼を引き止めるのにあずかって力があった。  その青年がきょうもまた彼の部屋をおとずれた。そして、突然、変に笑いながらこんなことを言うのだった。 「もうどこへいらっしゃっても大丈夫ですよ。幽霊は出ませんよ」  一瞬間、平田氏はその言葉の意味がわからなくて、まごついた。彼のあっけにとられたような表情のうちには、痛いところへさわられた人の不快がまじっていた。 「突然申し上げては、びっくりなさるのもごもっともですが、決して冗談ではありません。幽霊はもういけどってしまったのです。これをごらんなさい」  青年は片手に握った一通の電報をひろげて平田氏に示した。そこにはこんな文句がしるされていた。 「ゴメイサツノトオリ一サイジハクシタホンニンノショチサシズコウ」 「これは東京の僕の友人からきたのですが、この一サイジハクシタというのは、辻堂の幽霊、いや幽霊ではない生きた辻堂が自白したことですよ」  とっさの場合、判断をくだす暇もなく、平田氏はただあっけにとられて、青年の顔とその電報とを見くらべるばかりであった。 「実は僕はこんな事を探して歩いている男なんですよ。この世の中の隅々から、何か秘密な出来事、奇怪な事件を見つけ出しては、それを解いて行くのが僕の道楽なんです」  青年はニコニコしながら、さも無造作に説明するのだった。 「先日あなたからあの怪談をうけたまわった時も、その僕のくせで、これには何かからくりがありやしないかと考えてみたんです。お見受けするところ、あなたは御自分で幽霊を作り出すような、そんな弱い神経の持ち主でないように思われます。それに、ご当人はお気づきがないかもしれませんが、幽霊の現われる場所がどうやら制限されているではありませんか。なるほど、御旅行先などへついてくるところを見ると、いかにもどこへでも自由自在に現われるように思われますが、よく考えてみますと、それがほとんど屋外に限られていることに気づきます。たとえ屋内の場合があっても、劇場の廊下だとか、ビルディングの中だとか、誰でも出入りできる場所に限られています。ほんとうの幽霊なら何も不自由らしくそとばかりに姿を現わさないだって、あなたのお屋敷へ出たってよさそうなものではありませんか。ところがお屋敷へはというと、例の写真と電話のほかは、これも誰でも出入りできる門のそばでちょっと顔を見せたばかりです。そういうことは少し幽霊の自然に反していやしないでしょうか。そこで、僕はいろいろ考えてみたのですよ。ちょっと面倒な点があって時間をとりましたが、でもとうとう幽霊をいけどってしまいました」  平田氏はそう聞いても、どうも信じられなかった。彼も一度はもしや辻堂が生きているのではないかと疑って、戸籍謄本までとり寄せたのだ。そして失望したのだ。いったいこの青年はどういう方法でこんなにやすやすと幽霊の正体をつきとめることができたのであろう。 「なあに、実に簡単なからくりなんです。それがちょっとわからなかったのは、あまり手段が簡単すぎたためかもしれませんよ。でも、あのまことしやかな葬式には、あなたでなくともごまかされそうですね。翻訳物の探偵小説ではあるまいし、まさか東京のまん中でそんなお芝居が演じられようとは、ちょっと想像できませんからね。それから辻堂が辛抱強く息子との往来を絶っていたこと、これが非常に重大な点です。他の犯罪の場合でもそうですが、相手をごまかす秘訣は、自分の感情を押し殺して、世間普通の人情とはまるで反対のやり方をすることです。人間というやつは兎角わが身に引き比べて人の心をおしはかるもので、その結果一度誤まった判断をくだすとなかなか間ちがいに気がつかぬものですよ。又幽霊を現わす手順もうまく行っていました。先日あなたもおっしゃった通り、ああしてこちらの行く先、行く先へついてこられては、誰だって気味がわるくなりますよ。そこへもってきて戸籍謄本です。道具立てがよく揃っていたじゃありませんか」 「それです。もし辻堂が生きているとすれば、どうしても腑に落ちないのは、第一はあの変な写真ですが、しかしこれはまあ私の見誤まりだったとしても、今おっしゃった行く先を知っていること、それから、戸籍謄本です。まさか戸籍謄本に間ちがいがあろうとも考えられないではありませんか」  いつの間にか青年の話につり込まれた平田氏は、思わずこうたずねるのであった。 「僕もおもにその三つの点を考えたのですよ。これらの不合理らしく見える事実を合理化する方法がないものかということをね。そして、結局、このまるでちがった三つの事柄に或る共通点のあることを発見しました。なあにくだらないことですがね。でもこの事件を解決する上には非常に大切なんです。それは、どれも皆郵便物に関係があるということでした。写真は郵送してきたのでしょう。戸籍謄本も同じことです。そして、あなたの外出なさる先は、これもやっぱり日々の御文通に関係があるではありませんか。ハハハハ、おわかりになったようですね。辻堂はあなたのご近所の郵便局の配達夫を勤めていたのですよ。むろん変装はしていたでしょうが。よく今までわからないでいたものです。お宅へくる郵便物もお宅から出る郵便物も、すっかり彼は見ていたに違いありません。わけはないのです。封じ目を蒸気に当てれば、少しもあとの残らないように開封できるのですから、写真や謄本はこういうふうにして彼が細工したものですよ。あなたの行く先とても、いろいろな手紙を見ていれば自然わかるわけですから、郵便局の非番の日なり、口実をかまえて欠勤してなり、あなたの行く先へ先廻りして幽霊を勤めていたのでしょう」 「しかし写真の方は少し苦心をすればまあできぬこともありますまいが、戸籍謄本なんかがそんなに急に偽造できるでしょうか」 「偽造ではないのです。ただちょっと戸籍吏の筆蹟をまねて書き加わえさえすればいいのですよ。謄本の紙では書いてあるやつを消しとることはむずかしいでしょうけれど、書き加わえるのはわけはありません。万遺漏のないお役所の書類にもちょいちょい抜け目があるものですね。変な言い方ですが、戸籍謄本には人が生きていることを証明する力はないのです。戸主ではだめですが、その他の者だったら、ただ名前の上に朱を引き上欄に死亡届を受け付けたことを記入さえすれば、生きているものでも死んだことになるのですからね。誰にしたって、お役所の書類といえば、もうめくら滅法に信用してしまうくせがついていますからね。僕はあの日にあなたからうかがった辻堂の本籍地へ、もう一通戸籍謄本を送ってくれるように手紙を出しました。そして送ってきたのを見ますと、僕の思った通りでした。これですよ」  青年はそういってふところから一通の戸籍謄本を取り出すと、平田氏の前にさし置いた。そこには、戸主の欄には辻堂の息子が、そして次の欄には|当《とう》の辻堂の名前がしるされていた。彼は死亡を装う前に既に隠居していたのだ。見ると、名前の上に朱線も引かれていなければ、上欄には隠居届を受け付けたむね記載してあるばかりで、死亡の死の字も見えないのであった。  実業家平田氏の交友録に、素人探偵明智小五郎の名前が書き加わえられたのは、こうしたいきさつからであった。    ㈼     指環 [#折り返して1字下げ] A 失礼ですが、いつかも汽車で御一緒になったようですね。 B これはお見それ申しました。そういえば、私も思い出しましたよ。やっぱりこの線でしたね。 A あの時はとんだ御災難でした。 B いやお言葉で痛み入ります。私もあの時はどうしようかと思いましたよ。 A あなたが、私の隣の席へいらっしゃったのは、あれはK駅を過ぎて間もなくでしたね。あなたは一と袋の蜜柑を、スーツケースと一緒にさげてこられましたね。そしてその蜜柑を私にもすすめてくださいましたっけね……実を申しますとね。私は、あなたを変に馴れ馴れしい方だと思わないではいられませんでしたよ。 B そうでしょう、私はあの日はほんとうにどうかしていましたよ。 A そうこうしているうちに、隣の一等車の方から、興奮した人たちがドヤドヤとはいって来ましたね。そして、そのうち一人の貴婦人が一緒にやって来た車掌に、あなたの方を指さして何かささやきましたね。 B あなたはよく覚えていらっしゃる、車掌に「ちょっと君、失敬ですが」と言われた時には変な気がしましたよ。よく聞いてみると、私はその貴婦人のダイヤの指環を掏ったてんですから、驚きましたね。 A でも、あなたの態度はなかなかお立派でしたよ。「ばかな事を言ってはいけない。そりゃ人違いだろう。なんなら私のからだを調べてみるがいい」なんて、ちょっとあれだけの落ちついたせりふは言えないもんですよ。 B おだてるもんじゃありません。 A 車掌なんてものは、ああしたことに慣れているとみえて、なかなか抜け目なく検査しましたっけね。貴婦人の旦那という男も、うるさくあなたのからだをおもちゃにしたじゃありませんか。でも、あんなに厳重に調べても、とうとう品物は出ませんでしたね。みんなのあやまりようったらありませんでした。ほんとに痛快でした。 B 疑いがはれても、乗客が皆、妙な眼つきで私の方を見るのには閉口しました。 A しかし、不思議ですね。とうとうあの指環は出てこなかったというじゃありませんか。どうも、不思議ですね。 B ………… A ………… B ハハハハハ。おい、いい加減にしらばくれっこはよそうじゃねえか。この通り誰も聞いているものはいやしねえ。いつまでも、左様然らばでもあるめえじゃねえか。 A フン、ではやっぱりそうだったのかね。 B おめえもなかなか隅へは置けないよ。あの時、おれがソッと窓から投げ出した蜜柑のことを一と言も言わないで、見当をつけておいて、後から拾いに出掛けるなんざあ、どうして、玄人だよ。 A なるほど、おれはずいぶんすばしっこく立ちまわったつもりだ。それが、ちゃんとおめえに先手を打たれているんだからかなわねえ。おれが拾ったのはただの腐れ蜜柑が五つよ。 B おれが窓から投げたのも五つだったぜ。 A ばか言いねえ。あの五つはみな無傷だった。指環を抜き取った跡なんかありゃしなかったぜ。曰くつきのやつぁ、ちゃんとおめえが先きまわりをして、拾っちまったんだろう。 B ハハハハハ。あに計らんや、そうじゃねえんだからお笑い草だ。 A おや、これはおかしい。じゃあ、なんのためにあの蜜柑を窓からほうり出したんだね。 B まあ考えても見ねえ。折角命がけで頂戴した品物をよ。たとえ蜜柑の中へ押し込んだとしてもよ。誰に拾われるかわかりもしねえ線路のわきなぞへほうられるものかね。おめえがノコノコ拾いに行くまで元の所に落ちていたなぞは、飛んだ不思議というもんだ。 A それじゃあ、やっぱり、蜜柑をほうったわけがわからないじゃないか。 B まあ聞きねえ、こういうわけだ。あの時は少々どじを踏んでね、亭主野郎に勘ぐられてしまったもんだから、こいつはヤバいと大慌てに慌てて逃げ出したんだ。どうする暇もありゃしねえ。だが、おめえの隣の席まで来て様子を見ると、急に追っかけてくるようでもねえ。さては車掌に知らせているんだな、こいつはいよいよ油断がならねえと気が気じゃないんだが、さて一|件《けん》|物《もの》をどう始末したらいいのか、とっさの場合で日頃の智恵も出ねえ。恥かしい話だが、ただもうフラフラしちまってね。 A なるほど。 B すると、フッとうまい事を考えついたんだ。というのが、例の蜜柑の一件さ。よもやおめえが、あれを見てだまっていようとあ思わなかったんだ。きっと手柄顔に吹聴するに違いない。そうしておれが蜜柑の袋を投げたとわかりゃ、皆の頭がそっちへ向こうというもんじゃねえか。蜜柑の中へ品物をしのばせておいて後から拾いに行くなんざあ古い手だからね。誰だって感づかあね。そうなるてえと、たとえ調べるにしてからが、この男はもう品物を持っちゃいねえという頭で調べるんだから、自然おろそかにもなろうてもんだ。ね、わかったかね。 A なるほど、考えやがったな。こいつあ一杯喰わされたね。 B ところが、おめえが知っていながら、なんとも言い出さねえ。今に言うか今に言うかと待ち構えていても、ウンとも、スンとも口を利かねえ。とうとう身体検査の段取りになっても、まだだまっていやあがる。おらあ「さては」と思ったね。「こいつは飛んだ食わせものだぞ。このままソッとしておいて、後から拾いに行こうと思っていやがる」とね。あの場合だが、おらあおかしくなったね。 A フフン、ざまあねえ……だが待ちねえ。するってえと、おめえはあれをいったいどこへ隠したんだね。車掌のやつ、ずいぶん際どいところまで調べやがった。口の中から耳の穴まで隈なく検べたが、でも、とうとう見つからなかったじゃないか。 B おめえもずいぶんお目出てえ野郎だな。 A はてね。こいつは|面《めん》|妖《よう》だね。こうなるてえとおらあどうも聞かずにゃおかれねえ。そうもったいぶらねえで、後学のために御伝授にあずかりたいもんだね。 B ハハハハハ、まあいいよ。 A よかあねえ、そうじらすもんじゃねえやな。おれにゃどうもほんとうとは受け取れねえからな。 B 嘘だと思われちゃ癪だから、じゃあ話すがね。怒っちゃいけないよ。実はね、おめえが腰に下げていた煙草入れの底へソッとしのばせておいたのさ。それにしても、あん時おめえのからだはまるで隙だらけだったぜ。ハハハハハ。え、いつ、その指環を取り戻したかって。いうまでもねえ、おめえが、早く蜜柑を拾いに行こうと、大慌てで開札口を出る時によ。 [#ここで字下げ終わり]     日記帳  ちょうど初七日の夜のことでした。私は死んだ弟の書斎にはいって、何かと彼の書き残したものなどを取り出しては、ひとり物思いにふけっていました。  まだ、さして夜もふけていないのに、家じゅうは涙にしめって、しんと鎮まりかえっています。そこへもってきて、なんだか新派のお芝居めいていますけれど、遠くの方からは、物売りの呼び声などが、さも悲しげな調子で響いてくるのです。私は長いあいだ忘れていた、幼いころの、しみじみした気持になって、ふと、そこにあった弟の日記帳を繰りひろげてみました。  この日記帳を見るにつけても、私は、おそらく恋も知らないでこの世を去った、はたちの弟をあわれに思わないではいられません。  内気者で、友だちも少なかった弟は、自然書斎に引きこもっている時間が多いのでした。細いペンでこくめいに書かれた日記帳からだけでも、そうした彼の性質は充分うかがうことができます。そこには、人生に対する疑いだとか、信仰に関する煩悶だとか、彼の年頃にはだれでもが経験するところの、いわゆる青春の悩みについて、幼稚ではありますけれど、いかにも真摯な文章が書き綴ってあるのです。  私は自分自身の過去の姿を眺めるような心持で、一枚一枚とページをはぐって行きました。それらのページにはいたるところに、そこに書かれた文章の奥から、あの弟の鳩のような臆病らしい眼が、じっと私の方を見つめているのです。  そうして、三月九日のところまで読んで行った時に、感慨に沈んでいた私が、思わず軽い叫び声を発したほども、私の目をひいたものがありました。それは、純潔なその日記の文章の中に、はじめてポッツリと、はなやかな女の名前が現われたのです。そして「発信欄」と印刷した場所に「北川雪枝(葉書)」と書かれた、その雪枝さんは、私もよく知っている、私たちとは遠縁に当たる家の、若い美しい娘だったのです。  それでは、弟は雪枝さんを恋していたのかもしれない。私はふとそんな気がしました。そこで私は、一種の淡い戦慄を覚えながら、なおもその先を、ひもといてみましたけれど、私の意気込んだ予期に反して、日記の本文には、少しも雪枝さんは現われてこないのでした。ただ、その翌日の受信欄に「北川雪枝(葉書)」とあるのを初めに、数日のあいだをおいては、受信欄と発信欄の双方に雪枝さんの名前がしるされているばかりなのです。そして、それも発信の方は三月九日から五月二十一日まで、受信の方も同じ時分にはじまって五月十七日まで、両方とも三月に足らぬ短かい期間つづいているだけで、それ以後には、弟の病状が進んで筆をとることもできなくなった十月なかばにいたるまで、その彼の絶筆ともいうべき最後のページにすら、一度も雪枝さんの名前は出ていないのでした。  かぞえてみれば、彼の方からは八回、雪枝さんの方からは十回の文通があったにすぎず、しかも彼のにも雪枝さんのにも、ことごとく「葉書」としるしてあるのを見ると、それには他聞をはばかるような種類の文言がしるしてあったとも考えられません。そして、また日記帳の全体の調子から察するのに、実際はそれ以上の事実があったのを、彼がわざと書かないでおいたものとも思われぬのです。  私は安心とも失望ともつかぬ感じで、日記帳をとじました。そして、弟はやっぱり恋を知らずに死んだのかと、さびしい気持になったことでした。  やがて、ふと眼を上げて、机の上を見た私は、そこに、弟の遺愛の、小型の手文庫のおかれているのに気づきました。彼が生前、一ばん大切な品々を納めておいたらしい、その高まき絵の古風な手文庫の中には、あるいはこの私のさびしい心持をいやしてくれる何物かが隠されていはしないか。そんな好奇心から、私はなにげなくその手文庫をひらいてみました。  すると、その中には、このお話に関係のないさまざまの書類などが入れられてありましたが、その一ばん底の方から、ああ、やっぱりそうだったのか。いかにも大事そうに白紙に包んだ十一枚の絵葉書が、雪枝さんからの絵葉書が出てきたのです。恋人から送られたものでなくて、だれがこんなに大事そうに手文庫の底へひめてなぞおきましょう。  私は、にわかに胸騒ぎをおぼえながら、その十一枚の絵葉書を、次から次へと調べて行きました。ある感動のために葉書を持った私の手は、不自然にふるえてさえいました。  だが、どうしたことでしょう。それらの葉書には、どの文面からも、あるいはまたその文面のどの行間からさえも、恋文らしい感じはいささかも発見することができないのです。  それでは、弟は、彼の臆病な気質から、心の中を打ち明けることさえようしないで、ただ恋しい人から送られた、なんの意味もないこの数通の絵葉書を、お守りかなんぞのように大切に保存して、可哀そうに、それをせめてもの心やりにしていたのでしょうか。そして、とうとう、報いられぬ思いを抱いたままこの世を去ってしまったのでしょうか。  私は雪枝さんからの絵葉書を前にして、それからそれへと、さまざまの思いにふけるのでした。しかし、これはどういうわけなのでしょう。やがて私は、その事に気づきました。弟の日記には雪枝さんからの受信は十回きりしかしるされていないのに、今ここには十一通の絵葉書があるではありませんか。最後のは五月二十五日の日付けになっています。確かその日の日記には、受信欄に雪枝さんの名前はなかったようです。そこで、私は再び日記帳をとり上げて、その五月二十五日のところをひらいて見ないではいられませんでした。  すると、私は大変な見落としをしていたことに気づきました。いかにもその日の受信欄は空白のまま残されていましたけれど、本文の中に、次のような文句が書いてあったではありませんか。 「最後の通信に対してYより絵葉書きたる。失望。おれはあんまり臆病すぎた。今になってはもう取り返しがつかぬ。ああ」  Yというのは雪枝さんのイニシアルに違いありません。ほかに同じ頭字の知り人はないはずです。しかし、この文句はいったい何を意味するのでしょう。日記によれば、彼は雪枝さんのところへ葉書を書いているばかりです。まさか葉書に恋文をしたためるはずもありません。では、この日記には書いてない封書を(それがいわゆる最後の通信かもしれません)送ったことでもあるのでしょうか。そして、それに対する返事として、この無意味な絵葉書が返ってきたとでもいうのでしょうか。なるほど、以来彼からも雪枝さんからも文通を絶っているのを見ると、そうのようにも考えられます。  でも、それにしては、この雪枝さんからの最後の葉書の文面は、たとえ拒絶の意味を含ませたものとしても、あまりに変です。なぜといって、そこには、(もうその時分から弟は病床にいたのです)病気見舞の文句が、美しい手蹟で書かれているだけなのですから。そして、またこんなにこくめいに発信受信をしるしていた弟が、八通の葉書のほかに封書を送ったものとすれば、それをしるしていないはずはありません。では、この失望うんぬんの文句は一体なにを意味するのでしょうか。そんなふうにいろいろ考えてみますと、そこには、どうも辻つまの合わぬところが、表面に現われている事実だけでは解釈のできない秘密が、あるように思われます。  これは、亡弟が残して行った一つのナゾとして、そっとそのままにしておくべき事柄だったかもしれません。しかし、なんの因果か私には、少しでも疑わしい事実にぶっつかると、まるで探偵が犯罪のあとを調べまわるように、あくまでその真相をつきとめないではいられない性質がありました。しかも、この場合は、そのなぞが本人によっては永久に解かれる機会がないという事情があったばかりでなく、その事の実否は私自身の身の上にもある大きな関係を持っていたものですから、持ち前の探偵癖が一層の力強さをもって私をとらえたのです。  私はもう、弟の死をいたむことなぞ忘れてしまったかのように、そのなぞを解くのに夢中になりました。日記も繰り返し読んでみました。その他の弟の書きものなぞも、残らず探し出して調べました。しかし、そこには、恋の記録らしいものは、何一つ発見することができないのです。考えてみれば、弟は非常なはにかみ屋だった上に、この上もなく用心深いたちでしたから、いくら探したとて、そういうものが残っているはずもないのでした。  でも、私は夜のふけるのも忘れて、このどう考えても解けそうにない謎を解くことに没頭していました。長い時間でした。  やがて、種々さまざまなむだな骨折りの末、ふと私は、弟の葉書を出した日付けに不審を抱きました。日記の記録によれば、それは次のような順序なのです。  三月……九日、十二日、十五日、二十二日、  四月……五日、二十五日、  五月……十五日、二十一日、  この日付けは、恋をするものの心理に反してはいないでしょうか。たとえ恋文でなくとも、恋する人への文通が、あとになるほど、うとましくなっているのは、どうやら変ではありますまいか。これを雪枝さんからの葉書の日付けと対照してみますと、なお更その変なことが目立ちます。  三月……十日、十三日、十七日、二十三日、  四月……六日、十四日、十八日、二十六日、  五月……三日、十七日、二十五日、  これを見ると、雪枝さんは弟の葉書に対して(それらは皆なんの意味もない文面ではありましたけれど)それぞれ返事を出しているほかに、四月十四日、十八日、五月の三日と、少なくともこの三回だけは、彼女の方から積極的に文通しているのですが、もし弟が彼女を恋していたとすれば、なぜこの三回の文通に対して答えることを怠っていたのでしょう。それは、あの日記帳の文句と考え合わせて、あまりに不自然ではないでしょうか。日記によれば、当時弟は旅行をしていたのでもなければ、あるいは又、筆もとれぬほどの病気をやっていたわけでもないのです。それからもう一つは、雪枝さんの、無意味な文面だとはいえ、この頻繁な文通は、相手が若い男であるだけに、おかしく考えれば考えられぬこともありません。それが、双方とも言い合わせたように、五月二十五日以後はふっつりと文通しなくなっているのは、一体どうしたわけなのでしょう。  そう考えて、弟の葉書を出した日付けを見ますと、そこに何か意味がありそうに思われます。もしや彼は暗号の恋文を書いたのではないでしょうか。そして、この葉書の日付けがその暗号文を形造っているのではありますまいか。これは、弟の秘密を好む性質だったことから推して、まんざらあり得ないことではないのです。  そこで、私は日付けの数字が「いろは」か「アイウエオ」か「ABC」か、いずれかの文字の順序を示すものではないかといちいち試みてみました。幸か不幸か私は暗号解読についていくらか経験があったのです。  すると、どうでしょう。三月の九日はアルファベットの第九番目のI、同じく十二日は第十二番目のL、そういうふうにあてはめて行きますと、この八つの日付けは、なんと、I LOVE YOU と解くことができるではありませんか。ああ、なんという子供らしい、同時に、世にも辛抱強い恋文だったのでしょう。彼はこの「私はあなたを愛する」というたった一とことを伝えるために、たっぷり三カ月の日子を費やしたのです。ほんとうにうそのような話です。でも、弟の異様な性癖を熟知していた私には、これが偶然の符号だなどとは、どうにも考えられないのでした。  かように推察すれば一切が明白になります。「失望」という意味もわかります。彼が最後のUの字に当たる葉書を出したのに対して、雪枝さんは相変わらず無意味な絵葉書をむくいたのです。しかも、それはちょうど、弟が医者からあのいまわしい病気を宣告せられた時分なのでした。可哀そうな彼は、この二重の痛手にもはや再び恋文を書く気になれなかったのでしょう。そして、だれにも打ち明けなかった。|当《とう》の恋人にさえ、打ち明けはしたけれど、その意志の通じなかった切ない思いを抱いて、死んで行ったのです。  私は言い知れぬ暗い気持に襲われて、じっとそこに坐ったまま、立ちあがろうともしませんでした。そして、前にあった雪枝さんからの絵葉書を、弟が手文庫の底深くひめていたそれらの絵葉書を、なんの故ともなくボンヤリ見つめていました。  すると、おお、これはまあなんという意外な事実でしょう。ろくでもない好奇心よ、呪われてあれ。私はいっそすべてを知らないでいた方が、どれほどよかったことか、この雪枝さんからの絵葉書の表には、綺麗な文字で弟の宛名が書かれたわきに、一つの例外もなく、切手がななめにはってあるではありませんか。わざとでなければできないように、キチンと行儀よく、ななめにはってあるではありませんか。それは決して偶然の粗相なぞではないのです。  私はずっと以前、多分小学時代だったと思います。ある文学雑誌に切手のはり方によって秘密通信をする方法が書いてあったのを、もうその頃から好奇心の強い男だったとみえて、よく覚えていました。中にも、恋を現わすには切手をななめにはればよいというところは、実は一度応用してみたことがあるほどで、決して忘れません。この方法は当時の青年男女の人気に投じて、ずいぶん流行したものです。しかしそんな古い時代の流行を、今の若い女が知っていようはずはありませんが、ちょうど雪枝さんと弟との文通が行なわれた時分に、宇野浩二の「ふたりの青木愛三郎」という小説が出て、その中にこの方法がくわしく書いてあったのです。当時私たちのあいだに話題になったほどですから、弟も雪枝さんも、それをよく知っていたはずです。  では、弟はその方法を知っていながら、雪枝さんが|三《み》|月《つき》も同じことを繰り返して、ついには失望してしまうまでも、彼女の心持を悟ることができなかったのはどういうわけなのでしょう。その点は私にもわかりません。あるいは忘れてしまっていたのかもしれません。それともまた、切手のはり方などには気づかないほど、のぼせきっていたのかもしれません。いずれにしても、「失望」などと書いているからは、彼がそれに気づいていなかったことは確かです。  それにしても、今の世にかくも古風な恋があるものでしょうか。もし私の推察が誤らぬとすれば、彼らはお互に恋しあっていながら、その恋を訴えあってさえいながら、しかし双方とも少しも相手の心を知らずに、ひとりは痛手を負うたままこの世を去り、ひとりは悲しい失恋の思いを抱いて長い生涯を暮らさねばならぬとは。  それはあまりにも臆病過ぎた恋でした。雪枝さんはうら若い女のことですから、まだ無理のない点もありますけれど、弟の手段にいたっては、臆病というよりはむしろ卑怯に近いものでした。さればといって、私はなき弟のやり方を少しだって責める気はありません。それどころか、私は、彼のこの一種異様な性癖を、世にもいとしく思うのです。  生れつき非常なはにかみ屋で、臆病者で、それでいてかなり自尊心の強かった彼は、恋する場合にも、先ず拒絶された時の恥かしさを想像したに違いありません。それは、弟のような気質の男にとっては、常人には到底考えも及ばぬほどひどい苦痛なのです。彼の兄である私には、それがよくわかります。  彼はこの拒絶の恥を予防するために、どれほど苦心したことでしょう。恋を打ち明けないではいられない。しかし、もし打ち明けて拒まれたら、その恥かしさ、気まずさ、それは相手がこの世に生きながらえているあいだ、いつまでもいつまでもつづくのです。なんとかして、もし拒まれた場合には、あれは恋文ではなかったのだと言い抜けるような方法がないものだろうか。彼はそう考えたに違いありません。  その昔、大宮人は、どちらにでも意味のとれるような「恋歌」という巧みな方法によって、あからさまな拒絶の苦痛をやわらげようとしました。弟の場合はちょうどそれなのです。ただ、彼のは日頃愛読する探偵小説から思いついた暗号通信によって、その目的を果たそうとしたのですが、それが、不幸にも、彼のあまり深い用心のために、あのような難解なものになってしまったのです。  それにしても、彼は自分自身の暗号を考え出した綿密さにも似あわないで、相手の暗号を解くのに、どうしてこうも鈍感だったのでしょう。自ぼれ過ぎたために飛んだ失敗を演じる例は、世に|間《ま》|々《ま》あることですけれど、これはまた自ぼれのなさ過ぎたための悲劇です。なんという本意ないことでしょう。  ああ、私は弟の日記帳をひもといたばかりに、とり返しのつかぬ事実に触れてしまったのです。私はその時の心持をどんな言葉で形容しましょう。それが、ただ若いふたりの気の毒な失敗をいたむばかりであったなら、まだしもよかったのです。しかし、私にはもう一つの、もっと利己的な感情がありました。そして、その感情が私の心を狂うばかりにかき乱したのです。  私は熱した頭を冬の夜の凍った風にあてるために、そこにあった庭下駄をつっかけて、フラフラと庭へおりました。そして乱れた心そのままに、木立ちのあいだを、グルグルと果てしもなく廻り歩くのでした。  弟の死ぬ二カ月ばかり前に取りきめられた、私と雪枝さんとの、とり返しのつかぬ婚約のことを考えながら。     接吻      一  近頃は有頂天の山名宗三であった。なんとも言えぬ暖かい、柔かい、薔薇色の、そして薫りのいい空気が彼の身辺を包んでいた。それが、お役所のボロ机に向かって、コツコツと仕事をしている時にでも、さては同じ机の上でアルミの弁当箱から四角い飯を食っている時にでも、四時がくるのを遅しと、役所の門を飛び出して、柳の街路樹の下を、木枯のようにテクついている時にでも、いつも彼の身辺にフワフワと漂っているのであった。  というのは、山名宗三、この一と月ばかり前に新妻を迎えたので、しかも、それが彼の恋女房だったので。  さて或る日のこと、例の四時を合図に、まるで授業のすんだ小学生のように帰り急ぎをして、課長の村山が、まだ机の上をゴテゴテと取り片づけているのを尻目にかけて、役所を駈け出すと、彼は真一文字に自宅へと急ぐのであった。  大丸まげのお花は、例の長火鉢にもたれて、チャンと用意のできたお膳の前に、クツクツ笑いながら(なんてお花はよく笑う女だ)ポッツリと坐っていることであろう。玄関の格子があいたら、兎のように飛び出す用意をしながら、今か今かとおれの帰りを待っていることであろう。テヘヘ、なんてまあ可愛いやつだろう。そんなふうにはっきり考えたわけではないが、山名宗三の|道《みち》|々《みち》の心持を図解すると、まあこういったものであった。 「きょうは一つ、やっこさん、おどかしてやるかな」  自宅の門前に近づくと、宗三はニヤニヤ独り笑いを浮かべながら考えた。そこで、抜き足差し足、ソロリソロリと格子戸をあけて、玄関の障子をあけて、靴をぬぐのも音のせぬように注意しながら、いきなり茶の間の前まで忍び込んだ。 「ここいらで、エヘンと咳ばらいでもするかな。いや待て待て。やつ独りでいる時にはどんな恰好をしているか、ちょっとすき見をしてやれ」  で障子の破れから茶の間の中を覗いてみると、さあ大変、山名宗三、青くなって硬直した。というのは、そこに、いとも不思議な光景が演じられていたからで。      二  想像どおり、お花はチャンと長火鉢の前に坐っている。布巾をかけたお膳も出ている。が、肝心のお花は決してクツクツ笑ってはいないのだ。それどころか、世にもまじめな様子で、泣いているのではないかと思うほどの緊張ぶりで、一枚の写真を持って、接吻したり、抱きしめたり、それはそれは見ちゃいられないのであった。  さてはと、山名宗三、ギクリと思い当たるところがあったので、もう胸は早鐘をつくようだ。ソッと二、三畳あと帰りをすると、今度はドシドシと畳ざわりも荒々しく、ガラリとあいだの障子を引きあけて、 「オイ、今帰った」  なぜ出迎えないのだと言わぬばかりに、そこの長火鉢の向こうがわへドッカリ坐ったことである。 「アラッ」  一と声叫ぶやいなや、手に持っていた写真をいきなり帯のあいだへ隠すと、お花は、赤くなったり、青くなったり、へどもどしながら、でも、やっと気を沈めて、 「まあ、私、ちっとも存じませんで、ご免なさいまし」  そのいやにしとやかな口のきき方からして、食わせものだ。宗三、そう思った。それに、あの写真を隠したところを見ると、テッキリそうときまった。障子をあけるまでは、もしや自分の写真ではあるまいかと、一方では大いに自惚れてもいたのだが、写真を隠して青くなった様子では、むろん自分のではない。きっと、きゃつの写真に違いない。あの課長の村山|面《づら》の。  と、宗三が疑念を|抱《いだ》くには、抱くだけの理由があった。  新妻のお花は課長村山の遠縁の者で、長らく彼の家に寄寓していたのを、縁あって宗三が貰い受けたのだ。媒酌はいうまでもなく課長さんである。課長さんといっても年配は宗三とさして違わぬ年若だし、奥さんはあっても、評判の不器量もの、疑い出せば、何がなんだか知れたものではないのである。宗三、ていよくお下がり頂戴に及んだのか、それも今となっては怪しいものなのである。  それに、もう一つおかしいのは、お花のやつ、しげしげと村山家をおとずれる一件だ。まだ一と月にしかならぬに、宗三が知っているだけでも、四、五へんは行っている。時には夜に入って帰ったこともあるくらいだ。  いろいろと考えるに従って、もうもう癪で癪で、宗三は胸がはち切れそうだ。彼がまた大のやきもち焼きときているので。が、まずさあらぬていで夕食をすませると、いつものように戯談口をきき合うでもなく、そうかといって、写真の正体をきわめぬあいだは、書斎にとじこもるわけにもいかず、双方妙に気まずく睨み合いといった形。 「それはいったい誰の写真だ」  と、たびたび喉まで込み上げてくるのを、やっと噛み殺して宗三はじっとお花の挙動を監視している。やきもち焼きだけに、なかなか陰険な方で、彼のつもりでは、床へつく時にはきっとあの写真をどこかへしまうだろう。それを見きわめておいて、あとから探し出してやろうという気だ。      三  やがて、お花はだんまりで立ちあがると、こそこそと、どこかへ出て行った。はばかりとは方角が違う。どうやら納戸らしい。宗三自身は見る影もない腰弁だけれど、家だけは、おやじが御家人だったので、古いが手広な納戸なんていうものもある。じゃあタンスへでもしまうつもりかな、タンスといっても、幾つもあるから後になってはわからない。ともかく、お花の跡をつけてみるにしくはない。で宗三、そっと立ちあがると、女房のあとから、影のようについて行った。  案のじょう納戸だ。今はいったばかりのところで、まだタンスの錠前をガチャガチャいわせている。いったい、どのタンスの、どの引出しへしまうのかと、幸いの障子の破れに眼を当てて、そっと覗いて見ると、何しろ二た間兼用の五燭の電灯だから、それに障子の穴がやっと片目だけの大きさなので、見当をつけるのが、なかなか骨だったが、でも、ともかく入口から言って、正面のタンスの上の、小引出しの左の端ということだけはわかった。お花のうしろ姿は、そこへ一物を投げ込むと、ピシャンとしめて、大急ぎでこちらへやってきそうな様子。  見られては一大事と、宗三、元の茶の間へ逃げ帰ると、敷島を一本、つけるが早いか口へ持って行って、スパリスパリととりすました。  それからご両人睨み合いよろしくあって、だが、そうしていても際限がないので、どちらが口を切るともなく、砂をかむような世間話を二た口三口取りかわしているうちに、やがて九時だ。宗三、思惑があるのでいつもより少し早いのだが、いそいで床にはいった。  さて、その真夜中、お花の寝息をうかがって、これなら大丈夫と思ったか、宗三むっくり起き上がって、寝巻きの前をかき合わせると、ソロリソロリと寝間のそとへ忍び出した。行く先はいうまでもなく納戸だ。やっとたどりついて、宵に見当をつけておいた、正面のタンスの上の一ばん左の小引出し、胸をドキドキさせながらひらいてみると、あった、あった。邪推ではなかった。十数枚の大きいのや小さいのや写真のかさねてある一ばん上に、課長の村山の半身像が、いやにすましてのっかっている。でも念のために、震える手先に力を入れて、その写真を一枚一枚調べてみたが、男のものといっては村山のただ一枚、あとはみんなお花の家庭の写真ばかりだ。もうもう疑う余地はない。そうときまった。うぬ、どうしてくれるか。くやしいのと、寒いので、宗三ガタガタと身を震わせて、はぎしりをかんだ。      四  その翌日、物も言わず、お花の差し出す弁当箱をひったくると、宗三、やけに急いで役所へ出勤したが、同僚の顔を見ても、癪でしようがない。はした月給を貰って、あの課長|面《づら》にペコついているのかと思うと、どいつもこいつも、かたっぱしから、なぐり倒してやりたいような気がする。挨拶もしないで席につくと、ムーッとだまり込んだまま、いやに血走った眼で、まだ出勤しない課長の机を睨みつけた。  やがて、意気な背広の課長さんが、大きな折鞄を小脇にご出勤だ。一同自席から敬礼するのを軽く受けて席につく。鞄がバタンと机の上で鳴る。宗三は、むろん礼なんかしない。焼くような眼で睨んでいるばかりだ。  村山課長、一とわたり机の上の整理がすむと、エヘンと一|咳《がい》して、拍子のわるい、 「山名君、ちょっと」  という仰せだ。宗三はよっぽど返事をしないでいようかと思ったが、まさかそうもならず、しぶしぶ席を立って、課長の机の前まで行った。もっとも「なんか御用で」なんて追従は言わない。ムッツリとしてつっ立っている。だが課長の方では、何も知らないものだから、いつもの通りお叱言がはじまる。 「君、この統計は困るね。肝心の平均率が出ていないじゃないか。え、君」  見るとなるほど、こちらの手落ちだ。普通なら一言もなく引き下がるところだが、きょうはそうはいかない。虫の居どころが違う。返事もしないで、グッと相手を睨みつけている。 「君はこの統計をなんだと思っているのだ。ご丁寧に総計を並べたりして、そんなものはいらないのだ。平均率が必要なんだ。そのくらいのことわかりそうなものだね」 「そうですかっ」  宗三、いきなりびっくりするような大声でどなると、サッと書類を引ったくって、そのまま自席へ戻ってきた。これから、みっしり、閑つぶしの御説法をはじめるつもりの課長さん、眼をぱちくり。  さて、自席に戻ると、宗三、なんだか一所懸命書き出した。殊勝にも統計を訂正するのかとみると、決してそうでない。白紙一枚ひろげると、筆太に先ず書いたのが、「辞職願」      五  面喰った課長の前に、小学生のお清書のような大文字の辞表を投げつけて、ぐっと溜飲を下げた宗三は、まだ午前十一時というに、大手を振って帰ってきた。 「お花、ちょっとここへおいで」  例の長火鉢の前へ、ドッカリと坐ると、さて、これから一と談判だ。ゆうべのことがあるのでお花はもうビクビクもの。 「あら、お帰りなさいまし。どっかお加減でも……」 「いや、からだに別状ない。僕はきょうから役所をよす。そのつもりでいてくれ。それから、役所をよしたわけはあの村山と衝突したからだ。今日以後村山家へ出入りすることはふっつりやめてもらいたい。これは断じて守ってくれないと困る」 「まあ……」  といったが二の句がつけない。 「あ、それから」と、なにげなく、「お前は村山の写真を持っているはずだね。あれをちょっとここへ持っておいで」  |夫《おっと》の剣幕がひどいので拒むわけにもいかぬ。お花はしぶしぶ例の写真を持ってくる。宗三は、それをお花の目の前で、さも憎々しく、ズタズタに引きさくと、火鉢の中へくべてしまった。そして、やっとこれでせいせいしたという顔つきだ。  こうまでされては、お花とて悟らないわけにはいかぬ。さてはあの一件だなと、どうやら様子がわかった。そこで、ともかくも夫の口からそれを聞いた上のことと、こうなると女というものは手管のあるもので、すねてみたり、泣いてみたり、種々さまざまの手段を尽して、結局隙見の一見を白状させてしまった。  どうだ、これには一言もあるまい。写真をしまったところまで調べ上げてあるのだから、なんといってもこっちに手抜かりはないはずだ。宗三、勝利者の気組みで、ぐっと落ち着いて、お花の様子を眺めている。  するとお花、いきなりワッと泣き伏しでもするかと思いきや、どうしてどうして、宗三があっけに取られたことには、やにわにクツクツと笑い出したのである。 「まあ、何かと思えば、あなた、あんまりですわ。村山さんと私と……ホホホホホ、あなたもずいぶん邪推深いかたね。あの写真、あれは、あれは、あのう、あなたのお写真でしたのよ」  といったかと思うと、お花、いきなり赤くなって、顔を隠すのであった。 「僕の写真だって、ばかな、うまくごまかそうと思ってもそれはだめだ。チャンと納戸へ尾行して、しまうところを睨んでおいたんだからな。あの引出しには村山の写真のほかには、僕の写真はおろか、男のは一枚もありゃしないじゃないか」 「ですから、なお変ですわ。そんなたくさん写真があったなんて。きっとあなたは寝惚けていらしったのよ。あなたのお写真は一枚だけ、大切に引出しの中の手文庫にしまってあるのですもの。いったいあなたのごらんなすったという引出しはどれですの」 「あの正面のタンスの上の、左の端の小引出しさ」 「あら、正面ですって、まあ、おかしい。私がゆうべあなたのお写真をしまったのは左側のタンスでしたのよ。引出しは上の左の端のですけれど。まるでタンスが違いますわ」 「そんなはずはない。やっぱりお前はごまかそうと思っているのだ。僕は小さな障子の穴から覗いたのだから、左側のタンスなぞ、だいいち見える道理がないのだ。なんといっても正面だ。いくらいそいでいたとはいえ、正面と左側と、まるで方向の違うものを間違えるはずはない」 「おかしいですわねえ」 「おかしくはない。お前はてれ隠しに、そんなでたらめを言っているのだ。つまらないまねはいいかげんによさないか」 「だって……」 「だってじゃない。なんといっても僕の目に間違いはない」  妙な押し問答になってきた。夫は部屋の正面の壁に沿って置かれたタンスだと言い、妻は左側面の壁に沿って置かれたそれだと主張する。両人の言い分のあいだには九十度の差異がある。      六 「あ、わかりましたわ」  突然お花が叫んだ。 「あなた、まあこちらへ来てごらんなさいまし。わかりました、わかりました」  無暗に袖を引っぱるので、宗三しようことなしについて行くと、それは納戸だった。 「これ、これ、あなた、これに違いありませんわ」  そこで、お花がそういって、ゆびさしたのは、一個の新らしい洋服ダンス。去年の暮れ、臨時手当に据置貯金の利息を足して買いととのえた新式洋服ダンス。それがいったいどうしたというのであろう。 「おわかりになりまして、ほら、この|扉《とびら》についている鏡ですよ。この扉がひらいていて、ちょうど障子の穴の前にきていたのですよ。ですから、正面のタンスが隠れて、飛んでもない左側のタンスが写ってそれがちょうど正面にあるように見えたのですよ」  なるほど、洋服ダンスの扉の鏡が、障子の穴の前に四十五度の角度でひらいていたとすれば、そこへ映った左側のものが真正面に見えたはずだ。二つのタンスの形もよく似ているので間違うのは無理ではない。殊に薄暗い電灯の光で、しかも大いそぎで見たのだもの。こいつはおれのしくじりかな、宗三はあまりの事にがっかりした。  他人の写真だと早合点したのは飛んだ間違いで、お花が宗三恋しさのあまり、彼宗三の写真に接吻したり抱きしめたりしていたのだとすると、こんなひどい間違いはない。ゾクゾクと嬉しがっているべき場合に、見当違いのかんしゃくを立てて、取り返しのつかぬ辞表まで書いたとは。  さあそこで、主客顛倒である。一挙にして頽勢を挽回したお花は、今度こそほんとうに泣き出した。  お役所をよしてあすからなんとするつもりだ。この不景気にすぐさま口があるではなし、そうかといって、遊んで食える身分でもなし、あなたもあんまり向こう見ずだ。それに、私が村山家へ出入りするといってお怒りなさるけれど、これもみんなあなたに出世させたいばっかりじゃありませんか。誰があんな家へ、進んで行きたいことがあるものですか。人の気も知らないで、といって恨む、怨じる、歎く、それはそれは。  山名宗三、今は一言もない。そればかりか、さしずめこれからの身のふり方に困じ果てた。「すまじきものは嫉妬だなあ」彼はつくづく嘆じたことである。  だが、読者諸君、男というものは、少々陰険に見えても、性根はあくまでお人好しにできているものだ。そして、女というものは、表面何も知らないねんねえのようであっても、心の底には生れつきの陰険が巣くっているものだ。このお花だって、お話の表面に現われただけの女だかどうだか甚だ疑わしいものである。もしも、例の鏡のトリックが彼女の創作であったとしたらどうだ。そして、彼女が接吻し、抱きしめたのは、やっぱり村山課長の写真であったとしたらどうだ。  それはともかく、男である山名宗三は、そこまで邪推をたくましくする陰険さはなかったのである。     モノグラム  私が、私の勤めていたある工場の老守衛(といっても、まだ五十歳には間のある男なのですが、なんとなく老人みたいな感じがするのです)栗原さんと心安くなって間もなく、おそらくこれは栗原さんの取っておきの話の種で、彼は誰にでも、そうした打ち明け話をしてもさしつかえのないあいだがらになると、待ち兼ねたように、それを持ち出すのでありましょうが、私もある晩のこと、守衛室のストーブを囲んで、その栗原さんの妙な経験談を聞かされたのです。  栗原さんは話し上手な上に、なかなか小説家でもあるらしく、この小噺めいた経験談にも、どうやら作為の跡が見えぬではありませんが、それならそれとして、やっぱり捨て難い味があり、そうした種類の打ち明け話としては、私はいまだに忘れることのできないものの一つなのです。栗原さんの話しっぷりをまねて、次にそれを書いてみることにいたしましょうか。  いやはや、落としばなしみたいなお話なんですよ。でも、先にそれを言ってしまっちゃお慰みが薄い、まあ当たり前の、エー、お惚気のつもりで聞いてください。  私が四十の声を聞いて間もなく、四、五年あとのことなんです。いつもお話する通り、私はこれで相当の教育は受けながら、妙に物事に飽きっぽいたちだものですから、何かの職業に就いても、たいてい一年とはもたない。次から次と商売替えをして、とうとうこんなものに落ちぶれてしまったわけなんですが、その時もやっぱり、一つの職業を止して、次の職業をめっけるあいだの、つまり失業時代だったのですね。御承知のようにこの年になって子供はなし、ヒステリーの家内と狭い家に差し向かいじゃやりきれませんや。私はよく浅草公園へ出掛けて、所在のない時間をつぶしたものです。  いますね、あすこには。公園といっても六区の見世物小屋の方でなく、池から南の林になった、共同ベンチのたくさん並んでいる方ですよ。あの風雨にさらされて、ペンキがはげ、白っぽくなったベンチに、又は捨て石や木の株などに、ちょうどそれらにふさわしく、浮世の雨風に責めさいなまれて、気の抜けたような連中が、すき間もなく、こう、思案に暮れたという恰好で腰をかけていますね。自分もそのひとりとして、あの光景を見ていますと、あなたがたにはおわかりにならないでしょうが、まあなんともいえない、物悲しい気持になるものですよ。  ある日のこと、私はそれらのベンチの一つに腰をおろして、いつもの通りぼんやり物思いにふけっていました。ちょうど春なんです。桜はもう過ぎていましたが、池を越して向こうの映画館の方は、大変な人出です。ドーッという物音、楽隊、それにまじっておもちゃの風船玉の笛の音だとか、アイスクリーム屋の呼び声だとかが、かんだかく響いてくるのです。それに引きかえて、私たちのいる林の中は、まるで別世界のように静かで、おそらく映画を見るお金さえ持ち合わせていない、みすぼらしい風体の人々が、飢えたような物憂い眼を見合わせ、いつまでもいつまでも、じっと一つところに腰をおろしている。こんなふうにして罪悪というものが醗酵するのではないかと思われるばかり、実に陰気で、物悲しい光景なのです。  そこは、林の中の、丸くなった空き地で、私たちの腰かけている前を、私たちと無関係な、幸福そうな人々が、絶えず通り抜けています。それが着かざった女なんかだと、それでも、ベンチの落伍者どもの顔が、一斉にその方を見たりなんかするのですね。そうした人通りがちょうど途絶えて、空き地がからっぽになっていた時でした、ですから自然私も注意したわけでしょうが、一方の隅のアーク灯の鉄柱の所へ、ヒョッコリひとりの人物が現われたのです。  三十前後の若者でしたが、風体はさしてみすぼらしいというのではないのに、どことなく淋しげな、少なくとも顔つきだけは決して行楽の人ではなく、私ども落伍者のお仲間らしく見えるのです。彼はベンチのあいたところでも探すようにしばらくそこに立ち止まっていましたが、どこを見ても一杯な上に、彼の風采に比べては、段違いに汚ならしくて、怖ろしい連中ばかりなので、おそらく辟易したのでしょう。あきらめて立ち去りそうにした時、ふと彼の視線と私の視線とがぶつかりました。  すると彼は、やっと安心したように、私の隣の僅かばかりのベンチの空き間を目がけて近づいてくるのです。そうした連中の中では、私の風体は、古ぼけた銘仙かなんか着ていて、おかしな言い方ですが、いくらか立ちまさって見えたでしょうし、決してほかの人たちのように険悪ではなかったのですから、それが彼を安心させたとみえます。それとも、これはあとになって思い当たったことですが、彼は最初から私の顔に気がついていたのかもしれません。いえ、そのわけはじきにお話ししますよ。  どうも私のくせで、お話が長くなっていけませんな。で、その男は私の隣へ腰をかけると、袂から敷島の袋を出して、タバコをすいはじめましたのですが、そうしているうちに、だんだん、変な予感みたいなものが、私を襲ってくるのです。妙だなと思って、気をつけて見ると、男がタバコをふかしながら、横の方から、ジロジロと私を眺めている。その眺め方が決して気まぐれでなく、なんとやら意味ありげなんですね。  相手が病身らしいおとなしそうな男なので、気味がわるいよりは、好奇心の方が勝ち、私はそれとなく彼の挙動に注意しながら、じっとしていました。あの騒がしい浅草公園のまん中にいて、いろいろな物音は確かに聞こえているのですが、不思議にシーンとした感じで、長いあいだそうしていました。相手の男が、今にも何か言い出すかと待ち構える気持だったのです。  すると、やっと男が口を切るのですね、「どっかでお目にかかりましたね」って、おどおどした小さな声です。多少予期していたので、私は別に驚きはしませんでしたが、不思議と思い出せないのですよ。そんな男、まるで知らないのです。 「人違いでしょう。私はどうもお目にかかったように思いませんが」って返事をすると、それでも、相手は|不《ふ》|得《とく》|心《しん》な顔で、又しても、ジロジロと私を眺めだすではありませんか。ひょっとしたら、こいつ何か企らんでるんじゃないかと、さすがに気持がよくはありませんや。 「どこでお会いしました」ってもう一度尋ねたものです。 「さあ、それが私も思い出せないのですよ」男が言うのですね、「おかしい、どうもおかしい」小首をかしげて、「昨今のことではないのです。もうずっと|先《せん》からちょくちょくお目にかかっているように思うのですが、ほんとうに御記憶ありませんか」そういって、かえって私を疑うように、そうかと思うと、変に懐かしそうな様子で、ニコニコしながら私の顔を見るじゃありませんか。 「人違いですよ。そのあなたの御存じのかたはなんとおっしゃるのです。お名前は」って聞きますと、それが変なんです。「私もさいぜんから一所懸命思い出そうとしているのですが、どういうわけか出てきません。でも、お名前を忘れるようなかたじゃないと思うのですが」 「私は栗原一造ていいます」私ですね。 「ああ、さようですか、私は田中三良っていうのです」これが男の名前なんです。  私たちはそうして、浅草公園のまん中で名乗り合いをしたわけですが、妙なことに、私の方はもちろん、相手の男も、その名前にちっとも覚えがないというのです。ばかばかしくなって、私たちは大声を上げて笑い出しました。すると、するとですね、相手の男の、つまり田中三良のその笑い顔が、ふと私の注意を惹いたのです。おかしなことには、私までが、なんだか彼に見覚えがあるような気がしだしたのです。しかも、それがごく親しい旧知にでもめぐり合ったように、妙に懐かしい感じなんですね。  そこで、突然笑いを止めて、もう一度その田中と名乗る男の顔を、つくづくと眺めたわけですが、同時に田中の方でも、ピッタリと笑いを納め、やっぱり笑いごとじゃないといった表情なんです。これがほかの時だったら、それ以上話を進めないで別かれてしまったことでしょうが、今いう失業時代で、退屈で困っていた際ですし、時候はのんびりとした春なんです。それに、見たところ私よりも風体のととのった若い男と話すことは、わるい気持もしないものですから、まあひまつぶしといったあんばいで、変てこな会話をつづけて行きました。こういうぐあいにね。 「妙ですね、お話ししてるうちに、私もなんだかあなたを見たことがあるような気がしてきましたよ」これは私です。 「そうでしょう。やっぱりそうなんだ。しかも道で行き違ったというような、ちょっと顔を合わせたくらいのことじゃありませんよ、確かに」 「そうかもしれませんね。あなたお国はどちらです」 「三重県です。最近はじめてこちらへ出てきまして、今勤め口を探しているようなわけです」  してみると、彼もやっぱり一種の失業者なんですね。 「私は東京の者なんだが、で、御上京なすったのはいつごろなんです」 「まだ一と月ばかりしかたちません」 「そのあいだにどっかでお会いしたのかもしれませんね」 「いえ、そんなきのうきょうのことじゃないのですよ。確かに数年前から、あなたのもっとお若い時分から知ってますよ」 「そう、私もそんな気がする。三重県と……私は一体旅行嫌いで、若い時分から東京を離れたことはほとんどないのですが、殊に三重県なんて上方だということを知っているくらいで、はっきり地理もわきまえない始末ですから、お国で逢ったはずはなし、あなたも東京ははじめてだと言いましたね」 「箱根からこっちは、ほんとうにはじめてなんです。大阪で教育を受けて、これまであちらで働いていたものですから」 「大阪ですか、大阪なら行ったことがある。でも、もう十年も前になるけれど」 「それじゃあ、大阪でもありませんよ。私は七年前まで、つまり中学を出るまで国にいたのですから」  こんなふうにお話しすると、なんだかくどいようですけれど、その時はお互になかなか緊張していて、何年から何年までどこにいて、何年の何月にはどこそこへ旅行したと、細かいことまで思い出し、比べ合ってみても、一つもそれがぶつからない。たまに同じ地方へ旅行しているかと思うと、まるで年代が違ったりするのです。さあそうなると、不思議でしようがないのですね。人違いではないかと言っても相手はこんなによく似た人がふたりいるとは考えられぬと主張しますし、それが一方だけならまだしも、私の方でも、見覚えがあるような気がするのですから、一概に人違いと言い切るわけにも行きません。話せば話すほど、相手が昔なじみのように思え、それにもかかわらず、どこで会ったかはいよいよわからなくなる。あなたにはこんな御経験はありませんか。実際変てこな気持のものですよ。神秘的、そうです。なんだか神秘的な感じなんです。ひまつぶしや、退屈をまぎらすためばかりではなく、そういうふうに疑問が漸増的に高まってくると、執拗にどこまでも調べてみたくなるのが人情でしょうね。が、結局わからないのです。多少あせり気味で、思い出そうとすればするほど、頭が混乱して、ふたりが以前から知合いであることは、わかり過ぎるほどわかっているではないか、なんて思われてきたりするのです。でも、いくら話してみても、要領を得ないので、私たちはまたまた笑い出すほかはないのでした。  しかし要領は得ないながらも、そうして話し込んでいるうちに、お互に好意を感じ、以前はいざ知らず、少なくともその場からは忘れ難いなじみになってしまったわけです。それから田中のおごりで、池のそばの喫茶店に入り、お茶をのみながら、そこでもしばらく私たちの奇縁を語り合ったのち、その日は何事もなく別かれました。そして別かれる時には、お互の住所を知らせ、ちとお遊びにと言いかわすほどのあいだがらになっていたのです。  それが、これっきりですんでしまえば、別段お話するほどの事はないのですが、それから四、五日たって、妙な事がわかったのです。田中と私とは、やっぱりある種のつながりを持っていた事がわかったのです。はじめに言った私のおのろけというのはこれからなんですよ。(栗原さんはここでちょっと笑ってみせるのです)田中の方では、これは当てのある就職運動に忙がしいと見えて、一向訪ねてきませんでしたが、私は例によって時間つぶしに困っていたものですから、ある日、ふと思いついて、彼の泊まっている上野公園裏の下宿屋を訪問したのです。もう夕方で、彼はちょうど外出から帰ったところでしたが、私の顔を見ると、待っていたと言わぬばかりに、いきなり「わかりました、わかりました」と叫ぶのです。 「例のことね。すっかりわかりましたよ。ゆうべです。ゆうべ床の中でね、ハッと気がついたのです。どうもすみません。やっぱり私の思い違いでした。一度もお逢いしたことはないのです。しかし、お逢いはしていないけれど、まんざら御縁がなくはないのですよ。あなたはもしや、北川すみ子という女を御存じじゃないでしょうか」  藪から棒の質問でちょっと驚きましたが、北川すみ子という名を聞くと、遠い遠い昔の、華やかな風が、そよそよと吹いてくるような感じで、数日来の不思議な謎が、いくらかは解けた気がしました。 「知ってます。でも、ずいぶん古いことですよ。十四、五年も前でしょうか、私の学生時代なんですから」  というのは、いつかもお話ししました通り、私は学校にいた時分は、これでなかなか交際家でして、女の友だちなどもいくらかあったのですが、北川すみ子というのはその内のひとりで、特別に私の記憶に残っている女性なのです。××女学校に通よっていましたがね。美しい人で、われわれの仲間の|歌《か》|留《る》|多《た》|会《かい》なんかでは、いつでも第一の人気者、というよりはクイーンですね。美人な代りにはどことなく険があり、こう近寄り難い感じの女でした。 「その女にね(話し手の栗原さんはちょっと言いしぶって、はにかみ笑いをしました)実は私は惚れていたのですよ。しかもそれが、恥かしながら、片思いというわけなんです。そして、私が結婚したのは、やっぱり同じ女学校を出た、仲間では第二流の美人、いや今じゃ美人どころか、手におえないヒステリー患者ですが、当時はまあまあ十人並みだった御承知のお園なんです。手ごろなところで我慢しちまったわけですね。つまり、北川すみ子という女は、私の昔の恋人であり、家内にとっては学校友だちだったのです」  しかしそのすみ子を、三重県人の田中がどうして知っていたのか、又それだからといって、なぜ私の顔を見覚えていたか、どうも腑に落ちないのですね。そこでだんだん聞きただしてみますと、実に意外なことがわかってきました。田中が言うには、ちょうどその前の晩に、寝床の中でハッとある事を思い出したのだそうです。どういうわけで私を見覚えていたかについてですね。で、すっかり疑問が解けてしまったので、早速そのことを私に知らせようと思ったのだけれど、あいにく、その日は(つまり私が彼を訪問した日ですね)就職のことで先約があったために、私の所へ来ることができなかったというのです。  そんな断わりを言ったあとで、田中は机の引出しから一つの品物を取り出して、「これを御存じじゃないでしょうか」というのです。見ると、それはなまめかしい懐中鏡なんですね。大分流行遅れの品ではありましたが、なかなか立派な、若い女の持っていたらしいものでした。私が一向知らないと答えますと、 「でも、これだけは御存じでしょうね」  田中はそういって、なんだか意味ありげに私の顔を眺めながら、その二つ折りの懐中鏡をひらき、|塩《しお》|瀬《ぜ》らしいきれ地にはめ込みになった鏡を、器用に抜き出すと、そのうしろに隠されていた一枚の写真を取り出して、私の前につきつけたものです。それが、驚いたことには、私自身の若い時分の写真だったではありませんか。 「この懐中鏡は私の死んだ姉の形見です。その死んだ姉というのが、いま言った北川すみ子なのですよ。びっくりなさるのは御尤もですが、実はこういうわけなんです」  そこで田中の説明を聞きますと、彼の姉のすみ子は、ある事情のために小さい時分から、東京の北川家に養女になっていて、そこから××女学校にも通よわせてもらったのですが、彼女が女学校を卒業するかしないに、北川家に非常な不幸が起こり、止むを得ず郷里の実家に、つまり田中の家に引き取られて、それからしばらくすると、彼女は結婚もしないうちに病気が出て死んでしまったというのです。私も私の家内も、迂闊にも、そうした出来事を少しも知らないでいたのですね。実に意外な話でした。  で、そのすみ子が残して行った持ち物の中に、一つの小さな手文庫があって、中には女らしくこまごました品物が一杯はいっていたそうですが、それを田中は姉の形見として大切に保存していたわけです。 「此の写真に気がついたのは、姉が死んでから一年以上もたった時分でした」田中が言うのですね。 「こうして懐中鏡の裏に隠してあるのですから、ちょっとわかりません。その時はなんでも、ひまにあかして、手文庫の中の品物を検査していたのですが、この懐中鏡をひねくり廻しているうちに、ヒョッコリ秘密を発見してしまったのです。で、ゆうべ寝床の中でこの写真のことを思い出し、それですっかり疑問が解けたわけでした。なぜといって、私はその後も折りがあるごとにこのあなたの写真を抜き出して、死んだ姉のことを思い浮かべていたのですから、あなたという人は私にとって忘れることのできない、深いおなじみに違いないのです。先日お会いした時には、それを胴忘れして、写真ではなく実物のあなたに見覚えがあるように思い違えたわけなのです。又あなたにしても、」田中はニヤニヤ笑うのですね、「写真までやった女の顔をお忘れになるはずはなく、その女の弟のことですから、私に姉の面影があって、それをやっぱり以前に会ったように誤解なすったのではありますまいか」  聞いてみれば、田中の言う通りに違いないのです。しかし、それにしても腑に落ちないのは、写真はまあ、いろいろな人にやったことがあるのですから、すみ子が持っていても不思議はありませんけれど、それを彼女が懐中鏡の裏に秘めていたという点です。なんだか、彼女と私の立場が反対になったような気がしましてね。だって、片思いの方にこそ、そうした仕草をする理由はありましょうが、すみ子が、私の写真なぞを大切にしている道理がないのですからね。  ところが、田中にしてみますと、私とすみ子とのあいだに何か妙な関係があったものと独断してしまって、もっとも、それは無理もありませんけれど、その関係を打ち明けてくれといって迫まるのです。で、彼が言うのですね。姉の死因はむろん主として肉体的な病気のためには違いないけれど、弟の自分が見るところでは、ほかに何かあったのではないかと思う。というのは、たとえば生前起こっていた縁談に、姉が強硬に不同意を唱えたことなどから考えると、誰か心に思いつめている人があって、それが意のままにならない、というようなことが姉の死を早めたのではないか、とね。実際すみ子は国へ帰ってから一種の憂欝症にかかり、それのつづきのようにして病気にとりつかれたのだそうですから、田中の言うところももっともではあるのです。  さあ、そうなると、いい年をしていて、私の心臓は俄かに鼓動を早めるのですね。虫のいい考え方をすれば、片思いは私の方ばかりでなくて、すみ子も同じように、言い出し兼ねた恋を秘めて、うらめしい私たちの婚礼を眺めていたのだとも想像できるのですから、あの美しいすみ子が、そうして死んで行ったとすれば、私はどうすればいいのでしょう。嬉しいのですね。なんだかこう涙が喉のところへ込み上げてくるほど嬉しいのですね。  でも一方では、「こんなことが果たしてほんとうだろうか」という心持もあるのです。すみ子は私などに恋するには、あまりに美しく、あまりに気高い女性だったのですから。そこで、私と田中とのあいだに妙な押し問答がはじまったのですよ。私は大事を取るような気持で、「そんなことがあるはずはない」と言えば、田中は「でも、この写真をどう解釈すればいいのだ」とつめ寄る。で、そうして言い合っているうちに、私はだんだん感傷的になっていって、ついには私の片思いを打ち明けて、そういうわけだから、すみ子さんの方で私を思っていてくれたなんてことはあり得ないと、実はその反対をどれほどか希望しながら、まあ強弁したわけなんです。  ところが、話し、話し、懐中鏡をもてあそんでいた田中が、ふと何かに気がついた様子で、「やっぱりそうだ」と叫ぶのですよ。それが、大変なものを発見したのです。懐中鏡のサックは、さっきも言ったように塩瀬で作った二つ折りのもので、その表面の麻の葉つなぎかなんかの模様のあいだに、すみ子の手すさびらしく、目立たぬ色糸で、英語の組み合わせ文字の刺繍がしてあったのですが、それがIの字をSで包んだ形にできているのです。 「私は今までどうしても、この組み合わせ文字の意味がわからなかったのです」田中が言うのですね、「Sはなるほどすみ子の頭字かもしれませんが、Iの方は、実家の田中にも養家の北川にも当てはまらないのですからね。ところが、今ふっと気がつくと、あなたは栗原一造とおっしゃるではありませんか、イチゾウの頭字のIでなくてなんでしょう。写真といい、組み合わせ文字といい、これですっかり姉の思っていたことがわかりましたよ」  かさねがさねの証拠品に、私は嬉しいのか悲しいのか、妙に眼の内が熱くなってきました。そういえば、十数年以前の北川すみ子の、いろいろな仕草が、今となっては一々意味ありげに思い出されます。あの時あんなことを言ったのは、それでは私への謎であったのか。あの時こういう態度を示したのは、やっぱり心あってのことだったのかと、年がいもないと笑ってはいけません、次から次へ、甘い思い出にふけるのでした。  それから、私たちはほとんど終日、田中は姉の思い出を、私は学生時代の昔話を、事実が遠い過去のことであるだけに、少しもなまなましいところはなく、又いや味でもなく、ただ懐かしく語り合いました。そして、別かれる時に、私は田中にねだって、その懐中鏡と、すみ子の写真とを貰い受け、大切に、内ぶところに抱きしめて、家に帰ったことでした。  考えてみれば、実に不思議な因縁と言わねばなりません。偶然浅草公園の共同ベンチで出合った男が、昔の恋人の弟であって、しかも、その男からまるで予期しなかったその人の心持を知るなんて、それも、私たちが以前に会っているのだったら、さして不思議でもないのですが、まるで見ず知らずのあいだがらで、双方相手の顔を覚えていたのですからね。  そのことがあってから、当分というものは、私はすみ子のことばかり考えておりました。あのとき私に、なぜもっと勇気がなかったかと、それもむろん残念に思わぬではありませんが、何をいうにも年数のたったことではあり、こちらの年が年ですから、そんな現実的な事柄よりは、単になんとなく嬉しくて、また悲しくて、家内の目を盗んでは、形見の懐中鏡と写真とを眺め暮らし、夢のように淡い思い出にふけるばかりでした。  しかし、人間の心持は、なんと妙なものではありませんか。そんなふうに、私の思いは、決して現実的なものではなかったのに、ヒステリー患者とはいいながら、これまでさして厭にも思わなかった家内のお園が、きわ立っていとわしくなり、すみ子が睡っている三重県の田舎町が、そこへ一度も行ったことがないだけに、不思議にもなつかしく思えるのですね。そして、しまいには、巡礼のようなつつましやかな旅をして、すみ子のお墓参りがしてみたいとまで願うようになったものです。こんなふうの言い方をしますと、今になってはからだがねじれるほどいやみな気がしますけれど、当時は、子供のような純粋な心持で、ほんとうにそれまで思いつめたものなんです。  田中から聞いた、彼女のやさしい戒名を刻んだ石碑の前に、花を手向け香をたいて、そこで一とこと彼女に物が言ってみたい。そんな感傷的な空想さえ描くのでした。むろんこれは空想にすぎないのです。たとえ実行しようとしたところで、当時の生活状態では、旅費を工面する余裕さえなかったのですから。  で、お話がこれでおしまいですと、いわば四十男のおとぎ話として、たとえおのろけとはいえ、ちょっと面白い思い出に違いないのですが、ところが、実はこのつづきがあるのですよ。それを言うと非常な幻滅で、まるきり他愛のない落とし話になってしまうので、私も先を話したくないのですけれど、でも、事実は事実ですから、どうもいたし方がありません。なに、あんなことでうぬぼれてしまった私にとっては、いい見せしめかもしれないのですがね。  私がそんなふうにして、死んだすみ子の幻影を懐かしんでいたある日のことでした。ちょっとした手抜かりで、例の懐中鏡とすみ子の写真とを、私のヒステリーの家内に見つかってしまったわけなんです。それを知ったときは、困ったことになった、これでまた四、五日のあいだは、烈しい発作のお|守《も》りをしなければなるまいと、私はいっそ覚悟をきめてしまったほどでした。ところが、意外なことには、その二た品を前にして、私の破れ机の前に坐った家内は、いっこうヒステリーを起こす様子がないのです。そればかりか、ニコニコしながらこんなことを言うではありませんか。 「まあ、北川さんの写真じゃありませんか、どうしてこんなものがあったの。それに、まあ珍らしい懐中鏡、ずいぶん古いものですわね。私の行李から出てきたのですか、もうずっと前になくしてしまったとばかり思っていましたのに」  それを聞きますと、私はなんだか変だなと思いましたが、まだよくわからないで、ぼんやりして、そこにつっ立っておりました。家内はさも懐かしそうに懐中鏡をもてあそびながら、 「あたしが、この組み合わせ文字の刺繍を置いたのは、学校に通よっている頃ですわ、あなた、これがわかって」そういって、三十歳の家内が妙に色っぽくなるのですよ。「一造のIでしょう。園のSでしょう。まだあなたと一緒にならない前、お互の心が変わらないおまじないに、これを縫ったのですわ。わかって。どうしたのでしょうね。学校の修学旅行で日光に行った時、途中で盗まれてしまったつもりでいたのに」  というわけです。おわかりでしょう。つまりその懐中鏡は、私が甘くも信じきっていたすみ子のではなくて、私のヒステリー女房のお園のものだったのです。園もすみ子も頭字は同じSで、飛んだ思い違いをしたわけです。それにしてもお園の持ち物がどうしてすみ子の所にあったか、そこがどうも、よくわかりません。で、いろいろと家内に問いただしてみましたところ、結局こういうことが判明したのです。  家内が言いますには、その修学旅行の折り、懐中鏡は財布などといっしょに、手提げの中へ入れて持っていたのを、途中の宿屋で、誰かに盗まれてしまった。それがどうも、同じ生徒仲間らしかったというのです。私も仕方なく、すみ子の弟との出合いのことを打ち明けたのですが、すると家内は、それじゃあ、これはすみ子さんが盗んだのに違いない。あなたなんか知るまいけれど、すみ子さんの手くせの悪いことは級中でも誰知らぬ者もないほどだったから。じゃあ、きっとあの人だわと言うのです。  この家内の言葉が、でたらめや勘違いでなかった証拠には、その時にはもう抜き出してなくなっていた、鏡の裏の私の写真のことを覚えていました。それも家内が入れておいたものなんです。多分すみ子は、死ぬまで、この写真については知らずに過ぎたものに違いありません。それを彼女の弟が、気まぐれにもてあそんでいて、偶然見つけ出し、飛んだ勘違いをしたわけでしょう。  つまり、私は二重の失望を味わわねばならなかったのです。第一にすみ子が決して私などを思ってはいなかったこと、それから、もし家内の想像を真実とすれば、あれほど私が恋いしたっていた彼女が、見かけによらぬ泥棒娘であったこと。  ハハハハハハ、どうも御退屈さま。私のばかばかしい思い出話は、これでおしまいです。落ちを言ってしまえば、此の上もなくつまらないことですけれど、それがわかるまでは、私もちょっと緊張したものですがね。     算盤が恋を語る話  〇〇造船株式会社会計係りのTは、きょうはどうしたものか、いつになく早くから事務所へやってきました。そして、会計部の事務室へはいると、外套と帽子をかたえの壁にかけながら、いかにも落ちつかぬ様子で、キョロキョロと室の中を見まわすのでした。  出勤時間の九時にだいぶ間がありますので、そこにはまだだれも来ていません。たくさんならんだ安物のデスクに白くほこりのつもったのが、まぶしい朝の日光に照らし出されているばかりです。  Tはだれもいないのを確かめると、自分の席へは着かないで、隣の、彼の助手を勤めている若い女事務員のS子のデスクの前に、そっと腰をかけました。そして何かこう、盗みでもするような恰好で、そこの本立ての中にたくさんの帳簿といっしょに立ててあった一梃の|算《そろ》|盤《ばん》を取り出すと、デスクの端において、いかにもなれた手つきでその玉をパチパチはじきました。 「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭なりか。フフ」  彼はそこにおかれた非常に大きな金額を読みあげて、妙な笑い方をしました。そして、その算盤をそのままS子のデスクのなるべく目につきやすい場所へおいて、自分の席に帰ると、なにげなくその日の仕事に取りかかるのでした。  間もなく、ひとりの事務員がドアをあけてはいってきました。 「やあ、ばかに早いですね」  彼は驚いたようにTにあいさつしました。 「お早う」  Tは内気者らしく、のどへつまったような声で答えました。普通の事務員同士であったら、ここで何か景気のいい冗談の一つも取りかわすのでしょうが、Tのまじめな性質を知っている相手は、気づまりのようにそのままだまって自分の席に着くと、バタンバタン音をさせて帳簿などを取り出すのでした。  やがて次から次へと、事務員たちがはいってきました。そして、その中にはもちろんTの助手のS子もまじっていたのです。彼女は隣席のTの方へ丁寧にあいさつをしておいて、自分のデスクに着きました。  Tは一所懸命に仕事をしているような顔をして、そっと彼女の動作に注意していました。 「彼女は机の上の算盤に気がつくだろうか」  彼はヒヤヒヤしながら横目でそれを見ていたのです。ところが、Tの失望したことは、彼女はそこに算盤が出ていることを少しもあやしまないで、さっさとそれを脇へのけると、背皮に金文字で、「原価計算簿」としるした大きな帳簿を取り出して、机の上にひろげるのでした。それを見たTはがっかりしてしまいました。彼の計画はまんまと失敗に帰したのです。 「だが、いちどぐらい失敗したって失望することはない。S子が気づくまでなんどだって繰り返せばいいのだ」  Tは心の中でそう思って、やっと気をとりなおしました。そしていつものように、まじめくさって、あたえられた仕事にいそしむのでした。  ほかの事務員たちは、てんでに冗談を言いあったり、不平をこぼしあったり、一日ざわざわ騒いでいるのに、Tだけはその仲間に加わらないで、退出時間がくるまでは、むっつりとして、こつこつ仕事をしていました。 「十二億四千五百三十二万二千二百二十二円七十二銭」  Tはその翌日も、S子の|算《そろ》|盤《ばん》に同じ金額をはじいて、机の上の目につく場所へおきました。そしてきのうと同じように、S子が出勤して席につく時の様子を熱心に見まもっていました。すると、彼女はやっぱりなんの気もつかないで、その算盤を脇へのけてしまうのです。  その次の日もまた次の日も、五日のあいだ同じことが繰り返されました。そして、六日目の朝のことです。その日はどうかしてS子がいつもより早く出勤してきました。それはちょうど例の金額を、S子の算盤において、やっと自分の席へもどったばかりのところだったものですから、Tは少なからずうろたえました。もしや今、算盤をおいているところを見られはしなかったか。彼はビクビクしながらS子の顔を見ました。しかし、仕合わせにも、彼女は何も知らぬようにいつもの丁寧なあいさつをして自席に着きました。  事務室にはTとS子ただふたりきりでした。 「こんどの××丸はもうやがてボイラーを取りつける時分ですが、製造原価の方もだいぶかさみましたろうね」  Tはてれかくしのようにこんなことを問いかけました。臆病者の彼は、こうした絶好の機会にも、とても仕事以外のことは口がきけないのです。 「ええ、工賃をまぜると、もう八十万円〔註、今の数億円に当たる〕を越しましたわ」  S子はちらっとTの顔を見て答えました。 「そうですか。こんどのはだいぶ大仕事ですね。でも、うまいもんですよ。そいつを倍にも売りつけるんですからね」  ああ、おれはとんでもない下品なことをいってしまった。Tはそれに気づくと思わず顔を赤くしました。この普通の人々にはなんでもないようなことがTには非常に気になるのです。そして、その赤面したところを相手に見られたという意識が、彼の頬をいっそうほてらせます。彼は変な|空《から》|咳《せき》をしながら、あらぬかたを向いてそれをごまかそうとしました。しかし、S子は、この立派な口ひげをはやした上役のTが、まさかそんなことで狼狽していようとは気づきませんから、なにげなく彼の言葉に合いづちを打つのでした。  そうして二たこと三こと話しあっているうちに、ふとS子は机の上の例の算盤に目をつけました。Tは思わずハッとして、彼女の眼つきに注意しましたが、彼女は、ただちょっとのあいだ、そのばかばかしく大きな金額を不審そうに見たばかりで、すぐ眼を上げて会話をつづけるのです。Tはまたしても失望を繰り返さねばなりませんでした。  それからまた数日のあいだ、同じことが執拗につづけられました。Tは毎朝S子の席に着く時をおそろしいような楽しいような気持で待ちました。でも二日三日とたつうちには、S子も帰る時には本立てへかたづけておく算盤が、朝来てみると必ず机のまんなかにキチンとおいてあるのを、どうやら不審がっている様子でした。そこにいつも同じ数字が示されているのにも気がついた様子です。ある時なぞは声を出してその十二億四千何百という金額を読んでいたくらいです。  そして或る日とうとうTの計画が成功しました。それは、最初から二週間もたった時分でしたが、その朝はS子がいつもより長いあいだ例の算盤を見つめていました。小首をかたむけてなにか考え込んでいるのです。Tはもう胸をドキドキさせながら、彼女の表情を、どんな些細な変化をも見のがすまいと、異常な熱心さでじっと見まもっていました。息づまるような数分間でした。が、しばらくすると、突然、何かハッとした様子で、S子が彼の方をふり向きました。そして、ふたりの眼がパッタリ出あってしまったのです。  Tは、その瞬間、彼女が何もかも悟ったに違いないと感じました。というのは、彼女はTの意味あり気な凝視に気づくと、いきなりまっ|赤《か》になってあちらを向いてしまったからです。もっとも、とりようによっては、彼女はただ、男から見つめられていたのに気づいて、その恥ずかしさで赤面したのかもしれないのですが、のぼせ上がったそのときのTには、そこまで考える余裕はありません。彼は自分も赤くなりながら、しかし非常な満足をもって、紅のように染まった彼女の美しい耳たぶを、気もそぞろにながめたことです。  ここでちょっと、Tのこの不思議な行為について説明しておかねばなりません。  読む人はすでに推察されたことと思いますが、Tは世にも内気な男でした。そして、それが女に対しては一層ひどいのです。彼は学校を出てまだ間もないのではありますけれど、それにしても三十近い|今《こん》|日《にち》まで、なんと、いちども恋をしたことがない、いや、ろくろく若い女と口をきいたことすらないのです。むろん機会がなかったわけではありません。ちょっと想像もできないほど臆病な彼の性質|が禍《わざわい》したのです。それは一つは彼が自分の容貌に自信を持ち得ないからでもありました。うっかり恋をうちあけて、もしはねつけられたら。それがこわいのでした。臆病でいながら人一倍自尊心の強い彼は、そうして恋を拒絶せられた場合の、気まずさ恥ずかしさが、何よりも恐ろしく感じられたのです。「あんないけすかない人っちゃないわ」そういったゾッとするような言葉が、容貌に自信のない彼の耳許でたえず聞こえていました。  ところが、さしもの彼もこんどばかりは辛抱しきれなかったとみえます。S子はそれほど彼の心を捉えたのです。しかし、彼にはそれを正面から堂々と訴えるだけの勇気はもちろんありませんでした。なんとかして拒絶された場合にも、少しも恥ずかしくないような方法はないものかしら。卑怯にも彼はそんなことを考えるようになりました。そして、こうした男に特有の異常な執拗さをもっていろいろな方法を考えては打ち消し、考えては打ち消しするのでした。  彼は会社で|当《とう》のS子と席をならべて事務をとりながらも、そして彼女とさりげなく仕事の上の会話を取りかわしながらも、たえずそのことばかり考えていました。帳簿をつける時も、算盤をはじく時も、少しも忘れる暇はないのです。すると或る日のことでした。彼は算盤をはじきながら、ふと妙なことを考えつきました。 「少しわかりにくいかもしれぬが、これなら申し分がないな」  彼はニヤリと会心の|笑《え》みを浮かべたことです。彼の会社では、数十人の職工たちに毎月二回にわけて賃銀を支払うことになっていて、会計部は、その都度、工場から廻されるタイムカードによって、各職工の賃銀を計算し、ひとりひとりの賃銀袋にそれを入れて、各部の職長に手渡すまでの仕事をやるのでした。そのためには、数名の賃銀計算係りというものがいるのですけれど、非常にいそがしい仕事だものですから、多くの場合には、会計部の手すきのものが総出で、読み合わせからなにから手伝うことになっていました。  その際に、記帳の都合上、いつも何千というカードを、職工の姓名の頭字で「いろは」順に仕訳けをする必要があるのです。はじめのうちは机をとりのけて広くした場所へそれをただ「いろは」順にならべていくことにしていましたが、それでは手間取るというので、一度アカサタナハマヤラワと分類して、そのおのおのをさらにアイウエオなりカキクケコなりに仕訳ける方法をとることにしました。それを始終やっているものですから、会計部のものはアイウエオ五十音の位置を、もう諳んじているのです。たとえば「野崎」といえば五行目(ナ行)の第五番というふうにすぐ頭に浮かぶのです。  Tはこれを逆に適用して、算盤にあらわした数字によって簡単な暗号通信をやろうとしたのです。つまり、ノの字を現わすためには五十五と算盤をおけばよいのです。それがのべつにつづいていてはちょっとわかりにくいかもしれませんけれど、よく見ているうちには、日頃おなじみの数ですから、いつか気づく時があるに違いありません。  では、彼はS子にどういう言葉を通信したか、こころみにそれを解いてみましょうか。  十二億は一行目(ア行)の第二字という意味ですからイです。四千五百は四行目(タ行)の第五字ですからトです。同様にして三十二万はシ、二千二百はキ、二十二円もキ、七十二銭はミです。すなわち「いとしききみ」となります。 「愛しき君」もしこれを口にしたり、文章に書くのでしたら、Tには恥ずかしくてとてもできなかったでしょうが、こういうふうに算盤におくのならば平気です。ほかのものに悟られた場合には、なに偶然算盤の玉がそんなふうにならんでいたんだと言い抜けることができます。だいいち手紙などと違って証拠の残る憂いがないのです。実に万全の策といわねばなりません。幸いにして、S子がこれを解読して受け入れてくれればよし、万一そうでなかったとしても、彼女には、言葉や手紙で訴えたのと違って、あらわに拒絶することもできなければ、それを人に吹聴するわけにもいかないのです。さてこの方法はどうやら成功したらしく思われます。 「あのS子のそぶりでは、まず十中八九は大丈夫だ」  これならいよいよ大丈夫だと思ったTは、こんど少し金額をかえて、 「六十二万五千五百八十一円七十一銭」  とおきました。それをまた数日のあいだつづけたのです。これも前と同じ方法であてはめてみればすぐわかるのですが、「ヒノヤマ」となります。|樋《ひ》の山というのは、会社からあまり遠くない小山の上にある、その町の小さな遊園地でした。Tはこうしてあいびきの場所まで通信しはじめたのです。  その或る日のことでした。もう充分暗黙の了解が成り立っていると確信していたにかかわらず、Tはまだ仕事以外の言葉を話しかける勇気がなく、あいかわらず帳簿のことなぞを話題にしてS子と話していました。すると、ちょっと会話の途切れたあとで、S子はTの顔をジロジロ見ながら、その可愛い口許にちょっと|笑《え》みを浮かべてこんなことをいうのです。 「ここへ算盤をお出しになるの、あなたでしょ。もう先からね。あたしどういうわけだろうと思っていましたわ」  Tはギックリしましたが、ここでそれを否定しては折角の苦心が水のあわだと思ったものですから、満身の勇気をふるい起こしてこう答えました。 「ええ、僕ですよ」  だがなさけないことに、その声はおびただしくふるえていました。 「あら、やっぱりそうでしたの。ホホホホ」  そうして彼女はすぐほかの話題に話をそらしてしまったことですが、Tにはその時のS子の言葉がいつまでも忘れられないのでした。彼女はどういうわけであんなことをいったのでしょう。肯定のようにもとれます。そうかと思えばまた、まるで無邪気になにごとも気づいていないようでもあります。 「女の心持なんて、おれにはとてもわからない」  彼はいまさらのように嘆息するのでした。 「だが、ともあれ最後までやってみよう。たとえすっかり感づいていても、彼女もやっぱり恥ずかしいのだ」  彼にはそれがまんざらうぬぼれのためばかりだとも考えられぬのでした。そこで、その翌日、こんどは思いきって、 「二二八五一三二一一四九二五二」  とおきました。「キョウカエリニ」すなわち「きょう帰りに」という意味です。これで一か|八《ばち》か、かたがつこうというものです。きょう社の帰りに彼女が樋の山遊園地へくればよし、もしこなければ、こんどの計画は全然失敗なのです。「きょう帰りに」。その意味を悟った時、うぶな少女は一方ならず胸騒ぎを覚えたに違いありません。だが、あのとりすました平気らしい様子はどうしたことでしょう。ああ、吉か凶か、なんというもどかしさだ。Tはその日に限って退社時間が待ち遠しくて仕方がありませんでした。仕事なんかほとんど手につかないのです。  でも、やがて待ちに待った退社時間の四時がきました。事務室のそこここにバタンバタンと帳簿などをかたづける音がして、気の早い連中はもう外套を着ています。Tはじっとはやる心をおさえてS子の様子を注意していました。もし彼女が彼の指図にしたがって指定の場所にくるつもりなら、いかに平気をよそおっていても、帰りのあいさつをする時には、どこか態度にそれが現われぬはずはないと考えたのです。  しかし、ああ、やっぱりだめなのかな。彼女がTにいつもとおなじ丁寧なあいさつを残して、そこの壁にかけてあった襟巻をとり、ドアをあけて事務室を出ていってしまうまで、彼女の表情や態度からは、常にかわったなにものをも見出すことができないのでした。  思いまよったTは、ぼんやりと彼女のあとを見送ったまま、席を立とうともしませんでした。 「ざまを見ろ。お前のような男は、年がら年中、こつこつと仕事さえしていればいいのだ。恋なんかがらにないのだ」  彼はわれとわが身を呪わないではいられませんでした。そして、光を失った悲しげな眼で、じっと一つところを見つめたまま、いつまでもいつまでもかいなきもの思いにふけるのでした。  ところが、しばらくそうしているうちに、彼はふと或るものを発見しました。今まで少しも気づかないでいた、S子のきれいにかたづけられた机の上に、これはどうしたというのでしょう。彼が毎朝やる通りにあの算盤がチャンとおいてあるではありませんか。  思いがけぬ喜びが、ハッと彼の胸をおどらせました。彼はいきなりそのそばへ寄って、そこに示された数字を読んでみました。 「八三二二七一三三」  スーッと熱いものが、彼の頭の中にひろがりました。そして、にわかに早まった動悸が耳許で早鐘のように鳴り響きました。その算盤には彼のとおなじ暗号で「ゆきます」とおかれてあったのです。S子が彼に残していった返事でなくてなんでしょう。  彼はやにわに外套と帽子をとると、机の上をかたづけることさえ忘れてしまって、いきなり事務室を飛び出しました。そして、そこにじっとたたずんで、彼のくるのを待ちわびているS子の姿を想像しながら、息せききって樋の山遊園地へと駈けつけました。  そこは遊園地といっても、小山の頂きにちょっとした広場があって、一、二軒の茶店が出ているかぎりの、見はらしがよいというほかには取柄のない場所なのですが、見れば、もうその茶店も店をとじてしまって、ガランとした広場には、暮れるに間のない赤茶けた日光が、樹立ちの影を長々と地上にしるしているばかりで、人っ子ひとりいないではありませんか。 「じゃあ、きっと彼女は着物でも着かえるために、いちど家に帰ったのだろう。なるほど、考えてみればあの古い海老茶の袴をはいた事務員姿では、まさかこられまいからな」  算盤の返事に安心しきった彼は、そこに抛り出してあった茶店の床几に腰かけて、タバコをふかしながら、この生れてはじめての待つ身のつらさを、どうして、つらいどころか、はなはだ甘い気持で味わうのでした。  しかし、S子はなかなかやってこないのです。あたりはだんだん薄暗くなってきます。悲しげな鳥どもの鳴き声や、間近の駅から聞こえてくる汽笛の音などが、広場のまん中にひとりぽつねんと腰をかけているTの心にさびしく響いてきます。  やがて夜がきました。広場のところどころに立てられた電灯が寒く光りはじめます。こうなると、さすがのTも不安を感じないではいられませんでした。 「ひょっとしたら、うちの首尾がわるくて出られないのかもしれない」  今では、それが唯一の望みでした。 「それともまた、おれの思い違いではないかしら。あれは暗号でもなんでもなかったのかもしれない」  彼はいらいらしながら、その辺をあちらこちらと歩き廻るのでした。心の中がまるでからっぽになってしまって、ただ頭だけがカッカとほてるのです。S子のいろいろの姿態が、表情が、言葉が、それからそれへと目先に浮かんできます。 「きっと、彼女もうちでくよくよおれのことを心配しているのだ」  そう思う時には、彼の心臓は熱病のようにはげしく鳴るのです。しかし、また或る時は身も世もあらぬ焦躁がおそってきます。そして、この寒空にこぬ人を待って、いつまでもこんなところにうろついているわが身が、腹立たしいほどおろかに思われてくるのです。  二時間以上もむなしく待ったでしょうか。もう辛抱しきれなくなった彼は、やがてとぼとぼと力ない足どりで山を下りはじめました。  そして山のなかばほどおりた時です。彼はハッとしたようにそこへ立ちすくみました。ふと、とんでもない考えが彼の頭に浮かんだのです。 「だが、はたしてそんなことがありうるだろうか」  彼はそのばかばかしい考えを一笑に付してしまおうとしました。しかし、いちど浮かんだ疑いは容易に消し去るべくもありません。彼はもう、それを確かめてみないではじっとしていられないのでした。  彼は大急ぎで会社へ引き返しました。そして、小使いに会計部の事務室のドアをひらかせると、やにわにS子の机の前へ行って、そこの本立てに立ててあった原価計算簿を取り出し、××丸の製造原価を記入した部分をひらきました。 「八十三万二千二百七十一円三十三銭」  これはまあなんという奇蹟でしょう。その帳尻の締め高は、偶然にも「ゆきます」というあの暗号に一致していたではありませんか。きょうS子はその締め高を計算したまま、算盤をかたづけるのを忘れて帰ったというにすぎないのです。そして、それは決して恋の通信などではなくて、ただ魂のない数字の羅列だったのです。  あまりのことにあっけにとられた彼は、一種異様な顔つきで、ボンヤリとその呪わしい数字をながめていました。すべての思考力を失った彼の頭の中には、彼の十数日にわたる惨憺たる焦慮などには少しも気づかないで、あの快活な笑い声をたてながら、暖かい家庭で無邪気に談笑しているS子の姿がまざまざと浮かんでくるのでした。     妻に失恋した男  わたしはそのころ世田谷警察署の刑事でした。自殺したのは管内のS町に住む南田収一という三十八歳の男です。妙な話ですが、この南田という男は自分の妻に失恋して自殺したのです。 「おれは死にたい。それとも、あいつを殺してしまいたい。おい、笑ってくれ。おれは女房のみや子にほれているのだ。ほれてほれてほれぬいているのだ。だが、あいつはおれを少しも愛してくれない。なんでもいうことはきく、ちっとも反抗はしない。だが、これっぽっちもおれを愛してはいないのだ。  よくいうだろう、天井のフシアナをかぞえるって。あいつがそれなんだよ。『おいっ』と、怒ると、はっとしたように、愛想よくするが、そんなの作りものにすぎない。おれは真からきらわれているんだ。  じゃあ、ほかに男があるのかというと、その形跡は少しもない。おれは疑い深くなって、ずいぶん注意しているが、そんな様子はみじんもない。生れつき氷のように冷たい女なのか。いや、そうじゃない。おれのほかの愛しうる男を見つけたら、烈しい情熱を出せる女だ。あいつは相手をまちがえたのだ。仲人結婚がお互の不幸のもとになったのだ。  結婚して一年ほどは何も感じなかった。こういうものだと思っていた。二年三年とたつにつれて、だんだんわかってきた。あいつがおれを少しも愛していないことがだよ。不幸なことに、おれの方では逆に、年がたつほど、いよいよ深く、あいつにほれて行ったのだ。そして、半年ほど前から、その不満が我慢できないほど烈しくなってきた。こうもきらわれるものだろうか。だが、いくらきらわれても、おれはあいつを手ばなすことはできない。ほれた相手に代用品なんかあるもんか。ああ、おれはどうすればいいのだ。  おれは、あいつを殺してやろうと思ったことが、何度あるかしれない。だが、殺してどうなるのだ。相手がいなくなったからって、忘れられるもんじゃない。おれは失恋で死んでしまうだろう。  しかし、もう一日もこのままじゃ、いられない。あいつが殺せないなら、おれが死ぬほかないじゃないか。おれは死にたい、死にたい、死にたい」  こんなよまいごとを、直接聞いたわけじゃありません。南田収一が酔ったまぎれに、涙をこぼしながら、わめきちらしたことが、たびたびあったと、南田の親しい友だちから、あとになって聞きこんだのです。その友だちは、こわいろ入りで話してくれましたが、まあこんなふうだったろうと、わたしが想像してお話しするわけですよ。  ある晩、南田収一は自分の書斎のドアに中からカギをかけて、小型のピストルで自殺してしまいました。わたしはその知らせをうけて、すぐに同僚といっしょに、S町の南田家へかけつけました。  そのときはまだ、自分の妻に失恋して自殺したなんて少しも知らないので、自殺の動機をさぐり出すのに、たいへん骨がおれました。  南田の父親は戦後のドサクサまぎれに財産を作った男で、南田収一はその財産を利殖して暮らしていればよいのでした。父母は死んでしまい、兄弟もなく、うるさい親戚もないという羨ましい身の上でした。つき合いも広くはなく、夫婦で旅行をしたり、いっしょに映画や芝居を見るぐらいが楽しみで、近所では実に仲のよい仕合わせな夫婦だと思いこんでいました。  変事の知らせがあったのは夜の九時半でしたが、かけつけて奥さんのみや子さんに聞いてみると、そのとき、女中は母親が病気で午後から千住の自宅へ出かけてまだ帰らず、主人は虫歯が痛むといって、琴浦という近所の歯科医へ行って、帰ったかとおもうと、そのまま洋室の書斎へとじこもってしまって、なにか考えごとにふけっている。奥さんは手持ぶさたに、茶の間で編みものをしていたというのです。  すると、書斎の方で、なにかへんな音がした。表の大通りからオートバイなどの爆音がよくきこえてくるので、へんな音にはなれていたけれど、今のはなんだか感じがちがう。それに主人が毎日ひどくふさいでいたことも気にかかるので、書斎へ行ってドアをあけようとしたが、中からカギがかかっている。いくら叩いても返事がない。合鍵というものが作ってないので、そとへまわって、ガラス窓からのぞいてみると、主人があおむけに倒れて、口から血が流れていたというのです。  わたしたちも、その窓のガラスを破って書斎にはいり、机の上にあった鍵でドアをひらきました。  南田収一は黒い背広を着て、あおむけに倒れていました。口と後頭部が血だらけで、息が絶えていることは、一見してわかりました。あとから警視庁鑑識課の医者がしらべましたが、南田は小型ピストルの筒口を口の中へ入れて発射したのです。後頭部が割れて、ひどい状態になっていました。  貫通銃創ですから、ピストルのたまがどこかになければなりません。室内を調べてみると、そのたまは一方のシックイ壁に深く突き刺さっていました。南田はその壁の前に立って自殺したのです。遺書らしいものは、いくら探しても発見されませんでした。  むろんピストルの出所が問題になりました。許可を受けて所持していたわけではなかったのです。これは戦争直後、南田の父親がアメリカ人からもらったもので、たまといっしょに机の引出しの奥にしまったまま、奥さんなどは忘れてしまっていたということでした。  密室の中の自殺で、ピストルは南田が右手に握ったままなのですから、これはもう少しも疑うところはありません。自殺にちがいないと判断されました。  いくら疑いのない情況でも、警察の仕事はそれで終るわけではありません。自殺の動機を調べてみなければならないのです。  わたしは奥さんにそれをたずねる役を引きうけました。事件の翌日、少し気のしずまるのを待って、南田家の茶の間でさし向かいになり、いろいろたずねてみました。  みや子さんは、南田があれほど恋したのも無理はないほど魅力のある女性でした。年は二十八歳、南田が痩せっぽちの小男なのにくらべて、上背のある豊かなからだで、目のさめるような美しい人でした。  奥さんと話しているうちに、わたしは何か隠しているなという感じを受けました。しかし、そう深くたずねるわけにもいきませんので、故人の友だちを教えてもらって、次々とあたってみることにしました。そして、最初にお話しした親しい友だちを見つけ、南田の奇妙な失恋の話を聞きこんだのです。  そこで、もう一度奥さんに会って、うまく話を持っていきますと、奥さんもちゃんとそれを知っていたことがわかりました。主人のその気持はわかっていたが、自分にはあれ以上どうすることもできなかった。主人は精神異常者だったのではないかというのです。  しかし、わたしには、みや子さんが、いわゆる冷たい女だとは、どうしても考えられませんでした。こういう女に冷たく仕向けられたら、南田が悶えたのも無理はないとさえ思いました。  これで自殺の動機は推定されたのです。普通の人間はそんなことで自殺はしないでしょうが、病的な神経の持ち主ならば、そういう気持にならないとも限りません。そこで、この事件は一応けりがついたわけです。  ところが、わたしはこの結論に満足しなかったのです。自分の妻に失恋して自殺したというのは、人間心理の一つの極端なケースとして、小説にでも書けば面白いかもしれませんが、わたしにはどうも納得できませんでした。長年刑事をやってきた経験からの勘というやつが承知しないのです。  ですから、この事件が警察の手をはなれてからも、わたしは余暇を利用して、もっと深くさぐってみようと決心しました。実はそういう抜けがけの功名みたいなことは禁じられているのですが、余暇を利用して、個人としてやるのなら構わないと思いました。  わたしは南田家の近所から聞きこみをしようと、いろいろやってみましたが、何も出てきません。みや子さんも、一週間に一度ぐらい訪ねて、無駄話をしました。しかし、ここからも何も引き出せません。  みや子さんは主人の葬式をすませると、広い家に女中とふたりで、つつましく暮らしていました。むろん南田の財産はみや子さんのものになるのです。その額は三千万円を下らないだろうということでした。  わたしは、ふと、南田が自殺の直前に琴浦という近所の歯科医院へ行ったということを思い出し、そこを訪ねてみました。事件の当時にも、「自殺するものが歯を治したって仕方がないじゃないか」と思ったので、みや子さんに聞いてみましたが、この夫妻はふたりとも歯性が悪く、たえず近所の琴浦歯科医院へかよっていて、南田が自殺の前にも虫歯が烈しく痛みだし、ともかくその痛みをとめるために歯医者へかけつけたのだろうということでした。歯医者へ行ったときには、まだ充分決心がついていなかったのかもしれません。そして、書斎で物思いにふけっているあいだに、とうとう自殺する気になったのかもしれません。こういう微妙な点は常識だけでは判断できないものです。  琴浦という歯医者は南田家の裏にあたるT町の大通りにありました。歩いて三分ぐらいの距離です。琴浦医師は一年ほど前奥さんに死なれて、子どももなく、かよいの看護婦と女中だけで暮らしているということでした。四十ぐらいのがっしりした男で、マユの太い骨ばった浅黒い顔で、背も高く、肩幅も広く、スポーツできたえたような頼もしい体格です。聞いてみると、南田が自殺の直前、虫歯の痛みをとめてもらいに来たのは事実で、しかし、歯の痛みだけでなく、何か非常に憂欝な様子だったというのです。それ以上のことは何もわかりませんでした。  それから三カ月ほど、わたしは執念深くこの事件に食い下りました。故人の友だち関係は申すまでもなく、あらゆる方面を調べました。琴浦歯科医院に出入りする薬屋や医療器械店まで訪ねたほどです。  すると、Kという医療器械店の店員から、へんなことを聞きこみました。事件の直後、琴浦医院の治療室にある手術椅子の、差しこみになった枕だけを一個、至急持ってくるようにと、注文を受けたというのです。では、古いのと取りかえたのかと聞きますと、古いのは薬品で汚したので捨ててしまったといわれるので、取りかえでなく新しいのだけを渡したという返事でした。  わたしは、このちょっとした事実にこだわりました。こだわる理由があったのです。そこで、琴浦医師にはないしょで、女中さんに、古い枕を捨てたことはないか、ゴミ箱にそういうものがはいっていなかったかとただし、また、その辺を回っているゴミ車の人夫をとらえて、聞き出そうとしたり、手をつくして調べました。しかし、だれも古い枕を見たものはないのです。  琴浦医師はその古い枕を焼きすてたのではないかと想像しました。手術椅子の枕を、なぜ焼きすてなければならなかったか。  わたしは一つの仮説を立てていました。非常に突飛な仮説ですが、そこにこの事件の盲点があるのではないかと考えたのです。そして、琴浦氏が枕を焼きすてたという想像は、このわたしの仮説とぴったり適合したのです。  みや子さんもたびたび琴浦医師に歯の治療をしてもらっていたということを聞いたときから、わたしは一つの疑いをもっていました。みや子さんは琴浦医師に、はじめて真に愛しうる男性を見いだしたのではないか。そして、ついにふたりは共謀して南田を殺害するにいたったのではないかという考えです。治療椅子の枕を新らしくしたという事実が、この考えを強力に裏書きしました。  わたしは琴浦とみや子さんの身辺に、いよいよ執念ぶかく、つきまといました。ふたりが話し合っている部屋のそとから、立ち聞きしたことも、たびたびでした。  そして、南田が死んでから、ちょうど三月目に、ふたりは恐怖に耐えられなくなって、わたしの前に兜をぬいだのです。  みや子は南田に対して極度に用心ぶかくしていました。南田の生前には、琴浦と最後の関係におよんでいなかったほどです。看護婦の目を盗んで、ささやきと愛撫だけで我慢しながら、その我慢のつらさゆえにこそ、ついにこの完全犯罪ともいうべき殺人を計画するにいたったのです。むろん、三千万円の相続ということも、強い動機でした。  琴浦はなぜ治療椅子の枕を焼きすてたか。その枕はピストルのたまで射抜かれ、血のりで汚れたからです。それが恐ろしい他殺の証拠になるからです。  犯人が被害者の口の中へピストルのつつ先を入れて発射するなんて、まったく不必要なことですし、普通の場合、ほとんど不可能な方法です。したがって、口中にピストルをうちこんだ死体を見たら、だれでも自殺としか考えないでしょう。その裏をかいたのがこの犯罪でした。  歯科医はいろいろな金属の器具を患者の口の中に入れて治療します。そのとき患者はたいてい眼をつぶっているものです。たとえ眼をあいていても、視角をはずして下の方からピストルを近づけ、その先を口の中へ入れれば、やはり治療の器具だとおもって、患者はじっとしているでしょう。そこで手早く発射すればよいのでした。  そのとき看護婦はもう家へ帰っていましたし、女中は口実を設けて使いに出してありました。また、問題のピストルは、みや子が主人の机の引出しの奥から取り出して、前もって琴浦に渡しておいたのです。  ピストルのたまが南田の頭蓋骨を貫通し、枕の木をつらぬいて床におちたのを、あとで、南田家の書斎の壁に叩きこんでおいたというのです。柔かいものを当てて、金ヅチで叩いたのです。  この犯罪には、もう一つ都合のよい条件がありました。南田家と歯科医院は、表から回れば三分もかかりますが、裏口は、草のしげった空き地をへだてて、つい目と鼻のあいだに向かい合っていたことです。琴浦とみや子は、治療室の死体を、夜にまぎれて、裏口から南田家の書斎へ運び、指紋をふきとったピストルを、死体の手に握らせ、別の鍵でドアをしめました。カギはほんとうに一つしかなかったのですが、歯科医ですから、みや子に型をとらせて、合カギを鋳造するぐらい、わけのないことでした。     盗難  面白い話しがあるのですよ。私の実験談ですがね。こいつをなんとかしたら、あなたの探偵小説の材料にならないもんでもありませんよ。聞きますか。え、是非話せって。それじゃ至って話し下手でお聞きづらいでしょうが、一つお話ししましょうかね。  決して作り話じゃないのですよ。とお断りするわけは、この話はこれまで、たびたび人に話して聞かせたことがあるのですが、そいつがあんまり作ったように面白くできているもんだから、そりゃあお前、なんかの小説本から仕込んできた種じゃないか、なんて、大抵の人がほんとうにしないくらいなんです。しかし正真正銘いつわりなしの事実談ですよ。  今じゃこんなやくざな仕事をしていますが、三年前までは、これでも私は宗教に関係していた男です。なんて言いますと、ちょっと立派に聞こえますがね。実はくだらないんですよ。あんまり自慢になるような宗教でもない。××教といってね、あんたなんか多分ご承知ないでしょうが、まあ天理教や金光教の親類みたいなものです。もっとも、宗旨のものにいわせれば、そりゃいろいろもったいらしい理窟があるのですけれど。  本山、というほどの大げさなものでもありませんが、そのお宗旨の本家は××県にありまして、それの支教会が、あの地方のちょっと大きい町には大抵あるのです。私のいましたのはそのうちのN市の支教会でした。このN市のは数ある支教会のうちでもなかなか羽振りのいい方でしたよ。それというのが、そこの主任——宗旨ではやかましい名前がついてますけれど、まあ主任ですね。それが私の同郷の者で古い知合いでしたが、そりゃ実にやり手なんです。といっても、決して宗教的な、悟りをひらいたというようなのではなくて、まあ商才にたけていたとでも言いますかね。宗教に商才は少し変ですけれど、信者をふやしたり、寄付金を集めたりする腕前は、なかなかあざやかなものでしたよ。  今もいったように、私はその主任と同郷の縁故で、あれは何年になるかな。エート、私の二十七の年だから、そうですね、ちょうど今から七年前ですね。そこへ住み込んだのですよ。ちょっとしたしくじりがありまして、職に離れたものですから、どうにもしようがなくて、一時のしのぎに、早くいえば居候をきめ込んだわけですね。ところが、いっこう足が抜けなくて、ごろごろしているうちには、だんだん宗旨のことにもなれてくる、自然いろいろの用事を仰せつかる、というわけで、しまいにはその教会の雑用係りとして、とうとう根をすえてしまったのです。あれで、足かけ五年もいましたからね。  むろん私は信者になったわけではありません。根が信仰心の乏しいところへ、内幕を知ってしまって、しかつめらしい顔をしてお説教をしている主任が、裏へ廻ってみれば、酒を飲むわ、女狂いはするわ、夫婦喧嘩は絶え間がないという始末では、どうも信仰も起こりませんよ。やり手といわれるような人にはあり勝ちのことなんでしょうが、主任というのはそんな男だったのです。  ところが、信者となると、ああいう宗旨の信者はまた格別ですね。気ちがいみたいなのが多いのですよ。普通のお寺のことはよく知りませんが、寄進などでも、なかなか派手にやりますね。よくまあ惜しげもなくあんなに納められたもんだと、私のような無信仰のものには不思議に思われるくらいですよ。したがって、主任の暮し向きなんか贅沢なものです。信者からまき上げた金で相場に手を出していたくらいですからね。私はいったいあきっぽいたちでして、それまでは同じ仕事を二年とつづけたことはないほどですが、その私が教会に五年辛抱したというのは、そういうわけで、私などにも、自然実入りがたっぷりあって、居心地がよかったからでしょうね。では、なぜそんないい仕事をよしてしまったか。さあ、それがお話なんですよ。  さて、その教会の説教所というのは、もう十何年も前に建てられたもので、私がそこへ行った時分には、大分いたんでもいるし、汚なくもなっていました。それに、主任が変ってから、にわかに信者がふえて、可なり手狭でもあったのです。そこで、主任は、説教所を建て増して広くし、同時にいたんだ箇所の手入れをすることを思い立ちました。といっても、別に積立金があるわけではなく、本部にいってやったところで、多少の補助はしてくれるでしょうが、とても増築費全部を支出させるわけにはいきません。結局は信者から寄付金を募るほかはないのです。費用といっても、増築のことですから、一万円〔註、今の三、四百万円〕足らずですむのですが、田舎の支教会の手でそれだけ寄付金を集めるというのは、なかなか骨です。もし主任にさっきいったような商才がなかったら、多分あんなにうまくはいかなかったでしょう。  ところで、主任のとった寄付金募集の手段というのが面白いのです。こうなるとまるで詐欺ですね。先ず信者中第一の金満家、市でも一流の商家のご隠居なんですがね。その老人を、なんでも神様から夢のお告げがあったなどともったいをつけて、うまく説き伏せ、寄付者の筆頭として三千円でしたか納めさせてしまったのです。そりゃ、こういう事にかけちゃとてもすごい腕前ですからね。で、この三千円がおとりになるわけです。主任はそれを現金のまま備えつけの小形金庫の中へ入れておいて、信者のくるたびに、 「ご奇特なことです。だれだれさんは、もうこの通り大枚の寄進につかれております」  などと見せびらかし、同時に例のまことしやかな夢のお告げを用いるものですから、だれしも断りきれなくなって、応分の寄付をする。中には虎の子の貯金をはたいて信仰ぶりを見せる連中もあるというわけで、みるみる寄付金の額は増して行くのでした。考えてみると、あんな楽な商売はありませんね。十日ばかりのあいだに五千円〔注、今の二百万円ほど〕も集まりましたからね。この分で行けば、一と月もたたないうちに予定の増築費はわけもなく手に入れることができるだろうと、主任はもうほくほくものなんです。  ところがね、大変なことが起こったのです。ある日のこと、主任にあてて、実に妙な手紙が舞い込んだじゃありませんか。あなた方のお書きになる小説の方では、いっこう珍らしくもないことでしょうが、実際にあんな手紙がきてはちょっとめんくらいますよ。その文面はね、「今夜十二時の時計を合図に貴殿の手もとに集まっている寄付金を頂戴に推参する。ご用意を願う」というのです。ずいぶん酔狂なやつもあったもので、泥棒の予告をしてきたのですよ。どうです、面白いでしょう。よく考えてみれば、ばかばかしいようなことですけれど、その時は私なんか青くなりましたね。今もいうように寄付金は全部現金で金庫に入れてあって、それをたくさんの信者たちに見せびらかしているのですから、今教会にまとまった金があるということは、一部の人々には知れ渡っているのです。どうかして悪いやつの耳にはいっていないとも限りません。ですから泥棒がはいるのは不思議はないのですが、それを時間まで予告してやってくるというのはいかにも変です。  主任などは「なあに、だれかのいたずらだろう」といって平気でいます。なるほどいたずらででもなければ、こんなわざわざ用心させるような手紙を出す泥棒があるはずはないのですから。でもね、理窟はまあそういったものですけれど、私はどうやら心配で仕方がないのです。用心するに越したことはない。一時この金を銀行へ預けたらどうだろうと、主任に勧めてみても、先生いっこうとりあってくれません。では、せめて警察へだけは届けておこうと、ようやく主任を納得させて、私が行くことになりました。  お昼すぎでした、身支度をして表へ出て警察の方へ一丁ばかりも行きますと、うまいぐあいに向こうから、四、五日前に戸籍調べにきて顔を見覚えている警官が、テクテクやってくるのに出会ったものですから、それをつかまえて、実はこれこれだと一部始終を話したのです。いかにも強そうなヒゲ武者の警官でしたがね。私の話を聞くと、いきなり笑い出したじゃありませんか。 「おいおい、君は世のなかにそんな間抜けな泥棒があると思うのか。ワハハハハハ、一杯かつがれたのだよ、一杯」  恐い顔をしているけれど、なかなか磊落な男です。 「しかし、私どもの立場になってみますと、なんだかうす気味がわるくてしようがないのですが、念のために一応お調べくださるわけにはいきますまいか」  私が押して言いますと、 「じゃあね、ちょうど今夜は僕があの辺を廻ることになっているから、その時分に一度行ってみて上げよう。むろん泥棒なんてきやしないけれど、どうせついでだからね。お茶でも入れておいてくれたまえ。ハハハハハ」  と、どこまでも冗談にしているのです。でもまあ、きてくれるというので私も安心して、くれぐれも忘れないようにと念を押してそのまま教会へ帰りました。  さて、その晩です。いつもなら、夜の説教でもない限り、もう九時頃になると寝てしまうのですが、今夜はなんだか気になって寝るわけにはいきません。私は警官との約束もあったので、お茶とお菓子の用意をさせて、奥の一と間で——それが信者との応接間だったのです——そこの机の前に坐って、じっと十二時になるのをまっていました。妙なもので、床の間に置いてある金庫から眼が離せないような気がするのです。そうしているうちに、すうっと中の金だけが消えてゆきやしないかなんて思われましてね。  それでも多少心配になるかして、主任も時々その部屋へやってきて、私に世間話などしかけました。なんだかばかに夜が長いように思われます。やがて、十二時近くになると、感心に約束をたがえないで、昼間の警官がやってきました。そこでさっそく奥へ上がってもらって、金庫の前で主任と警官と私と三人が車座になってお茶を飲みながら番をすることにしました。いや、番をするつもりでいたのは、たぶん私だけだったかもしれません。主任も警官も、昼間の手紙のことなんかてんで問題にしていないのです。おまわりさんなかなか議論家で、主任をつかまえて盛んに宗教論を戦わせている。先生まるでそんな議論をやるために来たようなあんばいなのです。そりゃ、テクテクくら闇の町を巡廻しているよりは、お茶を飲んで議論をしている方が愉快に違いありませんからね。なんだか私一人くよくよ心配しているのがばかばかしくなったものですよ。  しばらくしますと、しゃべりたいだけしゃべってしまった警官は、ふと気がついたように私の顔を見ながらいうのです。 「あ、もう十二時半だね。それ見たまえ、あれはやっぱりいたずらだったね」  そうなると私はいささか恥かしく、「ええ、お蔭さまで」とかなんとかあいまいに答えたのですが、すると警官が金庫の方を見て、 「で、金はたしかにその中にはいっているのだろうね」  と妙なことを聞くではありませんか。私はからかわれたような気がして、いささかむっとしたものですから、 「むろんはいっていますよ。なんならお眼にかけましょうか」  と皮肉に言いかえしたものです。 「いや、はいっていればいいがね。念のために一応調べておいた方がいいかもしれないよ。ハハハハハ」  と先方もあくまでからかってきます。私はもうしゃくにさわってしようがないものですから、 「ごらんなさい」  と言いながら、金庫の文字合わせを廻してそれをひらき、中の札束を取り出して見せました。すると警官がね、 「なるほど、そこですっかり安心してしまったわけだね」  私はうまくまねられませんけれど、そりゃあいやな言い方でしたよ。なんだか変に奥歯に物のはさまったような調子で、意味ありげにニヤニヤ笑っているのですからね。 「だが、泥棒の方にはどんな手段があるかもしれないのだ。君はこの通り金があるから大丈夫だと思っているのだろうが、これは」そういって警官はそこにおいてあった札束を手にとりながら、「これは、もうとっくに泥棒のものになっているかもしれないよ」と妙なことを言うではありませんか。  それを聞くと、私は思わずゾッと身ぶるいしました。こうなんともえたいの知れない凄い気持ですね。こんなふうに話したんじゃ、ちょっとわからないかもしれませんけれど。何十秒かのあいだ、私たちは物もいわないでじっとしていました。お互いに相手の眼の中を見つめて、何事かを探りあっているのです。 「ハハハハハ、わかったね。じゃ、これで失敬するよ」  突然、警官はそういって立ち上がりました。札束は手に持ったままですよ。それから、もう一方の手には、ポケットから取り出したピストルを油断なく私たちの方へ向けながらですよ。にくらしいじゃありませんか。そんな際にも警官の口調を改めないで、失敬するよなんていっているんですよ。よっぽど|胆《たん》のすわったやつですね。  むろん、主任も私も声を立てることもできないで、ぼんやり坐ったままでした。どぎもを抜かれましたよ。まさか戸籍調べにきて顔なじみになっておくという新手があろうとは気がつきませんや。もうほんとうの警官だと信じきっていたのですからね。  やつはそのまま部屋のそとへ出ましたが、帰るかと思うとそうじゃないのです。出たあとの襖を僅かばかりあけておいて、その隙間からピストルの筒口を私たちの方へ向けてじっとしているのです。長いあいだ少しも動かないのです。暗くてよくわからないけれど、ピストルの上の隙間からは、曲者の片方の目玉がこちらをにらんでいるような気がします………え、わかりましたか。さすがはご商売柄ですね。その通りですよ。鴨居の釘から細い紐でピストルをつり下げて、いかにも人間がねらいを定めているように見せかけたのです。しかしその時の私たちには、そんなことを考える余裕なんかありやしません。今にもズドンときやしないかという恐ろしさで一杯ですからね。しばらくして、主任の細君がそのピストルの見えている襖をあけて部屋へはいってきたので、やっと様子がわかったような始末でした。  滑稽だったのは、そうして金を盗んで行く警官を、いや警官に化けた泥棒を、主任の細君が玄関まで丁寧に送り出したことです。別に大きな声を立てたわけでも、立ち騒いだわけでもないのですから、茶の間にいた細君には少しも様子がわからなかったのです。そこを通るとき曲者は「お邪魔しました」なんて、平気で細君に声をかけたそうですよ。「まあお見送りもいたしませんで」と、細君もちょっと妙に思ったそうですが、とにかく自分で玄関まで見送ったというのです。いや大笑いですよ。  それから、寝ていた雇い人なども起きてきて大騒ぎになったのですが、その時分には、泥棒はもう十丁も先へ逃げているころでした。皆のものが期せずして|門《かど》|口《ぐち》まで駈け出しました。そして、暗い町の左右を眺めながら、あちらへ逃げた、こちらへ逃げたと、くだらない評定に時を移したものです。夜ふけですから、両側の商家なども、戸をしめてしまって、町はまっ暗です。四軒に一つか、五軒に一つくらいの割で、丸い軒燈がちらほらとさびしく光っているばかりです。するとね、向こうの横町からぽっかりと一つの黒い影が現われて、こちらへやってくるのが、どうやら警官らしいじゃありませんか。私はそれを見ると、今の泥棒がわれわれに刃向かうために、もう一度帰ってきたのじゃないかと思って、ハッとしました。そして思わず主任の腕をつかんでだまってその方を指さしたのです。  だが、それは泥棒ではなくて、今度は本物の警官でした。その警官が私たちのガヤガヤ騒いでいるのを不審に思ったとみえて、どうしたのだとたずねるのです。そこで主任と私とが、ちょうどいいところです、まあお聞きくださいというわけで、盗難の次第を話しますと、警官のいうには、今から追っかけてみたところでとてもだめだから、自分がこれから署に帰ってさっそく非常線を張るように手配をする。むろんそれはにせの警官に違いないが、そんな服装をしていれば人眼につき易いから大丈夫つかまる、安心しろということで、盗難の金額や泥棒の風体など詳しく聞きとって手帳に書きこみ、大いそぎで今きた方へ引き返して行きました。警官の口ぶりでは、もうわけもなく泥棒をつかまえ、金を取り戻すことができるような話だったので、私たちも大変たのもしく思い、一と安心したことですが、さて、なかなかどうして、そううまく行くものではありません。  きょうは警察から通知があるか、あすはとられた金が返るかと、その当座は毎日そのことばかり話しあっていました。ところが、五日たっても十日たっても、いっこう音沙汰がないではありませんか。むろん、そのあいだには、主任がたびたび警察へ出かけて様子をたずねていたのですけれど、なかなか金は返ってきそうもないのです。 「警察なんて実に冷淡なもんだ。あの調子ではとても泥棒はつかまらないよ」  主任はだんだん警察のやり方に愛想をつかして、司法主任が横柄なやつだとか、このあいだの警官が、あんなに請合っておきながら、近頃では自分の顔を見ると逃げまわっているとか、いろいろ不平をこぼすようになりました。そうして半月とたち一と月と過ぎましたが、やっぱり泥棒は捕まらないのです。信者たちも寄り合いなどを開いて大騒ぎをやっているのですが、なにぶんそんな宗旨の信者のことですから、さてどうしようという智恵も出ないのです。そこで、とられたものはとられたものとして、警察にまかせておいて、改めて寄付金の募集に着手することになりました。そして、例の主任の巧みな弁説によって相当の成績を上げ、結局、予定に近い寄付金が集まって、増築の方はまあ計画通りうまくいったのですが、それはこのお話しに関係がないから略するとして。  さて、盗難事件から二た月ばかりのちの或る日のことです。私は所用があってA市から五、六里隔たったところにあるY町まで出かけたことがあります。Y町には近郷でも有名な浄土宗の寺院があるのですが、ちょうど私の行った日は一年に一度の盛大なお説教がはじまっていて、七日のあいだとか、その寺院の付近一帯はお祭り騒ぎをやっているのです。軽業だとか因果者師だとかのかけ小屋が幾つも建てられ、いろいろなたべ物や玩具の露店が軒を並べ、ドンチャン、ドンチャンと大変な騒ぎです。  用事をすませた私は、別に急いで帰る必要もなかったものですから、時候は長閑な春のことであり、陽気な音楽や人声につられて、ついその盛り場へ足を踏み入れ、あちらの見世物、こちらの物売りと、人だかりの背後からのぞいて廻ったものです。  あれはなんでしたっけ、確か歯の薬を売っている|香《や》具|師《し》の人だかりだったと思います。大きな男が太いステッキを振り廻して、なんだかしゃべっているのが、大勢の頭の隙間から見えていました。それがいかにも面白そうなので、私は人だかりの大きな輪のまわりを、あちらこちらと、一ばんよく見えそうな場所を探して歩きまわっていました。するとね、その見物人の中にまじっていた一人の田舎紳士風の男が、ヒョイと背後をふり向いたのですが、それを見た私はハッとして、思わず逃げ出そうとしました。なぜといって、その男の顔がいつかの泥棒にそっくりだったのです。ただ違うところは、警官にばけていた時分には、鼻の下からあごから一面にひげをはやしていたのが、今は綺麗にそり落とされていた点です。ひょっとしたら、あれは顔形をかえるためのつけひげだったのかもしれません。実に驚きましたね。  しかし、一度は逃げ出そうと身構えまでしたのですが、よく先方の様子を見ますと、別段私に気がついたふうでもなく、また向こうを向いてじっと中の口上を聞いていますので、先ずこれなら安心だと、その場を去って、少し離れたおでん屋のテント張りのうしろからそっとその男を注意していました。  私はもう胸がドキドキしているのです。一つはこわさ、一つは泥棒を見つけたうれしさでね。なんとかして、こいつのあとをつけて、住所を確かめ、警察へ教えてやることができたら、そして、もし盗まれた金が一部でも残っているようだったら、主任をはじめ信者たちもどれほど喜ぶだろう。そう思うとなんだかこう自分が劇中の人物になったような気がして、異様な興奮をおぼえるのです。だが、もう少し様子を見てこの男がほんとうにあの時の泥棒かどうかを確かめる必要があります。人違いをやっては大変ですからね。  しばらく待っていますと、彼は人だかりを離れてブラブラ歩き出しました。が、見れば二人連れなんです。私はその時まで気がつかずにいたのですが、さっきからその男の隣に同じような服装の男が立っていたのが、友だちだったと見えます。なあに、一人でも二人連れでもあとをつけるに変りはないと、私は見つからないように用心しながら、人ごみのことですから二、三間の間隔で、彼らのあとからついて行きました。あなたはご経験がありますか。人を尾行するのは実にむずかしい仕事ですね。用心しすぎれば見失いそうだし、見失うまいとすれば、どうしても自分のからだを危険にさらさねばならず、小説で読むように楽なもんじゃありませんね。で、彼らが、二、三丁も行ったところで一軒の料理屋へはいった時には、私はホッとしましたよ。ところが、その時に、彼らが料理屋へはいろうとした時にですね、私は又もや大変なことを発見したのです。というのは、二人のうちの泥棒でない方の男の顔が、不思議じゃありませんか、あの時泥棒を捕まえてやろうといったもう一人の警官にそっくりだったのです。いや待ってください。それでもうわかったなんて、いくらあなたが小説家でも、そいつは少し早すぎますよ。まだ先があるのです。もうしばらく辛抱して聞いてください。  さて、二人の男が料理屋へはいったのを見て、私はどうしたかといいますと、これが小説だと、その料理屋の女中にいくらか握らせて、二人の隣の部屋へ案内してもらい、襖に耳をあてて話し声でも聞くところなんでしょうが、滑稽ですね、私はそのとき料理屋へ上がるだけの持ち合わせがなかったのですよ。財布の中には汽車の往復切符の半分と、たしか一円足らずの金しかはいっていなかったのです。そうかといって、あまりに不思議なことで、警察へ届けるという決断もつかず、またそんなことをしているうちに、逃げられるという心配もあったものですから、ご苦労さまにも、私は料理屋の前にじっと張り番をしていました。  そうしていろいろと考えてみますと、どうもこれは、あの時あとから来た警官もにせ物だったと見るほかはありません。実にうまく考えたものですね。前の半分はよくあるやつで、さして珍らしくもないでしょうが、あとの半分、つまりにせ物の次に又同じにせ物を出すという手は、いかにもよくできてますよ。同じからくりが二つも重なっていようとは、ちょっと考えられませんし、それに相手がおまわりさんですから、今度こそ本物だろうと、たれしも油断しまさあね。こうしておけば、ほんとうの警察に知れるのはずっとあとになり、充分遠くまで逃げることができますからね。  ところが、そう考えてふと気がついたのは、もしやつらが同類だとすると、ちょっと辻つまの合わない点があることです。ええ、そうですよ。その点ですよ。教会の主任はあれから警察へたびたび出頭したのですから、あとの警官もにせ物だったらすぐわかるはずです。さあ、私は何がなんだかさっぱりわけがわからなくなってしまいました。  一時間も待ったでしょうかね。やがて二人は赤い顔をして料理屋から出てきました。私はむろん彼らのあとをつけました。彼らは盛り場を離れてだんだんさびしい方へ歩いて行きましたが、ある町角へくると、ちょっと立ち止まってうなずきあったまま、そこで二人は別かれてしまったのです。私はどちらの跡をつけたものかと、ちょっと迷いましたが、結局金を持って行った方の、つまり最初に発見した男を尾行することにしました。彼は酔っているので、いくらかヒョロヒョロしながら、町はずれの方へと歩いて行きます。あたりはますます淋しくなって、尾行するのがよほどむずかしくなってきました。私は半丁もうしろから、なるべく軒下の蔭になったところを選んで、ビクビクものでついて行きました。そうして歩いているうちに、いつの間にか、もう人家のないような町はずれへ出てしまったのです。見ると行く手にちょっとした森があって、中に何かの社が祭ってある、鎮守の森とでもいうのでしょうね、そこへ男はドンドンはいって行くではありませんか。私はどうやら薄気味がわるくなってきました。まさかやつの住居がその森の奥にあるわけでもありますまい。いっそ断念して帰ろうかと思いましたが、折角ここまで尾行してきたのを、今さら中止するのも残念ですから、私は勇気を出して、なおも男のあとをつけました。ところが、そうして森の中へ一歩足を踏み入れた時です。私はギョッとして思わず立ちすくんでしまいました。すっと向こうの方へ行っているとばかり思っていた男が、意外にも、大きな樹の幹のうしろからひょいと飛び出して、私の眼の前に立ちふさがったじゃありませんか。彼はずるそうな笑いを浮かべて私の方をじっと見ているのです。  そこで、私は今にも飛びかかってきやしないかと、思わず身構えをしたのですが、ど胆をぬかれたことには、相手は、 「やあ、しばらくだったね」  と、まるで友だちにでも逢ったような調子で話しかけるのです。いや、世の中にはずうずうしいやつもあったもんだと、これにはあきれましたね。 「一度お礼に行こうと思っていたんだよ」  と、そいつがいうのです。 「あの時は実に痛快にやられたからね。さすがのおれも、君んとこの大将には、まんまと一杯食わされたよ。君、帰ったらよろしくいっといてくれたまえな」  むろん、なんのことだかわけがわかりません。私はよっぽど変な顔をしていたとみえます。そいつは笑い出しながらいうのです。 「さては君までだまされていたのかい。驚いたね。あれはみんなにせ札だったのだよ。ほんものなら、五千円もあったから、ちょっとうまい仕事なんだが、だめだめ、みんなよくできたにせ物だったよ」 「え、にせ札だって、そんなばかなことがあるもんか」  私は思わずどなりました。 「ハハハハハ、びっくりしているね。なんなら証拠を見せて上げようか。ほら、ここに一枚二枚三枚と、三百円〔註、今の十万円以上〕あるよ。みんな人にくれてしまって、もうこれだけしか残っていないんだ。よく見てごらん、上手にできているけれど、まるきりにせ物だから」  そいつは財布から百円札を出して、それを私に渡しながらいうのです。 「君はなんにも知らないもんだから、おれの住居をつき止めようとして、ついてきたのだろうが、そんなことをしちゃ大変だぜ。君んとこの大将の身の上だぜ。信者をだましてまき上げた寄付金をにせ札とすり替えたやつと、それを盗んだやつと、どちらが罪が重いか、言わなくてもわかるだろう。君、もう帰った方がいいぜ、帰ったら大将によろしく伝えてくれたまえ、おれが一度お礼に行きますといっていたとな」  そう言ったまま男はさっさと向こうへ行ってしまいました。私は三枚の百円札を手にして、長いあいだぼんやりとつっ立っていました。  なるほど、そうだったのか。それですっかり話しの辻つまがあうわけです。今の二人が同類だったとしても不思議はありません。主任がたびたび警察へ様子を聞きに行ったなんて、皆でたら目だったのです。そうしておかないと、ほんとうに警察沙汰になって、泥棒が捕まっては、にせ札のことがばれてしまいますからね。予告の手紙がきた時にも驚かなかったはずです。にせ物ならこわくはありませんや。それにしても、山師だったとは思いましたが、こんな悪事を働いていたとは意外です。先生、ひょっとしたら例の相場に手を出してしくじったのかもしれません。それで、どこかからにせ札を仕入れてきて——シナ人なんかに頼むと精巧なものが手にはいると言いますから——私や信者の前を取りつくろっていたのかもしれません。そういえばいろいろ思いあたる節もあるのです。よく今まで、信者の方から警察へ漏れなかったものですよ。私は泥棒から教えられるまで、そこへ気がつかなかった自分の愚かさが腹立たしく、その日は家に帰っても終日不愉快でした。  それからというもの、なんだか変なぐあいになってしまいましてね。まさか古い知り合いの主任の悪事を表ざたにするわけにもいきませんから、だまっていましたけれど、なんとなく居心地がよくないのです。今まではただ身持がわるいというくらいのことでしたが、こんなことがわかってみると、もう一日も教会にいる気がしないのです。その後間もなく、ほかに仕事が見つかったものですから、すぐ暇をとって出てしまいました。泥棒の下働きはいやですからね。私が教会を離れたのはこういうわけからですよ。  ところがね。お話しはまだあるのです。作り話しみたいだというのはここのことなんです。例のにせ札だという三百円はね、思い出のために、それからずっと財布の底にしまっていたのですが、ある時私の女房が——こちらへきてからもらったのです——その中の一枚をにせ札と知らずに月末の支払いに使ったのです。もっともそれはボーナス月で、私のような貧乏人の財布にもいくらかまとまった金がはいっているはずでしたから、女房の間違えたのも無理はありません。そして、なんとそれが無事に通用したではありませんか。ハハハハハ。どうです。ちょっと面白い話しでしょう。え、どういうわけだとおっしゃるのですか。いや、そいつはその|後《ご》別に調べてもみませんから、今もってわかりませんがね。私の持っていた三百円がにせ物でなかったことだけは事実ですよ。あとの二枚も引つづいて女房の春着代になってしまったくらいですからね。  泥棒のやつ、あの時、実は本物の札を盗んでおきながら、私の尾行を逃れるためににせ札でもないものをにせ札だといって、私をだましたのかもしれません。ああして、惜しげもなくほうり出して見せれば、それも十円や二十円のはした金ではないのですから、誰れしもちょっとごまかされますよ。現に私も泥棒の言葉をそのまま信用してしまって、別段深く調べてもみなかったのです。しかし、そうだとすると、主任を疑ぐったのは実にすまないわけです。それからもう一人の、泥棒を捕まえてやると言った警官ですね。あれはいったい本物なのでしょうか、にせ物なのでしょうか。私が主任を疑ぐった動機は、あの警官が泥棒と一緒に料理屋へ上がったりしたことですが。今になって考えてみると、あの男は本物の警官でありながら、後になって泥棒に買収されていたのかもしれません。又、ひょっとしたら、職務上ああして目星をつけた男とつきあって、つまり探偵をしていたのかもしれません。主任の日頃の行状が行状だったものですから、私はついあんなふうに断定してしまったのですけれど。  そのほかにも、まだいろいろの考え方がありますよ。たとえば泥棒のやつ、にせ札のつもりで、うっかりほかの本物を私に渡したと考えられないこともありませんからね。いや、結末が甚だぼんやりしていて、話のまとまりがつかないようですが、なあに、もし探偵小説になさるのだったら、このうち、どれかにきめてしまえばいいわけですよ。いずれにしても面白いじゃありませんか。とにかく、私は泥棒からもらった金で女房の春着を買ったわけですからね。ハハハハハ。    ㈽     断崖  春、K温泉から山路をのぼること一マイル、はるか目の下に溪流をのぞむ断崖の上、自然石のベンチに肩をならべて男女が語りあっていた。男は二十七、八歳、女はそれより二つ三つ年上、二人とも温泉宿のゆかたに丹前をかさねている。 [#折り返して1字下げ] 女「たえず思いだしていながら、話せないっていうのは、息ぐるしいものね。あれからもうずいぶんになるのに、あたしたち一度も、あの時のこと話しあっていないでしょう。ゆっくり思い出しながら、順序をたてて、おさらいがしてみたくなったわ。あなたは、いや?」 男「いやということはないさ。おさらいをしてもいいよ。君の忘れているところは、僕が思い出すようにしてね」 女「じゃあ、はじめるわ……最初あれに気づいたのは、ある晩、ベッドの中で、斎藤と抱きあって、頬と頬をくっつけて、そして、斎藤がいつものように泣いていた時よ。くっつけ合った二人の頬のあいだに、涙があふれて、あたしの口に塩っぱい液体が、ドクドク流れこんでくるのよ」 男「いやだなあ、その話は。僕はそういうことは、くわしく聞きたくない。君の露出狂のお相手はごめんだよ。しかも、君のハズだった人との閨房秘事なんか」 女「だって、ここがかんじんなのよ。これがいわば第一ヒントなんですもの。でも、あなたおいやなら、はしょって話すわ……そうして斎藤があたしを抱いて、頬をくっつけ合って泣いていた時に、ふと、あたし、あら、変だなと思ったのよ。泣き方がいつもよりはげしくて、なんだか別の意味がこもっているように感じられたのよ。あたし、びっくりして、思わず顔をはなして、あの人の涙でふくれあがった眼の中をのぞきこんだ」 男「スリルだね、閨房の蜜語がたちまちにして恐怖となる。君はその時、あの男の眼の中に、深い憐愍の情を読みとったのだったね」 女「そうよ。おお、可哀そうに、可哀そうにと、あたしを心からあわれんで泣いていたのよ……人間の眼の中には、その人の一生涯のことが書いてあるわね。まして、たった今の心持なんか、初号活字で書いてあるわ。あたし、それを読むのが得意でしょう。ですから、一ぺんにわかってしまった」 男「君を殺そうとしていることがかい」 女「ええ、でも、むろんスリルの遊戯としてよ。こんな世の中でも、あたしたち、やっぱり退屈していたのね。子供はお|仕《し》|置《おき》されて、押入れの中にとじこめられていても、その闇の中で、何かを見つけて遊んでいるわ。おとなだってそうよ。どんな苦しみにあえいでいる時でも、その中で遊戯している。遊戯しないではいられない。どうすることもできない本能なのね」 男「むだごとをいっていると、日が暮れてしまうよ。話のさきはまだ長いんだから」 女「あの人、ちょっと残酷家のほうでしょう。あたしはその逆なのね。そして、お互いに夫婦生活の倦怠を感じていたでしょう。むろん愛してはいたのよ。愛していても、倦怠がくる。わかるでしょう」 男「わかりすぎるよ。ごちそうさま」 女「だから、あたしたち、何かゾッとするような刺戟がほしかったの。あたしはいつもそれを求めていた。斎藤の方でも、そういうあたしの気持を充分知っていた。そして、何かたくらんでいるらしいということは、うすうす感じていたんだけれど、あの晩、あの人の眼の中をのぞくまでは、それがなんだかわからなかった……でも、ずいぶんたくらんだものねえ。あたしギョッとしたわ。まさかあれほど手数のかかるたくらみをしようとは思っていなかったのよ。でも、ゾクゾクするほど楽しくもあったわ」 男「君があの男の眼の中に深い憐愍を読みとった。それもあの男のお芝居だったんだね。そのお芝居で、君に第一ヒントをあたえたんだね。それで、次の第二ヒントは?」 女「紺色のオーバーの男」 男「同じ紺色のソフトをかむって、黒目がねをかけて、濃い口ひげをはやした」 女「その男を、あなたが最初にみつけたのね」 男「うん、なにしろ僕は君のうちの居候で、君たち夫婦のお抱え道化師で、それから第三に、売れない絵かきだったんだからね。ひまがあるから町をぶらつくことも多い。紺オーバーの男が君のうちのまわりをウロウロしているのを、第一に気づいたのも僕だし、角の喫茶店で、その紺オーバーが、君のうちの家族のことや間取りなんかまで、根ほり葉ほりたずねていたということを、喫茶店のマダムから聞き出して、君に教えてやったのも僕だからね」 女「あたしもその男に出会った。勝手口のくぐり門のそとで一度、表門のわきで二度。紺のダブダブのオーバーのポケットに両手を突っ込んで、影のように立っていた。何かまがまがしい影のように突っ立っていた」 男「最初はどろぼうかもしれないと思ったんだね。近所の女中さんなんかも、そいつの姿を見かけて、注意してくれた」 女「ところが、それはどろぼうよりも、もっと恐ろしいものだったわね。斎藤の憐愍の涙を見た時、あたしのまぶたに、パッとその紺オーバーの男がうかんできたのよ。これが第二ヒント」 男「そして、第三ヒントは探偵小説とくるんだろう」 女「そうよ。あなたが、あたしたちのあいだに、はやらせた探偵趣味よ。斎藤もあたしも、もともとそういう趣味がなかったわけではないわ。でも、あんなに理窟っぽくクネクネと、トリックなんかを考えるようになったのは、あなたのせいよ。あの頃は少し下火になっていたけれど、半年ほど前は絶頂だったわね。あたしたち毎晩、犯罪のトリックの話ばかりしていた。中でも斎藤は夢中だったわ」 男「その頃、あの男の考え出した最上のトリックというのが……」 女「そう、一人二役よ。あの時の研究では、一人二役のトリックにはずいぶんいろんな種類があったわね。あなた表を作ったでしょう。今でも持っているんじゃない?」 男「そんなもの残ってやしない。しかし覚えているよ。一人二役の類別は三十三種さ。三十三のちがった型があるんだ」 女「斎藤はその三十三種のうち、架空の人物を作り出すトリックが第一だという説だったわね」 男「たとえば一つの殺人をもくろむとする。できるならば実行の一年以上も前から、犯人はもう一人の自分を作っておく。つけひげ、目がね、服装などによる、ごく簡単な、しかし巧妙な変装をして、遠くはなれた別の家に別の人物となって住み、その架空の人物を充分世間に見せびらかしておく。つまり二重生活だね。ほんものの方が仕事と称して外出している時間には、架空の方が自宅にいる。架空の方は何か夜間の勤めをしていると見せかけ、その出勤時間にはほんものが自宅にいる。ときどきどちらかに旅行でもさせれば、このごまかしはずっと楽になるわけだね。そして、最好の時期を見て、架空の方が殺人をやるんだが、その直前直後に自分の姿を二、三人の人に見せて、犯人は架空の人物にちがいないと思いこませる。いよいよ目的をはたしたら、そのまま架空の方を消してしまう。変装の品々は焼き捨てるか、おもりをつけて川の底にでも沈める。架空のほうの住宅へはいつまでたっても主人が帰ってこない。|杳《よう》として行方を知らずというわけだね。そして、ほんものの方は何くわぬ顔で今まで通りの生活をつづける。そうすれば、この事件は、もともと架空の人間の犯罪だから、犯人の探しようがない。いわゆる完全犯罪というやつだね」 女「あの人はこれがあらゆる犯罪トリックのうちで最上のものだと、恐ろしいほど熱中して話したわね。あたしたち、すっかり説きふせられてしまったでしょう。ですから、あたし、あの架空犯人のトリックのことは、ずうっと忘れないでいたのよ。それに、もう一つ日記帳ってものがあったの。あの人はあたしが探し出すことを、ちゃんと予想して、自分の日記帳をかくしていた。ひどくむずかしい場所にかくしたものよ。でも、もともとあたしに見せるための日記だから、心の底の秘密は書いていない。あとでわかったあの女のことだって、一行も書いてないのよ」 男「見せ消しというやつだね。見せ消しというのは校訂家の使う言葉なんだが、昔の文書などに元の字が読めるように、線だけで消したのがある。読めば読めるんだね。われわれの手紙にだってよくあるよ。わざと見えるように消しておいて、そこに実はいちばん相手に読ませたいことが書いてある。あの男の日記帳はその見せ消しだよ。見せかくしかね」 女「で、あたしその日記帳を読んだのよ。すると、長い論文が書いてあった。架空犯人トリックの論文なのよ。うまく書いてあったわ。この世にまったく存在しない人間を作り出す興味。あの人、文章がうまかったわね」 男「わかったよ。懐古調はよして、先をつづけろ」 女「ウフ、そこで三つのヒントがそろったわけね。憐れみの涙、紺オーバーの怪人物、架空殺人トリックの讃美。でも、もう一つ第四のヒントがなくては完成しない。それは動機だわ。動機はあの女だった。それをあの人は日記にさえ書かなかった。そこまで書いてしまっては、まったくお芝居になって、スリルがうすらぐからよ。なんて憎らしい用心深さでしょう……女のことはあなたが教えてくれたわね。でも、あたし、うすうすは感づいていた。あの人の眼の奥に若い女がチラチラしていた。それから、ベッドの中で抱き合っていると、あたしでない女のにおいが、あの人のからだから、ほのかに漂ってきた……」 男「そこまで……それでつまり、その四つのヒントを結び合わせると、あの男のお芝居の筋はこういうことになるんだね。いわゆる見せ消しで、君にその女の存在をさとらせ、同時に憐愍の涙を流し、可哀そうだが、あの女といっしょになるためには、君がじゃまになる。しかし、君と別かれることは、生活能力のない斎藤にしてみれば、たちまち食えなくなることだから、それはできない……あの男は友だちの事業を手伝うのだといって、毎日出勤していたが、たいして俸給がはいるわけでもなかった。いわば退屈しのぎだった……君は斎藤と正式に結婚したけれども、財産は手放さなかった。戦後成金だった君の亡くなったおとうさんに譲られた財産は、君自身のものとして頑固に守っていた。夫婦の共有財産にはしなかった。あの男は君から莫大なお小遣いをせしめていたが、財産の元金には一指も触れることを許されなかった。そこで、この財産を君の意志に反して、別の女との享楽に使おうとすれば、君を殺すよりない。そうすれば正式に結婚しているのだし、君には身よりもないのだから、全財産があの男にころがりこむ。これが動機だ」 女「むろん、スリル遊戯の動機という意味ね」 男「そうだよ。しかし、真実の犯罪としても、申し分のない動機だ。そして、殺人手段は彼の讃美する架空犯人の製造……まず紺オーバーの男を充分見せつけておいて、その姿で君の寝室にしのびこみ、君を殺した上、架空の犯人を永遠にこの世から消してしまう。そして、入れちがいにもとの斎藤にもどって帰ってくる。君の死体を見て大騒ぎをやる。という順序なんだね」 女「ええ、そういうふうにあたしに思いこませ、こわがらせ、お互いにスリルを味わって楽しもうとしたわけね。子供の探偵ごっこの少し手のこんだぐらいのものだわ。でも、もしあたしがあの人の遊戯心を信じなかったとしたら、そして、ほんとうに殺意があると感じたら、これは恐ろしいスリルだわ。あの人はそこを狙ったのよ。子供の探偵ごっこよりは、ずっとこわいものを狙ったのよ」 男「子供の探偵ごっこだって、ばかにならないぜ。僕は十二、三の時、探偵ごっこをやっていて、年上の女の子といっしょに、暗い納屋の中にかくれていて、その女の子からいどまれたことがある。可愛らしい女の子が、ここでいえないような変な恰好をしたんだよ、あんな恐ろしいことはなかった。生きるか死ぬかの恐ろしさだった」 女「枝道へはいっちゃいけないわ。で、今まであたしたちが話し合った全部のことを、その晩、斎藤の涙にふくれ上がった眼をのぞきこんだ瞬間、一秒ぐらいのあいだに、ちゃんと考えてしまったのよ。あれだけの出来事を思い出して、論理的に組み合わせる。それが一秒間でできるんだわ。人間の頭の働きって、ほんとうに不思議なものね。どういう仕掛けなのかしら。口で話せば三十分もかかることが、一秒間に考えられるなんて」 男「だがね、それでどういうことになるんだい。ほんとうに君を殺す気なら、ちゃんと幕切れがあるわけだが、まったくお芝居だとすると、いつまでもケリがつかないじゃないか。ただ紺オーバーの男でおどかすだけで、おしまいなのかい」 女「そうじゃないわ。これはあたしの想像にすぎないけれど、ケリはつくのよ。紺オーバーの男は窓かなんかから忍びこんであたしの寝室にはいってくるのよ。そして、あたしに悲鳴をあげさせ、あたしがどんなはげしいスリルを感じるか、ながめてやろうというわけよ。そのあとで、まだ架空の人物のまま、あたしのベッドにはいる。他人に化けて自分の妻のベッドにはいる……」 男「悪趣味だね」 女「そうよ。あの人はそういう悪趣味の人よ。でなければこんな変てこなスリル遊戯なんか思いつきやしないわ」 男「ところが、結果はまるでちがったことになったね」 女「そう……もうこのあとは冗談ではないわ……こわかった。あたし今でもこわい」 男「僕だって、これからあとの話は、あまりいい気持がしないね。しかし、話してしまおう。この無人境の崖の上で、一度だけおさらいをしよう。そうすれば、君だって、いくらか気分が軽くなるかもしれないぜ」 女「ええ、あたしもそう思うの……その晩から日を置いて三度、同じようなことがあったのよ。そして、頬をくっつけて涙を流すあの人の泣き方が、だんだんはげしくなるばかりなの……おやっ変だなと思うことが、幾度もあった。あたし、そのたびに、急いで顔をはなして、あの人の眼の奥をのぞいたけれども、もうわからなかった。ただ邪推よ。あたしは恐ろしい邪推をしたのよ」 男「あの男がほんとうに君を殺すと思ったんだね」 女「ふと、あの人の眼が、こう言ってるように見えたのよ……おれは架空の人物を作って、お前にスリルを味わわせようとたくらんでいる。はじめはそのつもりだった。しかし、今ではもう、これがお芝居で終るかどうか、おれにも判断がつかなくなった。おれはほんとうにお前を殺しても、まったく安全なんだ。そして、お前の財産がおれのものになるのだ。おれはその魅力に負けてしまうかもしれない。実をいうと、おれはお前よりもあの女の方を何倍も愛している。可哀そうだ。お前が可哀そうでたまらない……あの人がそんなふうに、声をふりしぼって、泣き叫んでいるようにさえ感じられた。あの人の眼から涙がとめどもなくあふれた。それがゴクゴクとあたしの喉へ流れこんできた。あの人とあたしの、てんでの妄想が、まっ暗な空間でもつれあって、ごっちゃになって、あたしはもう、どうしていいのかわけがわからなくなってしまった」 男「僕に相談をかけたのは、その頃なんだね」 女「そうよ。今いった不安を、あなたにうちあけたわね。すると、あなたは、君の思いすごしだ、そんなばかなことがあるものかと、あたしを笑ったわ。でも、笑っているあなたの眼の奥に、チラッと疑いの影があった。あなたも、もしかしたらと、一抹の不安を感じていることが、あたしにはよくわかったのよ」 男「しかし、僕はあの時、そういう不安を意識してはいなかったね。君のような千里眼にかかっちゃかなわない。相手の無意識の中までさぐり出すんだからね」 女「あたし、あの人の眼を見るのがこわくなった。また、こちらがこわがっていることを、あの人に悟られるのが恐ろしかった。そして、とうとう、ピストルのことまで気を廻すようになった……ある夕方、門のそとで、また紺オーバーの男に出会ったのよ。あの男はいつも夕方か夜しか姿をあらわさなかった。変装を見破られることをおそれたのだわ。その時も、うすぐらくて、はっきり見えなかったけれど、あの男があたしを見て、ニヤッと笑ったような気がしたのよ。斎藤の変装ということがわかっていても、あたしゾーッとしないではいられなかった。そして、その刹那、なぜかハッとピストルのことを思い出したのよ。あの人の書斎の机の引出しにかくしてあるピストルのことを」 男「ピストルのことは僕も知っていた。あの男は禁令を破って、こっそりとピストルを手に入れていたね。いつも実弾をこめて、引出しの底の方にしまってあった。別に何に使おうというのじゃない。ただ手にはいったから持っているんだと言っていた」 女「あたし、そのピストルを、紺オーバーの男が、いつも身につけているんじゃないかと思って、ギョッとしたのよ。それで、あわてて書斎にとびこんで、引出しをあけてみると、ピストルはちゃんと元の場所にあった。あたし一時はホッとしたけれど、すぐに、あの人が架空の犯人に斎藤の持ち物であるこのピストルを持たせるような、間抜けなことをするはずがないと気づいた。紺オーバーの男は別のピストルを手に入れたかもしれない。もっとほかの兇器を用意しているかもしれない。ピストルが元の場所にあったからといって、決して油断はできない。そう考えると、あたしはいよいよ不安になった」 男「そこで、君はあのピストルを、自分で持っていようと決心したんだね」 女「ええ、その方がいくらか安心だと思ったの。それで、あたし、ピストルを自分の部屋にうつして、夜はベッドの中へ持ってはいることにしたのよ」 男「悪いものがあったねえ。あれさえなければ……」 女「あたし、あなたにたずねたわね。紺オーバーの男が、あたしの寝室へはいってきたとして、その時あたしがピストルであの男をうったら、どんな罪になるでしょうかって」 男「そうだったね。僕はあの時、見知らぬ男が暴力で屋内に侵入して、寝室にまで踏みこんできたら、男の方に危害を加える意味がなかったとしても、正当防衛は成り立つ。たとえ相手をうち殺しても、罪にはならないと答えた。事実それにちがいないんだが、今から考えると悪いことを言った」 女「そして、とうとうあの男がやってきた。もうくるかもうくるかと、斎藤の不在の夜は、そればっかり待っていたほどよ。十二時すぎ、あの男は塀をのりこえ、廊下の窓からしのびこんで、足音も立てないで、あたしの寝室のドアをひらいた。紺オーバーを着たまま、ソフトをかぶったまま、黒目がねと濃い口ひげが、たびたび出会ったあの男にちがいなかった。あたしは眼をつむって寝たふりをしながら、まつげのすきまから、じっと男を見ていた。ピストルはいつでもうてるように、ふとんの中でにぎりしめていた」 男「…………」 女「あたし、心臓が破れそうだった。早くピストルがうちたかった。でも、じっと我慢して、まつげのすきまから見ていた……あの男は両手をオーバーのポケットに突っ込んだまま、ヌーッと立っていた。あたしが寝たふりをしているのを、ちゃんと見抜いているようだった。そのにらみ合いが、まる一時間もつづいたような気がした。あたしは、いきなりベッドから飛びおりて、ギャーッと叫びながら、逃げ出したいのを、歯をくいしばって、こらえていた」 男「…………」 女「とうとう、あの男は、大またにベッドに近づいてきた。電気スタンドの笠の蔭になっていたけれど、あの男の顔が大きく、はっきり見えた。器用に変装していても、あたしには、斎藤だということが、はっきりわかった……あの男は黒目がねの中で笑っているように見えた。そして、いきなりベッドの上に上半身をまげて、おそいかかってきた。その時、あの短刀は、ふとんの襟が邪魔になって見えなかったけれど、あたしはもう無我夢中だった。あたしはふとんの中からソッとピストルの先を出して、男の胸にむけていきなり引き金をひいた……あたし、ピストルを突きつけながら、問答するなんて、そんな余裕はとてもなかったわ。もう、うちたくって、うちたくって、気が狂いそうだった……ピストルの音をきいて、あなたと女中がかけつけた時には、あの男は胸をうたれて息がたえていたし、あたしはベッドの上に気を失っていたのね」 男「僕は最初、何がなんだかわからなかった。しかし、ちょっとのまに、やっぱりそうだったのかと悟った。あの男の死骸のそばに、抜きはなった短刀がおちていた」 女「警察の人たちが来た。それから、あたしは検察庁へ呼ばれた。あなたも呼ばれたわね。あたしは少しも隠さないでほんとのことを言った。検事はあたしたちの遊戯三昧の生活を非難して、長いお説教をした。そして、あたしは不起訴になった。短刀があったので、あの男の殺意を疑うことができなかったのだわ。それから、あたしは病気になるようなこともなく、あの人の葬式も無事にすませ、一と月ほど家にとじこもっていた。あなたが毎日慰めてくれたわね。身よりもないし、親友もないし、あたし、あなた一人がたよりだったわ……それから、斎藤の女のことも、あなたがちゃんとケリをつけてくれた」 男「あれからやがて一年になる。君と正式に結婚の手続きをしてからでも五カ月だ……さあ、ポツポツ帰ろうか」 女「まだお話があるのよ」 男「まだ? もうすっかり、おさらいをすませたじゃないか」 女「でも、今まで話したことは、ほんのうわっつらだわ」 男「え、うわっつらだって? あれほど心の底をさぐるような分析をしてもかい?」 女「いつでも、真にほんとうのことってのは、一ばん奥の方にあるわよ。その奥の方のことは、まだあたしたち話さなかった」 男「なにを考えてるのか知らないが、君は少し神経衰弱じゃないのかい」 女「あなた、怖いの?」 [#ここで字下げ終わり]  男の眼がスーッと澄んだように見えた。しかし、表情はほとんど変わらなかった。身動きさえしなかった。女はおしゃべりの昂奮で、ほの赤く上気していた。眼がギラギラ光り、唇のすみがキュッとあがって、意地わるな微笑が浮かんでいた。 [#折り返して1字下げ] 女「他人の心を自分の思うままに動かして、一つの重罪を犯させるということができたら、その人にとっては、実に愉快だろうと思うわ。心をそういうふうに動かされたほうでは、自分たちがその人の傀儡だということを少しも気づいていないんだから、これほど完全な犯罪はないわ。これこそ正真正銘の完全犯罪じゃないかしら」 男「君は何を言おうとしているの?」 女「あなたがそういう人形使いの魔術師だってことを、言おうとしているの。でも、あなたを摘発しようなんて言うんじゃないわ。悪魔が二人、額をよせてニヤニヤ笑いながら、お互いの悪だくみの深さを|嘉《よみ》し合う、あれね。そういう意味で、もっとお互いの心の中をさらけ出したいのよ。あなたの言う露出狂だわね」 男「オイ、よさないか。僕は露出狂なんかには興味がない」 女「やっぱり、あなたは怖がっているのね。でも、話しかけたのを、このままよしてしまっては、もっとあと味がわるいでしょう。話すわ……亡くなった斎藤に探偵趣味を吹きこんだのは、あなただったわね。斎藤にはもともとその素質があった。ですから、あなたにとっては絶好の傀儡だったのよ。そして、あなたは、あの人を犯罪手段の研究に熱中させ、架空犯人のトリックに心酔させてしまった。むろん斎藤のほうで夢中になったんだけれど、あなたは実に微妙な技巧で、斎藤の物の考え方をその方向に導いて行ったのよ。話術でしょうか。いや、話術よりももっと奥のものね。あなたはそれで斎藤を自由に扱いこなした……女ができたのは、あなたのせいじゃない。斎藤が勝手に作ったんだけれど、それは道楽者の斎藤のことだから、いつだって起こりうることだったわ。あなたはそれをうまく利用したのよ」 男「…………」 女「架空犯人のトリックとあの女とを結びつけて、あたしたち夫婦のあいだのスリル遊戯を思いつくことだって、むろんあなたの力が働いていた。斎藤はそういう突飛なことを実行して喜ぶような性格なんだから、あなたが一とこと二たこと、それとない暗示を与えさえすればよかったのよ。斎藤には少しも気づかれない言葉で、しかし暗示としては恐ろしい力を持つような言葉で」 男「想像はどうにでもできる。そんな想像をするのは、君自身が途方もない悪人だということを証拠だてるばかりだ」 女「そうよ。悪人だから、悪人の気持がわかるのよ。あなたは、斎藤が思うつぼにはまって、紺オーバーの男に化けて、うちのまわりをうろつき出した時、まっ先にそれを見つけたでしょう。そして、あたしに知らせてくれたわね。あたし、その時はまだ気づかなかったけれど、あとになって思い出してみると、あなたの眼は喜びの色を隠すことができなかったのね。あの眼の意味は、ただ怪しい男を見つけたというだけのものじゃなかった。してやった、うまく行ったという歓喜が、今から考えると、あなたの眼の中に、まるではだかみたいに、さらけ出されていたわ。あたしには斎藤の涙を分析したり、架空犯人のトリックを思い出したりしなければ、判断できなかったことが、計画者のあなたには、最初からちゃんとわかっていたのだわ」 男「もうよそう。ね、もうよそう」 女「もう少しよ。もう少し言うことがあるのよ……お芝居がいつのまにか本気になって、斎藤はあたしを殺すのじゃないかと思った。それから、ピストルを手に入れて、あなたにその事を相談した。すると、あなたは芯からのように、そんなばかなことがあるものかと打ち消しながら、眼の奥に不安の色を漂わせて見せた。その上、万一ピストルで相手を殺しても、正当防衛で罪にならないということをはっきりあたしにのみこませた……これでもう、あなたは成り行きを眺めていさえすればよかったのだわ。殺人は起こるかもしれない。起こらないかもしれない。でも、起こらなかったとしても、あなたは別に損をするわけではない。もしあたしがピストルをうち、斎藤が死ねば、すっかりあなたの思う壺。なんてうまい考えでしょう。あたしたちがよく犯罪トリックのことを話し合ったころ、プロバビリティの犯罪というのが問題になったわね。可能性は充分あるけれども、必らず目的を達するかどうかはわからない。それは運命にまかせるという、あの一等ずるい、一等安全な方法よ。失敗しても、犯人はこれっぽちも疑われる心配はないんだから、何度だって、ちがった企らみをくり返すことができる。そうしているうちには、いつか目的を達する時がくる。そして、目的を達しても、犯人は絶対に疑われることがない……あなたのプロバビリティの犯罪は、斎藤の架空犯人の思いつきなんかより、一枚も二枚もうわ手だったわ」 男「僕は怒るよ。君は妄想にとりつかれているんだ。頭が変になっているんだ……僕は一人で先に帰るよ」 女「あなたの額、汗でビッショリよ。気分わるいの?……あの時、ピストルの引き金をひいた時、あたし斎藤が短刀を持っていることは知らなかった。とっさに、首をしめにくるのじゃないかとも思ったし、そうでなくて、ただ、あたしを抱くばかりかとも思った。ほんとうのことは、わからなかったのよ。それでも、あたし引き金をひいてしまった……ほんとうは、ずっと前から、心の底のほうであなたを愛していたからよ。あなたにもそれはわかっていたはずだわ……そして、引き金をひいたまま気を失ってしまった。短刀は意識をとりもどした時に、はじめて見たのよ。ですから、あの短刀は斎藤がオーバーのポケットに入れていたとも考えられるし、また、あなたが、あらかじめ用意しておいた斎藤の短刀を持ちこんで、死んだ斎藤の指紋をつけてあすこへ放り出しておいたとも考えられるわね。なぜって、ピストルの音をきいてまっ先にかけつけたのは、あなただったし、それから斎藤が短刀を持っていたとすれば、正当防衛の口実が一そう完全になるからだわ。あなたは斎藤が殺されることは望んでいたけれど、あたしが罪におちては困る。あたしを助けるためには、どんなことでもしなければならなかったのだわ」 男「おどろいた。よくもそこまで妄想をめぐらすもんだね。ハハハハハ」 女「だめよ、笑って見せようとしたって。まるでいつもの声とちがうじゃありませんか。泣いているみたいだわ……何をそんなに怖がっているの、これはここだけの話よ。たとえまったく危険のないプロバビリティの犯罪にもせよ、そういう恐ろしい企らみまでして、あたしを手に入れようとしたあなたを、あたしは決して裏切りゃしないわ。しんそこから愛しているわ。このことは二人のあいだの永久の秘密にしておきましょうね。あたしはただ、一度だけはほんとうのことを話し合っておきたいと思ったばかりよ」 [#ここで字下げ終わり]  男は無言のまま、妄想狂のお相手はごめんだと言わぬばかりに、自然石のベンチから立ちあがった。それにつれて、女も立ち、帰りみちとは反対の、崖ばなの方へ、ゆっくり歩いて行った。男は何かおずおずしながら、二、三歩あとから、女について行く。  女は崖っぷち二尺ほどの所まで進んで、そこに立ちどまった。遙か下方に幽かに溪流の音がしている。しかし溪流そのものは見えない。谷の底には薄黒いモヤがたてこめ、その深さは何十丈ともしれなかった。  女は谷の方を向いたまま、うしろの男に話しかけた。 [#折り返して1字下げ] 女「あたしたち、きょうはほんとうのことばかり話したわね。こんなほんとうのことって、めったに話せるものじゃないわ。あたし、なんだかせいせいした……でも、一つだけ、まだ話さなかったことが残っているわ。その最後のほんとうのことを言ってみましょうか……あなたの顔を見ないで言うわね……あたしははだかのあなたを愛していたのに、あなたはあたしとお金とを愛していたのでしょう。そして、今ではあたしを愛しないで、あたしの持っているお金だけを愛しているのでしょう。それがあたしにはよくわかるのよ。あなたの眼の中が読めるのよ。そして、あたしがそれにかんづいたということを、あなたの方でも知っているんだわ。ですから、きょうこんな淋しい崖の上へ、あたしを誘い出したんだわ……あなたはあたしを愛さなくなっても、あたしと離れることができない。斎藤と同じように、あなたも生活能力のない男だから。すると、あなたにできることは、たった一つしか残っていないわね……斎藤の|故《こ》|智《ち》にならって、あたしを無きものにする。そうすれば、あたしの全部の財産が|夫《おっと》であるあなたのものになる……あたし、あなたに別の愛人ができていることを、そして、今ではあなたはあたしを憎んでいることを、とうから知っていたのよ」 [#ここで字下げ終わり]  うしろから、ハッハッという男のはげしい息づかいが聞こえてきた。男のからだがソーッとこちらへ迫まってくるのが感じられた。女はいよいよその時がきたのだと思った。  背中に男の両手がさわった。その手は小きざみに烈しくふるえていた。そして、ググッと恐ろしい力で女の背中を押してきた。  女はその力にさからわず、柔かくからだを二つに折るようにして、パッと傍らに身を引いた。  男は力あまって、タタッと前に泳いだ。死にものぐるいに踏みとどまろうとした最後の一歩の下には、もう地面がなかった。男のからだ全体が、棒のように横倒しになったまま、スーッと下へおちて行った。  今まで少しも気づかなかった小鳥の声が、やかましく女の耳にはいってきた。溪流のしもての広くひらけた空を、そこにむらがる雲を、入り陽がまっ赤に染めていた。ハッとするほど雄大な、美しい夕焼けであった。  女は茫然と岩頭に立ちつくしていたが、やがて、何かつぶやきはじめた。 [#折り返して1字下げ] 女「また正当防衛だった。でも、これはどういうことなのかしら。一年前に、あたしを殺そうとしたのは斎藤だった。そのくせ、殺されたのはあたくしでなくて、斎藤の方だった。今度も、あたしを突き落とそうとしたのは、彼だった。そのくせ、崖から落ちて行ったのは、あたしでなくて、彼の方だった……正当防衛って妙なものだわ。両方とも、ほんとうの犯人はこのあたしだったのに、法律はあたしを罰しない。世間もあたしを疑わない。こんなずるいやり方を考えつくなんて、あたしはよくよくの毒婦なんだわね……あたしはこの|先《さき》まだ、幾度正当防衛をやるかわからない。絶対罪にならない方法で、幾人ひとを殺すかもわからない……」 [#ここで字下げ終わり]  夕陽は大空を焼き、断崖の岩肌を血の色に染め、そのうしろの鬱蒼たる森林を焔と燃え立たせていた。岩頭にポッツリと立つ女の姿は、小さく小さく、人形のように可愛らしく、その美しい顔は桃色に上気し、つぶらな眼は、大空を映して異様に輝いて見えた。  女はそのままの姿勢で、大自然の微妙な、精巧な装飾物のように、いつまでも、身動きさえしなかった。    兇器      1 「アッ、助けてえ!」という金切り声がしたかと思うと、ガチャンと大きな音がきこえ、カリカリとガラスのわれるのがわかったって言います。主人がいきなり飛んで行って、細君の部屋の襖をあけてみると、細君の美弥子があけに染まって倒れていたのです。  傷は左腕の肩に近いところで、傷口がパックリわれて、血がドクドク流れていたそうです。さいわい動脈をはずれたので、吹き出すほどでありませんが、ともかく非常な出血ですから、主人はすぐ近所の医者を呼んで手当てをした上、署へ電話をかけたというのです。捜査の木下君と私が出向いて、事情を聴きました。  何者かが、窓をまたいで、部屋にはいり、うしろ向きになっていた美弥子を、短刀で刺して逃げ出したのですね。逃げるとき、窓のガラス戸にぶつかったので、その一枚がはずれてそとに落ち、ガラスがわれたのです。  窓のそとには一間幅ぐらいの狭い空き地があって、すぐコンクリートの万年塀なのです。コントリートの板を横に並べた組み立て式の塀ですね。そのそとは住田町の淋しい通りです。私たちは万年塀のうちとそとを、懐中電灯で調べてみたのですが、ハッキリした足跡もなく、これという発見はありませんでした。  それから、主人の佐藤寅雄……三十五歳のアプレ成金です。少し英語がしゃべれるので、アメリカ軍に親しくなって、いろいろな品を納入して儲けたらしいのですね。今はこれという商売もしないで遊んでいるのです。しかし、なかなか利口な男で、看板を出さない金融業のようなことをやって、財産をふやしているらしいのですがね……その佐藤寅雄とさし向かいで、聞いてみたのですが、細君の美弥子は二十七歳です。新潟生れの美しい女で、キャバレーなんかにも勤めたことがあり、まあ多情者なんですね。いろいろ男関係があって、佐藤と結婚するすぐ前の男が執念ぶかく美弥子につきまとっているし、もう一人あやしいのがある。犯人はそのどちらかにちがいないと、佐藤が言うのです。  私は警察にはいってから五年ですが、仕事の上では、あんな魅力のある女に出会ったことがありませんね。佐藤はひどく惚れこんで、それまで同棲していた男から奪うようにして結婚したらしいのです。その前の男というのは、関根五郎というコック……コックと言っても相当年季を入れた腕のあるフランス料理のコックですが、これと同棲していたのを、佐藤が金に物を言わせて手に入れたのですね。  もう一人の容疑者は青木茂という不良青年です。美弥子はこの青年とも以前に関係があって、青木の方が惚れているのですね。佐藤と結婚してからは、美弥子は逃げているのに、青木がつきまとって離れないのだそうです。不良のことですから、あつかましく佐藤のうちへ押しかけてきたり、脅迫がましいことを口走ったりして、うるさくて仕方がないというのです。  この青木は見かけは貴族の坊ちゃんのような美青年ですが、相当なやつで、中川一家というグレン隊の仲間で、警察の厄介になったこともあるのです。これが、美弥子に愛想づかしをされたものだから、近頃では凄いおどし文句などを送ってよこすらしく、美弥子は「殺されるかもしれない」といって怖がっていたと言います。  主人の佐藤は、この二人のほかには心当たりはない。やつらのどちらかにきまっている。美弥子はうしろからやられて、相手の顔を見なかったし、ふりむいたときには、もう窓から飛び出して、暗やみに姿を消していたので、服装さえもハッキリわからなかったが、やっぱり、その二人のうちのどちらかだと言っている。それにちがいないと断言するのです。そこで、私はこの二人に当たってみました……いや、その前にちょっとお耳に入れておくことがあります。いつも先生は「その場にふさわしくないような変てこなことがあったら、たとえ事件に無関係に見えても、よく記憶しておくのだ」とおっしゃる、まあそういったことですがね。  医者が来て美弥子の手当てがすみ、別室に寝させてから、主人の佐藤は事件のあった部屋を念入りに調べたのだそうです。刃物を探したのですよ。美弥子の刺された刃物は普通の短刀ではなくて、どうも両刃の風変わりな兇器らしいのですが、ずいぶん探したけれども、どこにもなかったというのです。  私が、その辺にころがっていなければ、むろん犯人が持って逃げたにきまっているじゃないか、何もそんなに探さなくてもと言いますと、いやそうじゃない。これは、ひょっとしたら美弥子のお芝居かもしれない。あいつは恐ろしく変わり者のヒステリー女だから、何をやるか知れたものじゃない。だから念のために、刃物がどこかに隠してないか調べてみたのだというのです。  しかし、美弥子のいた部屋の押入れやタンスを調べても、鋏一梃、針一本見つからなかった。庭には何も落ちていなかった。そこではじめて、これは何者かがそとから忍びこんだものだと確信したというのです。  相手の話がおわると、アームチェアに埋まるようにして聞いていた明智小五郎が、モジャモジャ頭に指を突っ込んで、合槌を打った。 「面白いね。それには何か意味がありそうだね」  この名探偵はもう五十を越していたけれど、昔といっこう変わらなかった。顔が少し長くなり、長くて痩せた手足と一そうよく調和してきたほかには、これという変化もなく、頭の毛もまだフサフサとしていた。      2  明智小五郎はお|洒《しゃ》|落《れ》と見えないお洒落だった。顔はいつもきれいにあたっていたし、服も彼一流の好みで、凝った仕立てのものを、いかにも無造作に着こなしていた。頭の毛を昔に変わらずモジャモジャさせているのも、いわば彼のお洒落の一つであった。  ここは明智が借りているフラットの客間である。麹町采女町に東京唯一の西洋風な「麹町アパート」が建ったとき、明智はその二階の一区劃を借りて、事務所兼住宅にした。アパートは帝国ホテルに似た外観の建築で、三階建てであった。明智の借りた一区劃には広い客間と、書斎と、寝室とのほかに、浴槽のある化粧室と、小さな台所がついていた。食堂を書斎に変えてしまったので、客と食事するときは近くのレストランを使うことにしていた。  明智夫人は胸を患らって、長いあいだ高原療養所にはいっているので、彼は独身同然であった。身のまわりのことや食事の世話は、少年助手の小林芳雄一人で取りしきっていた。手広いフラットに二人きりの暮らしであった。食事といっても、近くのレストランから運んできたのを並べたり、パンを焼いたり、お茶をいれたりするだけで、少年の手におえぬことではない。  その客間で明智と対座しているのは、港区のS署の鑑識係りの巡査部長、庄司専太郎であった。一年ほど前から、署長の紹介で明智のところへ出入りするようになり、何か事件が起こると智恵を借りにきた。 「ところで佐藤がこの二人のうちどちらかにちがいないというコックの関根と、不良の青木に当たってみたのですが、どうも思わしくありません。両方ともアリバイははっきりしないのです。家にいなかったことは確かですが、といって、現場付近をうろついたような聞き込みも、まだないのです。ちょっとおどかしてみましたが、二人とも、どうしてなかなかのしたたかもので、うかつなことは言いません」 「君の勘では、どちらなんだね」 「どうも青木がくさいですね。コックの関根は五十に近い年配で、細君はないけれども、婆さんを抱えていますからね。なかなか親孝行だって評判です。そこへ行くと青木ときたらまったく天下の風来坊です。それに仲間がいけない。人殺しなんか朝めし前の連中ですからね。それとなく口裏を引いてみますとね、青木は確かに美弥子を恨んでいる。惚れこんでいただけに、こんな扱いを受けちゃあ、我慢ができないというのでしょうね。ほんとうに殺すつもりだったのですよ。それが手先が狂って、叫び声を立てられたので、つい怖くなって逃げ出したのでしょう。関根ならあんなヘマはやりませんよ」 「二人の住まいは?」 「ごく近いのです。両方ともアパート住まいですが、関根は坂下町、青木は菊井町です。関根の方は佐藤のところへ三丁ぐらい。青木の方は五丁ぐらいです」 「兇器を探し出すこと、関根と青木のその夜の行動を、もう一歩突っ込んで調べること、これが常識的な線だね。しかし、そのほかに一つ、君にやってもらいたいことがある」  明智の眼が笑っていた。いたずらっ子のように笑っていた。庄司巡査部長はこの眼色には馴染みがあった。明智は彼だけが気づいている何か奇妙な着眼点に興じているのだ。 「犯人が逃げるとき、窓のガラス戸が庭に落ちて、ガラスが割れたんだね。そのガラスのかけらはどうしたの?」 「佐藤のうちの婆やが拾い集めていたようです」 「もう捨ててしまったかもしれないが、もしそのガラスのかけらを全部集めることができたら、何かの資料になる。一つやってみたまえ。ガラス戸の枠に残っているかけらと合わせて、復原してみるんだね」  明智の眼はやっぱり笑っていた。庄司も明智の顔を見てニヤリと笑い返した。明智のいう意味がわかっているつもりであった。しかし、ほんとうはわかっていなかったのである。  それから十日目の午後、庄司巡査部長はまた明智を訪問していた。 「もう御承知でしょう。大変なことになりました。佐藤寅雄が殺されたのです。犯人はコックの関根でした。たしかな証拠があるので、すぐ引っ張りました。警視庁で調べています。私もそれに立ち会って、いま帰ったところです」 「ちょっとラジオで聴いたが、詳しいことは何も知らない。要点を話してください」 「私はゆうべ、その殺人現場に居合わせたのです。もう夜の九時をすぎていましたが、署から私の自宅に連絡があって、佐藤が、ぜひ話したいことがあるから、すぐ来てくれという電話をかけてきたことがわかったのです。私は何か耳よりな話でも聞けるかと、急いで佐藤の家に駈けつけました。  主人の佐藤と美弥子とが、奥の座敷に待っていました。美弥子は二、三日前に、傷口を縫った糸を抜いてもらったと言って、もう外出もしている様子でした。ふたりとも浴衣姿でした。佐藤は気色ばんだ顔で、『夕方配達された郵便物の中に、こんな手紙があったのを、つい今しがたまで気づかないでいたのです』といって、安物の封筒から、ザラ紙に書いた妙な手紙を出して見せました。  それには、六月二十五日の夜(つまりゆうべですね)どえらいことがおこるから、気をつけるがいいという文句が、実に下手な鉛筆の字で書いてありました。どうも左手で書いたらしいのですね。封筒もやはり鉛筆で同じ筆蹟でした。差出人の名はないのです。  心当たりはないのかと聞くと、主人の佐藤は、筆蹟は変えているけれども、差出人は関根か青木のどちらかにきまっていると断言しました。それからね、実にずうずうしいじゃありませんか、やつらは二人とも、美弥子のお見舞いにやってきたそうですよ。もしどちらかが犯人だとすれば、大した度胸です。一と筋繩で行くやつじゃありません」      3 「そんなことを話しているうちに三十分ほどもたって、十時を少しすぎた頃でした。美弥子が『書斎にウィスキーがありましたわね、あれ御馳走したら』と言い、佐藤が縁側の突き当たりにある洋室へ、それを取りに行きましたが、しばらく待っても帰ってこないので、美弥子は『きっと、どっかへしまい忘れたのですわ。ちょっと失礼』といって、主人のあとを追って、洋室へはいっていきました。  私は部屋のはしの方に坐っていましたので、ちょっとからだを動かせば、縁側の突き当たりの洋室のドアが見えるのです。あいだに座敷が一つあって、その前を縁側が通っているので、私の坐っていたところから洋室のドアまでは五間も隔っていました。まさかあんなことになろうとは思いもよらないので、私はぼんやりと、そのドアの方を眺めていたのです。  突然『アッ、だれか来て……』という悲鳴が、洋室の方から聞こえてきました。ドアがしまっているので、なんだかずっと遠方で叫んでいるような感じでした。私はそれを聞くと、ハッとして、いきなり洋室へ飛んで行ってドアをひらきましたが、中はまっ暗です。『スイッチはどこです』とどなっても、だれも答えません。私は壁のそれらしい場所を手さぐりして、やっとスイッチを探しあてて、それを押しました。  電灯がつくと、すぐ眼にはいったのは、正面の窓際に倒れている佐藤の姿でした。浴衣の胸がまっ赤に染まっています。美弥子も血だらけになって、夫のからだにすがりついていましたが、私を見ると、片手で窓を指さして、何かしきりと口を動かすのですが、恐ろしく昂奮しているので、何を言っているのかさっぱりわかりません。  見ると、窓の押し上げ戸がひらいています。曲者はそこから逃げたにちがいありません。私はいきなり窓から飛び出して行きました。庭は大して広くありません。人の隠れるような大きな茂みもないのです。五、六間向こうに例のコンクリートの万年塀が白く見えていました。曲者はそれを乗り越して、いち早く逃げ去ったのでしょう。いくら探しても、その辺に人の姿はありませんでした。  元の窓から洋室に戻りますと、私が飛び出すとき、入れちがいに駈けつけた婆やと女中が、美弥子を介抱していました。美弥子には別状ありません。ただ佐藤のからだにすがりついたので、浴衣が血まみれになっていたばかりです。佐藤のからだを調べてみると、胸を深く刺されていて、もう脈がありません、私は電話室へ飛んで行って、署の宿直員に急報しました。  しばらくすると、署長さんはじめ五、六人の署員が駈けつけてきました。それから、懐中電灯で庭を調べてみると、窓から塀にかけて、犯人の足跡が幾つも、はっきりと残っていたのです。実に明瞭な靴跡でした。  けさ、署のものが関根、青木のアパートへ行って、二人の靴を借り出してきましたが、比べてみると、関根の靴とピッタリ一致したのです。関根はちょうど犯行の時間に外出していて、アリバイがありません。それで、すぐに引っぱって、警視庁へつれて行ったのです」 「だが、関根は白状しないんだね」 「頑強に否定しています。佐藤や美弥子に恨みはある。幾晩も佐藤の屋敷のまわりを、うろついたこともある。しかしおれは何もしなかった。塀を乗りこえた覚えは決してない。犯人はほかにある。そいつがおれの靴を盗み出して、にせの足跡をつけたんだと言いはるのです」 「フン、にせの足跡ということも、むろん考えてみなければいけないね」 「しかし、関根には強い動機があります。そして、アリバイがないのです」 「青木の方のアリバイは?」 「それも一応当たってみました。青木もその時分外出していて、やっぱりアリバイはありません」 「すると、青木が関根の靴をはいて、万年塀をのり越したという仮定もなり立つわけかね」 「それは調べました。関根は靴を一足しか持っていません。その靴をはいて犯行の時間には外出していたのですから、その同じ時間に青木が関根の靴をはくことはできません」 「それじゃあ、真犯人が関根の靴を盗んで、にせの足跡をつけたという関根の主張は、なり立たないわけだね」  明智の眼に例の異様な微笑が浮かんだ。そして、しばらく天井を見つめてタバコをふかしていたが、ふと別の事を言い出した。 「君は、美弥子が傷つけられた時に割れた窓ガラスのかけらを集めてみなかった?」 「すっかり集めました。婆やが残りなく拾いとって、新聞紙にくるんで、ゴミ箱のそばへ置いておいたのです。それで、私はガラス戸に残っているガラスを抜き取って、そのかけらと一緒に復原してみました。すると、妙なことがわかったのです。割れたガラスは三枚ですが、かけらをつぎ合わせてみると、三枚は完全に復原できたのに、まだ余分のかけらが残っているのです。婆やに、前から庭にガラスのかけらが落ちていて、それがまじったのではないかと聞いてみましたが、婆やは決してそんなことはない。庭は毎日掃いているというのです」 「その余分のガラスは、どんな形だったね」 「たくさんのかけらに割れていましたが、つぎ合わせてみると、長細い不規則な三角形になりました」 「ガラスの質は?」 「眼で見たところでは、ガラス戸のものと同じようです」  明智はそこで又、しばらくだまっていた。しきりにタバコを吸う、その煙を強く吐き出さないので、モヤモヤと顔の前に、煙幕のような白い煙がゆらいでいる。      4  明智小五郎と庄司巡査部長の会話がつづく。 「佐藤の傷口は美弥子のと似ていたんだね」 「そうです。やはり鋭い両刃の短刀らしいのです」 「その短刀はまだ発見されないのだろうね」 「見つかりません。関根はどこへ隠したのか、あいつのアパートには、いくら探しても無いのです」 「君は殺人のあった洋室の中を調べてみたんだろうね」 「調べました。しかし洋室にも兇器は残っていなかったのです」 「その洋室の家具なんかは、どんな風だったの? 一つ一つ思い出してごらん」 「大きな机、革張りの椅子が一つ、肘掛け椅子が二つ、西洋の土製の人形を飾った隅棚、大きな本箱、それから窓のそばに台があって、その上にでっかいガラスの金魚鉢がのっていました。佐藤は金魚が好きで、いつも書斎にそのガラス鉢を置いていたのです」 「金魚鉢の形は?」 「さし渡し一尺五寸ぐらいの四角なガラス鉢です。蓋はなくて、上はあけっぱなしです。よく見かける普通の金魚鉢のでっかいやつですね」 「その中を、君はよく見ただろうね」 「いいえ、べつに……すき通ったガラス鉢ですから、兇器を隠せるような場所ではありません」  その時、明智は頭に右手をあげて、指を櫛のようにして、、モジャモジャの髪の毛をかきまわしはじめた。庄司は明智のこの奇妙な癖が、どういう時に出るかを、よく知っていたので、びっくりして、彼の顔を見つめた。 「あの金魚鉢に何か意味があったのでしょうか」 「僕はときどき空想家になるんでね。いま妙なことを考えているのだよ……しかし、まったく根拠がないわけでもない」  明智はそこでグッと上半身を前に乗り出して、内証話でもするような恰好になった。 「実はね、庄司君、このあいだ君の話を聞いたあとで、うちの小林に、少しばかり聞きこみと尾行をやらせたんだがね、佐藤寅雄には美弥子の前に細君があったが、これは病気でなくなっている。子供はない。そして、佐藤は非常な財産家だ。それから、君は今、青木が美弥子を見舞いにきたといったね。ちょうどそのとき、小林が青木を尾行していたんだよ。物蔭からのぞいていると、美弥子は青木を玄関に送り出して、そこで二人が何かヒソヒソ話をしていたというのだ。まるで恋人同士のようにね」  庄司は話のつづきを待っていたが、明智がそのままだまってしまったので、いよいよいぶかしげな顔になった。 「それと、金魚鉢とどういう関係があるのでしょうか」 「庄司君、もし僕の想像が当たっているとすると、これは実にふしぎな犯罪だよ。西洋の小説家がそういうことを空想したことはある。しかし、実際にはほとんど前例のない殺人事件だよ」 「わかりません。もう少し具体的におっしゃってください」 「それじゃあ問題の足跡のことを考えてみたまえ。あれがもしにせの靴跡だとすれば、必ずしも事件の起こったときにつけなくても、前もってつけておくこともできたわけだね。それならば青木にだってやれたはずだ。すきを見て関根のアパートから靴を盗み出し、佐藤の庭に忍びこんで靴跡をつけ、また関根のところへ返しておくという手だよ。関根のアパートと佐藤の家とは三丁しか隔たっていないのだから、ごくわずかの時間でやれる。それに、たとえ見つかったとしても、靴泥棒だけなれば大した罪じゃないからね。もう一つ突っ込んでいえば、にせの足跡をつけたのは、青木に限らない。もっとほかの人にもやれたわけだよ」  庄司巡査部長は、まだ明智の真意を悟ることができなかった。困惑した表情で明智の顔を見つめている。 「君は盲点に引っかかっているんだよ」  明智はニコニコ笑っていた。例の意味ありげな眼だけの微笑が、顔じゅうにひろがったのだ。そして、右手に持っていた吸いさしのタバコを灰皿に入れると、そこにころがっていた鉛筆をとってメモの紙に何か書き出した。